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拍手が鳴り響く中、なんて胸糞の悪い話なんだ、とペイトンは思った。しかし、下手な感想を言って前回みたいにアデレードの機嫌を損ねたらまずい、と口を噤んでいた。
チラッと隣を見る。
アデレードは真面目な顔で誠心誠意手を叩いている。どういう感想を抱いたかは全く汲み取れない。
腕時計は確認すると三時を少し回ったところだった。
「チケットのお礼に夕飯をご馳走しますね。七時に予約をいれてあります」
とアデレードに宣言されている。律儀というのか、なんというか。ペイトンは金目当てに寄ってくる女性を嫌悪しているから、アデレードの申し出は好感がもてる行為のはずだ。が、実際は非常に納得できない思いを抱えていた。この件に関して、
「いちいちお礼をするなんて可愛げがないんじゃないか。『有難うございます』で済ませればいいのに」
とポロッとジェームスに愚痴を言うと、
「対等な友人関係なら、チケット代を払うか、それに見合う礼をするのは当然と思いますが」
とトンチンカンな答えが返ってきた。
「友人と夫婦は違うだろ」
「甘えて欲しいなら、そうお伝えしてみたらいかがです? 奥様は契約通り距離を取って接しているのに、それを可愛げがないと言われても心外でしょう」
「別に甘えて欲しいなんて思っていない。夫婦としてどうかと思っただけだ」
「夫婦と言ってもいろいろありますし、問題ないと思います」
ジェームスに淡々と諭されて、それ以上食い下がることができなかった。
(じゃあ、お前は妻に夕食を奢らせるのか、と言ってやればよかった)
ペイトンが今更ながらくさくさ思っている間に、カーテンコールが終わり拍手が鳴り止んだ。
再びアデレードを確認する。真面目な顔でぼんやり舞台を眺めたままでいる。余韻を壊すのは無粋だと考え、こちらも同様に無言を通していると、ロイヤルボックス席の優先システムにより一番に出口へ誘導された。案の定、外はまだまだ陽が高く、夕食まで時間もたっぷりある。
「公園でも散歩してみるか?」
劇場前の王立公園に視線を流してペイトンは提案した。季節ごとに折々の花が咲き乱れる美しい公園で、春と秋に王家主催のガーデンパーティーが開かれる場所だ。
「そうですね。天気もいいですし」
「園内にカフェがあるんだ。君の好きな甘いものもあったんじゃないかな」
「え! 本当ですか? 公園の中に? ケーキあります?」
「あ、あぁ。多分」
アデレードが急に乗り気になるので、夕飯前なのに食べて大丈夫か、とペイトンは育児中の乳母みたいなことを思いつつ、公園の入り口へとアデレードを誘った。
春うらら。
心地よい風が吹く休日の昼下がり。
家族連れやカップルの姿が多く目についた。みんな笑っている。
ペイトンは、極力女性と二人きりになることを避けてきた経験上、それでも二人になるケースでは、大概猛烈なアピールを受けてきた。しかし、当然ながらアデレードにそんな素振りは微塵もない。公園に入るとすぐエスコートしていた手を放して、今は並んで歩いている。人ごみの多い場所でもないし、道案内中でもないので、エスコートを完了させて別段マナー違反ではない。ただ、腕に纏わりつかれて迷惑した記憶はあるが、相手から離れられたことがなかったので衝撃を受けてしまった。
―― 奥様は旦那様のことを全く好きではありません。
ジェームスの言葉が今更じわじわ染みてくる。
(まぁ、別に構わないが)
慣れない対応にちょっと戸惑っているだけ、とペイトンは気持ちを切り替えた。
「予想外の結末でしたね」
「え」
「ハリス公爵が主人公というのも意外でした」
「あぁ……あんな卑怯な男の話だとは思わなかった。すまない」
観劇直後の胸糞悪さが蘇って半ば無意識に謝罪が出た。
「旦那様は、いつもそれ言いますね」
アデレードが笑う。確かに謝った理由が自分でもよくわからない。強いて言えば、楽しく過ごして欲しかったのに、劇の内容が不快だったからだが。
「面白かったですよ。私は」
「……それならいいが」
「旦那様は気に入らなかったみたいですね」
「気に入らないわけじゃないが……ただ、他人の手紙を破り捨てるなんて人道に反する。あんな男が幸せになるなんて納得できないだけだ」
「恋愛は上手いことやった者勝ちなところがありますからね」
アデレードが常識を語るように言う。そんなのは聞いたことがない。
「それ、出典は何処から?」
「経験です」
「……上手いことやったのか」
「やられた方です」
「そ、そうか。すまない」
「いえ」
そうだった。彼女は失恋してここへ来たのだった、と心臓が早鐘を打った。が、アデレードが「どんな会話ですかこれ」とけらけら笑い出したので、嫌な汗が消える。
「あれがカフェですか?」
ウッドデッキにいくつもパラソルが並んでいる。巨大な楡の木がカフェに並列して植っているため、パラソルがなくとも十分日除になっているように見えた。
「趣ある店ですねぇ」
近くまで行くと外壁を覆う蔦の葉を見つめてアデレードは言った。
休日の陽気な午後だというのに、待つことなく席に通されたのは幸運と言うべきか。
ペイトンは珈琲を、アデレードはオレンジジュースと白いチーズケーキを注文した。頼んだ品が運ばれてくると、アデレードは非常に機嫌良く食しはじめた。それから、
「旦那様はハリス公爵が幸せになるのは許せないと仰いましたが、本当にラウラとハリス公爵は上手くいったんでしょうか」
アデレードがまた月桂樹の話題を振るので「無難な感想を述べねば」とペイトンに再びの緊張が走る。が、
(いや、ただの感想だろう)
と思い直した。自分は何をそんなにびくびくしているのか。大体、契約は負け確定なのだから、無駄な努力はせず遠慮なくがつんと対応すると決めたはずではなかったか。どういうわけかアデレードを前にすると決意が鈍る。正直、非常にやりづらい。アデレードがおかしい人間だから、触らぬ神に祟りなしといった防衛反応が働くのではないか。
(いや、ただの人間の小娘じゃないか)
ペイトンは自分を鼓舞するように一旦珈琲を口にした後、
「今は上手くいっても、そのうちダリルが迎えにきて破局するんじゃないかな。最後に会って話したいという願いが叶えられていない以上、ダリルは諦めないだろう。ハリスが邪魔していることは察していたし、手紙が届いていない可能性も十分考慮するはずだ。悪事がバレて振られるなんて無様すぎる。ハリスはラウラを本当に好きなら潔く身を引いてやるべきだった。僕ならそうする」
と思うままに答えた。
「どうしてラウラがダリルを選ぶとわかるんですか? 月桂樹の中ではラウラの気持ちは一切明言されていませんでしたよね」
「え?」
ラウラはあれだけダリルに執心していたじゃないか。ペイトンはアデレードの疑問に疑問符を飛ばした。
「ラウラの元に手紙が届いてダリルに会っていたら、案外サラッと復縁を断っていたかもしれません。一番いいのは、ハリス公爵が、ラウラに告白してダリルと寄りを戻さないで欲しいって懇願することだったんじゃないですか」
「……それを言うならハリスが振られる可能性もあると思うが」
「それはそうですね」
アデレードが何食わぬ顔で言う。
(そうですねって……)
ペイトンは適当にあしらわれたような不快感を覚えた。特に腹の立つ返答ではない気がするが、ひどくもやもやする。アデレードは、オレンジジュースを飲んで、チーズケーキを食べて「チーズケーキを食べた後だから酸っぱく感じる。失敗した」とぶつぶつ呟いている。このまま黙っていれば、多分この話は終わる。それが賢明な気がしたが、
「矛盾していないか?」
ペイトンは、喉に刺さった小骨を早く抜き取りたい衝動に似た気持ちで言った。
「矛盾ですか?」
「振られる可能性があるのに、告白しろと言うことだよ」
アデレードはよくわからない顔をする。惚けている様子はない。じゃあ何故理解できないんだ、という感情が湧き上がる。
「横恋慕した上に縋りつくなんてみっともない。一番良い結末は、自分の気持ちよりラウラを優先して身を引くことだった。そしたら、あんなクズに成り下がらずに、最後にハリスの株も上がっただろう。ラウラの心にも良い人として残ったはずだ」
「みっともないですか?」
「え?」
アデレードは笑った。陽気な感じではなく、だからといって嘲笑でもない。胸が締め付けられる部類の何か。
「これは私の感想ですけど、ハリス公爵は結局ラウラに告白していないんじゃないですか。最後の独白の部分も、そばにいるような口ぶりでしたが、恋人とも結婚したとも明言されていない。ハリス公爵は、母親のアンネロッサのことが心に根深く残っていて、ラウラに告白できなかったのだと思います。アンネロッサはカルロと元婚約者との密会を知った後『もう二度と二人で会わないで欲しい』って懇願していた。でも、約束を反故にされて、カルロは元婚約者と一緒に亡くなった。あの懇願は、心を差し出したようなものだったのに、踏み躙られて精神を病んでしまった。ハリス公爵は、自分が似たような立場になって、ラウラに告白できなくなったのだと思います。母親みたいに心を潰されるのが怖かったから。だから、本当の問題はダリルの存在ではなく、ハリス公爵が自分の気持ちを差し出す勇気がないってことです。まぁ、別に誰でもそういう恐怖はあるし、世の中そんな恐怖を克服しなくても『一目会った時からお互い大好き』みたいな関係もありますし、恋愛だけが全てじゃないし、無理にリスクを冒す必要もないですけど。ただ、私は、ハリス公爵に頑張って告白して欲しいかったです。そして、雲一つなく快晴! みたいなハッピーエンドで終わって欲しかったです」
アデレードは一息につらつら言った。随分ハリスに好意的で驚く。母親のようになりたくないなら、それこそ潔く身を引くべきだったのでは? としかペイトンには思えない。
「……君は、泥臭いのが好きなんだな」
勿忘草ではダリルにしつこく思いを寄せるラウラに肩入れしていたし、今回はどうみても邪魔者のハリスを応援している。受け入れられないな、と心底思う。
「そうですね。旦那様とは逆です」
「僕と?」
「嫌いなんですよね? 跪いて愛を乞うみたいなの。縋りついてみっともないから」
アデレードが確認するように言う。だから「その通りだ」と頷こうとしたけれども上手く返事ができなかった。嫌な感覚が全身を走る。この話の行き着く先には碌でもない記憶しかない。誰にも知られたくないことだ。
無言のままでいると、アデレードはグラスの底に僅かに残るオレンジジュースに視線を移した。だが、ふいに顔を上げると、
「とはいえ現実的には私もその意見に同意します」
誰に向けてかわからない悼むみたいな笑顔で言った後、こちらが息を呑むより先に、
「おかわりいります? 私は葡萄ジュースを頼みます。旦那様には桃のジュースをお勧めしますよ。あ、私が払うので遠慮なく」
とへらへら笑いだした。自分は葡萄を頼むくせになぜこっちには桃を勧めるのか。大体、ここはこちらが出すに決まっている。ちょっと失礼ではないか、と叱ってやろうと口を開いたが、
「じゃあ、それをお願いするよ」
ついて出た言葉は思考とは違った。よくわからない。
「良かったです」
アデレードが呟く。一体何が良かったのか。会話として成立していないだろうに。ただ、ウェイターを呼び寄せて機嫌良く注文している様子に、確かに良かったかもしれない、とペイトンは思った。
月桂樹も、勿忘草に次いでとんでもない話だった。ラウラは結局誰と結ばれるのか。この先、更に続編が制作されたりするのだろうか。しかし、もう観に来ることはない。続編が開幕する頃には、白い結婚期間は満了している。きっとアデレードは、もう傍にはいないから。




