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▽▽▽
――アディ、僕も一緒に謝ってあげるから、セシリア様のところへ行こう。
――アディは悪くないもん。お姉様がずるいんだもん。
――でも、あれはセシリア様が卒業式につける大切なブローチだろ? 取ったらダメだよ。
――取ってないもん! ちょっと借りただけだもん!
――アディも沢山ブローチ持っているじゃないか。
――青は持ってない! うわぁぁぁん。
――わかった。だったら、
パチッと目を開けると見知らぬ天蓋が目についた。しばらくぼんやりしていると見知らぬ天蓋ではなく四月前から使用している寝台に付けられている天蓋だと理解し、深く息を吐いた。
さっきの夢は事実だった。
多分、四歳か五歳くらいの頃だ。当時、アデレードは、兎に角、セシリアの真似をしたがった。セシリアが持っているものはなんでも欲しがり、許可なく部屋に入って勝手に使ったりしていた。その度セシリアに、これでもかと言うくらいに怒られた。
「今度やったら許さないからね!」
「わかった」
その時は神妙な顔で頷くが、三日も経てばケロッとして全部なかったかのように、またセシリアの部屋に入っていく。セシリアは半ば諦めて、ある程度はアデレードの好きにさせるようになった。それでも、時折、逆鱗に触れて大きな雷を落とされた。全面的にアデレードが悪いので、びぇびぇ泣いて部屋に閉じこもっても、母にも兄にも放置されていた。慰めてくれるのは、父かレイモンドだけだった。そして、父は帰宅が遅いため、大半の場合その役目はレイモンドが担った。
「レイ君、アデレードは部屋から出てこないのよ。折角遊びに来てくれたのにごめんなさいね。ほら、おやつを用意しているから向こうで食べましょう」
「……あの、アディも一緒でいいですか? 僕が呼んできます」
下位貴族の子供になればなるほど、階級意識について、幼い頃から徹底的に叩きこまれる。レイモンドも例外ではなく、アデレードに対しては屈託なく接していたが、物心ついて以降はバルモア家の他の人間には馴れ馴れしい態度は一切見せなかった。そのレイモンドが全身で怒りを露わにしているセシリアに対して「アデレードを許してやってほしい」と頼むことはどれほど勇気がいることか。拗ねて籠城するアデレードを説得し、おずおずした様子で自分の元に謝罪にくるレイモンドを、流石のセシリアも撥ねつけることはできず、アデレードを許してしまうのが常だった。家族全員がレイモンドの優しさに脱帽した。けれど、
(私は、お姉様がレイモンドばっかり贔屓しているって思っていたのよね)
子供の頃とはいえ、自分のめちゃくちゃな思考にアデレードは寝台の上で身悶えた。
レイモンドだって同い年だったのに、何故自分だけあんな風だったのか。本能の赴くままに行動して迷惑ばかり掛けていた。レイモンドが後からついてきてくれるから大丈夫。迷子になっても平気。レイモンドとはずっと一緒だから、と自分勝手な思考の中にいた。
(レイモンドは、それが嫌だったのかな)
思い返せばレイモンドが割りを食いすぎている。レイモンドを酷い酷いと思っていたけれど、酷い扱いをされても有り余る恩を既に貰っていたのだ。冷たくされた時点で察して、もっと早く離れてあげるべきだったのではないか。
レイモンドが変わってしまったのはいつからだろう。覚えていない。わからない。もしかして何かきっかけがあったのではないか。自分はそれに全く気づいていない。それはつまり、自分のことばっかりでレイモンドの気持ちを無視していたからではないか。もっと敏感な人間だったら、或いはレイモンドに迷惑を掛けていなかったら、結果は違っていただろうか。
(私が悪かったのかな……)
昨夜はルグランでの出来事を思い出してムカムカしたが、今朝は昔の夢を見たせいで自省の気持ちが巡る。幼い日々には、幸せな記憶しかない。あの頃みたいに戻りたかった。ずっと、戻れると信じていた。
レイモンドは誘いを断る口実に「学校を卒業するまでに成果をださなければならない。それまでは遊んでいる暇なんてない」とよく言っていたから「卒業まで待てば」と思っていた。
でも、それももう全部なくなった。もしルグランで我慢していたら、今もいつも通りの日常で、卒業したら本当に、また昔みたいに幸せに暮らせていたのだろうか。絶縁したのは浅慮だったのかもしれない。いや、メイジーがいるのだから、期待するだけ無駄。大体、もう未練はない。多分。でも……。これまで考えずにいたことが、一気に溢れてくる。ぐらぐら揺れてしまう。不安になる。これは未練なのか、執着なのか。こんな風になりたくないから結婚までして隣国に来たのに。
全部ペイトンのせいだ。昨夜は、同情されて文句を言うタイミングを逃してしまったが、そもそもペイトンが余計なことを聞かなければ良かったのだ。
(なんか、段々腹が立ってきたわね。今更結婚した理由なんて聞いてどういうつもりなわけ?)
興味本位で人の傷口に塩を塗るような真似をするな。が、一夜明けてそれを蒸し返してペイトンにぶつけるのは、人として問題ある気がする。ただの八つ当たりになってしまう。
アデレードはやり場のない気持ちを持て余して寝台の上で、のたうち回った。
「何をやっているんですか。はしたない」
バーサの声に我に返る。朝の支度時は「起こすこと」が目的であるため、返事がなくとも軽いノックと共に入室してくる。暴れていたので気づけなかった。
「そのような奇行は控えてください。バルモア家の沽券に関わりますよ」
「人前ではちゃんとやるわよ」
「いざという時、普段の行いが出るものです」
そんなヘマはしない、とアデレードはのっそり気怠く起き上がった。
「シャキッとしてください。早く顔を洗って着替えて、旦那様をお待たせしてはいけませんよ」
「別に一緒に食べる約束なんてしてない」
「またそんなことを言って」
バーサがやれやれと息を吐くが、本当に一緒に食べる約束などしていない。だって結婚して一週間は放置されていたのだし、その時から、自分は実家にいた時と同じ時刻に食事を取っていた。今はたまたま向こうと重なっているだけだ。ただ、以前はジェームスがポイントを付けるために傍に控えていたが、最近は配膳するメイド以外は二人になっている。ペイトンが暴言を吐かないと確信したからだろうか。全く気にしたことがなかったが、バーサの言うように、ペイトンは契約を守るため食事時間を合わせてくれているのかもしれない。しかし、こっちは嫌う設定なのだから「あんたなんかの顔を見て食事なんてしたくない!」と言っても全然許されるのでは? とアデレードは不意に思った。
(まぁ、そんな非常識なことは言わないけど)
そう考えるとやはり初対面で「君を愛することはない」と発言したペイトンは、ありえないくらい失礼極まる無礼を自分に働いたのだ、と今更ながら腹が立つ。
「ほら、いつまでもゴロゴロしてないで!」
バーサが最近なんとなくペイトン寄りなことも面白くない。しかし、今この場で文句を言うとバーサは益々ペイトンの肩を持つ気がする。アデレードは、仕方なく、のそのそ顔を洗い服を着替えて、朝食へ向かうことにした。
▼▼▼
アデレードは朝は八時半に、夜は十九時に食事を取る。その為、ペイトンは大体アデレードが来るより五分前に食堂に向かう。アデレードに気を遣っているのではなく、自分の生活スタイルは元々これであり、そこにアデレードが介入している体を貫きたいため、という呆れた理由だった。だから、今朝もジェームスとのやりとりで時間を費やしたにも関わらず、いつも通りランニングをしてシャワーを浴びてから食堂へ向かった。案の定、時間は八時半を五分ほど過ぎた。それで「しまった!」と慌てて階下へ下りたが、部屋の前まで来ると、
(いつも僕の方が待っているのだから、たまには彼女を待たせるくらいいいんじゃないか)
と幼稚な考えが湧いた。焦る気持ちを落ち着かせて深呼吸を一つして室内へ踏み込む。食堂の扉は部屋の中央にあり、長方形のテーブルが入り口と並行に置かれている。入室するとすぐにアデレードを確認できた。サラダを頬張っているところを。
「……先に食べていたのか……」
ペイトンは思わず心の声を漏らした。
確かに時刻は八時四十分になろうとしている。十分の遅刻なわけだが、自分はいつも早めに来てアデレードを待っている。アデレードがテーブルに着いたら、すぐに食事を運ぶように指示しているから、メイドは自分不在でも先に用意したのだろう。それもそれでどうかと思うが、それより何より「食べるのは待つだろ」という感情が脳内を支配した。そしてそのまま脊髄反射みたいに口から溢れでた。嫌味っぽかったか、とペイトンの後悔より先に、
「五分以上も待っていたんですが!」
アデレードが語調を強めて言った。途端に背中に汗が流れる。
「……いや、違うんだ」
何も違わないのだが、ペイトンは自分の意思とは裏腹にすぐさま謝罪したい衝動に駆られて、
「その……すまない」
と実際すぐに頭を下げた。しかし、アデレードはロールパンを引きちぎり、むしゃむしゃ食べるだけで返事をしない。
(確かに遅れてきたし嫌味を言ったことは悪かったが、普通無視するか?)
ペイトンはあっけに取られて何も言えなくなった。アデレードはその間も、ペイトンがいないかのように食事を進める。ペイトンはどう対処してよいかわからず、おずおず席に着いた。メイドが食事を運んでくるが、生きた心地がしない。が、
(いや、別に僕はさほど非常識なことは言ってないだろう)
とペイトンは突如自分を奮い立たせて、渋い顔で、
「君、」
そんなに怒るようなことを僕は言ったか? と続ける前に、
「何!」
とまたしてもアデレードにひと噛みに合い、完全に戦意を喪失した。一気に沈黙が広がる。しかし、今度はアデレードが口を開いた。
「なんですか?」
「え?」
「なにか言いかけたでしょう?」
アデレードに詰め寄られてペイトンは目を泳がせた。さっき発言しかけたことをそのまま口にすれば血祭りに遭うことは間違いない。他の話題はないかと必死に探すが頭が白くなって思い浮かばない。それでも辛うじて、
「あ、あぁ、前に君が続編を見たいと言っていた観劇のチケットが手に入りそうなんだ」
と言うことができた。ちゃんと入手してから話をしようと考えていたから、若干バツが悪い。
「え! 本当ですか?」
しかし、アデレードが態度を軟化させたので、
(なんて現金な小娘なんだ)
とペイトンは内心悪態をつきつつ安堵した。
「あぁ、初日の昼間の公演になるが……」
観劇は夜公演をメインと考える貴族は多い。夕方から着飾って劇場に足を運び、鑑賞後はゆったりディナーを楽しむ。昼公演は忙しない印象がある。特に男女のデートでは、昼間の公演を観に行くのは野暮だと嘲笑されかねない。
「ということは本当の初回公演ってことですよね。有難うございます。お礼しますね」
だが、アデレードの反応は違った。「一番乗りだ!」とは流石に口にはしないが、明らかにそういう感じで喜んでいる。
(本当に子供だな……)
あれこれ胃が痛かったペイトンは拍子抜けして、笑いまで湧き出しそうになった。しかし、
(淑女としてはあるまじき振る舞いだろう)
と敢えて自分を戒めて律した。
そうだ。どう考えてもおかしい。こんな変な人間は全くもって自分の好みではない。そうだ。そうだ。この小娘は至る所であちこちおかしいのだから、理論的に考える為、異常な点を点数化してつけてやろう。そしたら自分も冷静になれる。数値化すれば気の迷いも解消される。ペイトンは、良案を閃いたみたいに晴れやかな気持ちになった。これでアデレードを確実に嫌いになれるはずだ、と。
(取り敢えずは、チケットはどんな手を使っても入手しよう)
こんなに喜んでいるんだから行けなくなったら可哀想だ、と思う気持ちが何かについては一切考えなかった。




