SIDE2-6
***
エイダンが執務室に入ると、丁度メイドが紅茶を配膳しているところだった。
レイモンドがすかさず立ち上がり、
「先触れもなく申し訳ありません」
と告げる。顔色が悪い。いや、この青年の表情から血色がなくなったのはもう随分前だろう。庭先で転げ回り息を切らせて走っていた幼い頃と比較すれば「成長した」の一言で片付けられてしまうものだが。
「いや。構わないよ。座りなさい」
エイダンは促して、自分も向かいのソファに腰を下ろした。
時刻は、夕方五時を回っている。
エイダンは今日は仕事を休んで、アデレードを駅まで見送りに行き、そのまま帰宅した。平日だからレイモンドは登校していたはずだ。姿勢を正し、両膝に拳を置いたきちんとした所作で座っている。しかし、右手の親指で人差し指を繰り返し引っ掻いている仕草から緊張が伝わった。
さて、こちらから話を切り出した方がよいのか出方を待つか。
アデレードは学園へ入学した頃から、レイモンドの話をあまり話さなくなった。年頃になった娘が、好きな異性の話を、父親に明け透けに喋る方が珍しい。だから、こちらからもあれこれ尋ねたりしなかった。姉のセシリアは、強引に話を聞き出していたようだが、恐らくそれも全てを把握していたわけではない。にも関わらず、セシリアは、アデレードとレイモンドとの仲を反対するようになった。セシリアから「お父様からも別れるように言い聞かせるべきよ」と説得されることが何度もあった。確かにセシリア経由で聞きかじる話は酷いものだった。しかし、自分の知るレイモンドとは乖離がありすぎて俄かに信じ難かった。自分には、侯爵家の当主として長年務めてきた自負がある。人を見る目はあるつもりだ。
「卒業するまでに独り立ちできる基盤を作り結果を出します。そしたらアデレードを妻に頂けますか」
レイモンドのあの言葉に嘘偽りはなかった。バルモア家に取り入りたいから、という理由で近づいてくる人間を幾人も見てきたが、その手の輩とは明らかに異なった。それで結局、しばらく様子を見ようと、アデレードの好きにさせてきた。しかし、結果がこれなのだから、もっと積極的に介入しておけば良かったと後悔の念が拭えない。
「取り敢えず、お茶が冷める前に一息ついたらどうだね」
メイドが退室したのを見計らい、ティーカップに視線を下げてエイダンは言った。
しかし、レイモンドは微動だにしない。無理強いしたいわけでもないので、しつこく勧めることはしなかった。エイダンが、自分のカップに手を伸ばすと、正面ですうっと息を吸い込む音がした。
「アデレードが、結婚したと聞きました……」
レイモンドが硬い声で言った。レイモンドの母であるポーラ夫人には、アデレードの口から、前もって直接話をしていたようだが、レイモンドが今日になって来訪してきたということは、情報源は母親からではないのだろう。この結婚は白い結婚であるため、周囲に公明正大に報告はしていないし、挙式も行われない。しかし、アデレードは親しい友人には話をしていたし、休学すればその原因について噂が広まるのは予測できる。
「あぁ、今朝嫁いで行ったよ」
エイダンはなるべく軽い感じで言ったが、レイモンドの顔が強張る。キュッと一本に結ばれた唇が何度か開き掛けたが言葉は発しなかった。萎縮しているのが見て取れた。思い返せば、レイモンドは、昔からきちんと礼儀を弁える子供だった。アデレードと親しいからと言って、こちらにまで馴れ馴れしい態度は取らなかった。アデレードのことも、自分達の前では、許可するまで敬称を付けて呼んでいたくらいに。
「言いたいことがあるなら言いなさい。この部屋でのことは不問にしよう」
ここにいるのがセシリアならば、問答無用で「今更なんの用?」とレイモンドを糾弾したに違いない。しかし、エイダンはそうは思わなかった。立場を重んじるレイモンドが、約束なしに来訪したことに強い思いが汲み取れた。言い分を聞いてみたい、という単純な好奇心もあった。
「何故ですか?」
漸く開いた声音は重い。
「え?」
惚けるつもりはなかったが流石にざっくりしすぎで返答できない。
「アデレードを私の元へ嫁がせてくださる約束だったはずです」
「……そうだね。でもそれはアデレード次第とも伝えていたはずだよ」
大体予測していた内容にエイダンは用意していた答えを返すと、レイモンドは一瞬言葉を詰まらせた。忘れていたのだろうか。しかし、
「それ、は……アデレードが望んで結婚したと言うことですか?」
と重たく続けた。なるほど、とエイダンは思った。レイモンドは、白い結婚であることに関して、事業提携の為に結ばれた婚儀であると疑っている。本人の意志があったのか、と。ちょっと心外だな、とエイダンは思った。
「この結婚は、アデレードが自分で決めたことだよ。君のことはもういい、とも言っていた。私は最初はただの喧嘩だと思って、結婚は承諾しなかった。あの子は、カッとなると激情のまま動いてしまうから、後になって先方にやはりなかったことにしてくれとは言えないからね。でも、そうではないと理解して話を進めた。この一月、アデレードは隣国へ向かう準備を自分でずっとしていたし、君とのコンタクトもまるでなかった。むしろ、何故、今更、君が訪ねて来たのか疑問に思っているよ。メイジー・フランツ嬢の勉強はいいのかい?」
暗に結婚は覆らないことを告げると、レイモンドの顔が苦悶に歪んだ。
「……メイジー・フランツ嬢のことは、軽率でした」
だが、レイモンドが反応したのは別の部分だった。
メイジー・フランツ。リコッタ伯爵の遠縁の娘。アデレードは話さなかったが、ポーラ夫人から聞いている。曰く、随分と強かな娘らしい。
「軽率とはどういう意味だね?」
「……彼女の就職試験に集中するあまり、アデレードを蔑ろにしました。しかし、メイジー嬢に対してやましい気持ちはなく、私は彼女が男性でも同じように手助けをしたと断言できます。人の人生を左右する試験を優先させて何が悪いのか、と思ってしまっていました」
ポーラの語った内容と一致する。
ポーラは、レイモンドを見限った風ではいたが、誓って二人がやましい関係に陥ってはいないとも断言していた。馬車でも屋敷でも二人きりになることはなく常にメイドを傍に置いている、と。レイモンドの様子からも嘘ではないと思えた。しかし、事実はどうであれ、それをアデレードがどう思うかが問題だ。アデレードは善良な娘だ。人の人生が懸かった試験と言われれば、レイモンドがメイジーに協力することを邪魔したりしないだろう。嫉妬しないかどうかは別として。ただし、それは二人の間に信頼があっての前提だ。
「君は、本当に根本的な問題がフランツ嬢にあると思っているのか?」
「それは……」
エイダンの言葉にレイモンドは奥歯を噛み締めた。そうだ、と言うなら帰るように告げていた。
正直なところ、メイジーの話を聞いた時、ポーラは「申し訳ない、申し訳ない」と頭を下げたが、エイダンはそこまで不快感は抱かなかった。貴族の義務であるノブレス・オブリージュに則った行為であるし、手を貸してやったレイモンドを頭ごなしに責めるのは少し違う気がした。根本の問題は、アデレードがそれを許せない状況に既に陥っていたということなのだから。
「君とアデレードの仲が上手くいっていないのは知っている。その一方で君は私に宣言した通り成果を上げていた。しかし、自分の評価を上げるのは自分の為だからね。君の評判は社交界でも芳しくて、正式な婚約をしていない君とアデレードの関係に探りをいれるような人間は幾人もいた。美しい令嬢を横に携えてね。だから、君がそういったご令嬢に心変わりしたのかと思っていたよ」
「ありえません。確かにアデレードを蔑ろにしてしまったことは認めます。自分のことで手一杯になって……俺は結婚するためにこんなに頑張っているんだから、黙って大人しく待っていてくれ、と思ってしまっていました」
言葉尻に被せてレイモンドが言った。今にも噛みついてきそうな勢いだ。余程、心外だったらしい。尤も、エイダンが本気でレイモンドの心変わりを疑ったわけじゃない。
レイモンドがリコッタ商会で働き始めた年、下世話な話だがアデレードへの誕生日プレゼントのグレードが格段に落ちたことがあった。人を雇う立場のエイダンから見て、それは見習い社員の給料のおおよそ一月分。レイモンドが商会で働き出して二月と経っていない頃だったから、自分の稼ぎを丸ごとアデレードに充ててくれたのだな、と理解した。自立云々と口にするだけある。そういう部分を非常に評価した。そして、それは毎年続いていて今はかなり高額な贈り物を贈ってくれている。レイモンドは何も言わなかったし、アデレードは、そんなことを察することもなくレイモンドからのプレゼントということに素直に喜んでいたのだが。いずれにせよ、そういう男が他の令嬢とどうのこうのとは思えないし、第一に特進科の授業と仕事を両立させた上に女遊びまでするのは物理的に無理がある。しかし、アデレードに辛く当たっていることも事実だ。この矛盾は何処からくるのか。
「君は一体、アデレードをどう思っているのかね?」
エイダンは素朴な質問をぶつけた。アデレードを貰い受けたいと言った言葉は本当だったのだろう。だから、アデレードが隣国へ嫁いだと知って飛んできた。敵意を向けてくるのは、約束を反故にしたと怒っているから。しかし、こちらもちゃんとアデレード次第だと伝えていたはずだ。だからそれを遂行したまでのこと。アデレードを引き留められなかったのは自業自得の結果なのではないか。
「……どうって、そんなの、」
レイモンドが簡単に答えようとするので、エイダンは遮るように立ち上がった。え、という反応をするレイモンドを置いて窓際の執務机に向かった。愛しているとか、好きだとか、そんな言葉を引き出したいわけではなかったから、敢えて言わせなかった。
エイダンは一度執務椅子に腰掛けて、中央の引き出しを開いた。机の右奥にある三つに束ねられた紙束を取り出して内容を確認する。そして、そのうち一つを手にして再びソファに戻った。レイモンドは訳がわからない様子でじっとこちらの動きを追っている。質問しておいて遮ったのだから当然の反応なのたが。
エイダンは、徐ろに座り直すと、紙束を縛っている紐を解いて、紙片をレイモンドに見せるように順番に並べていった。
最初の一枚は四角く折られた画用紙。開くとクレヨンで何重にもカラフルな丸が描かれてある。
その次に取り出したのは、大きな丸に目と口が描かれた笑った人の顔に見える絵。幼児の文字で「パパ」と添えられある。
二枚目、三枚目と続き、四枚目は栗色のくるくるした髪が描かれていて、はっきりエイダンの絵であることが分かるもの。「お誕生日おめでとう」と字もはっきり読める。
「これは毎年アデレードがくれる誕生日カードだ」
そう告げるとレイモンドは、「それが一体どうだというのか。質問の答えを聞かずに今見せるようなものか」と言いたげな表情をした。しかし、エイダンは構わずカードを見つめた。レイモンドも困惑したままテーブルの上に視線を下げた。幼い頃は「パパ、だいすき」といった可愛らしい一文だったのが、ここ数年は「お誕生日おめでとうございます。今年も素敵な一年になりますように。後、長生きして」というような文になっている。アデレードらしい、とエイダンは思いながら、
「この年からだな」
と一枚のカードを指差した。
「え?」
とレイモンドは声を漏らした。が、「この年から」ということはここより前と後では違うということを、直ぐに理解して、指差したカードの前後を見比べ始めた。尤も凝視するまでもなく明らかに違うのだが。
「字ですか?」
幼少期は仕方ないとして、字を覚えて以後からエイダンが指し示したカードまでは、非常に癖のある文字だ。しかし、差したカードより後の年からは癖が緩和されている。去年のカードなどはまるで印字されたような美しさがある。
「結婚したら折々に招待状や礼状をしたためる必要があるから、と必死で練習していたよ。たかが、字の練習くらいと君は思うかもしれないが」
「……そんなことは……」
淑女の嗜みとして常識的なことだ。こんなことを褒めるのは只の親馬鹿かもしれない。
だが、世の中には代筆屋という職業があるように、招待状を自分で書かない貴族は多くいる。或いは執事や侍女に任せることも往々にある。そんな中で、アデレードの字はとても美しい。あの癖字からよくぞここまで矯正したなと思う。
「君に比べて、確かにアデレードは周囲から評価されるほどの成果をだしていない。けれど、何もしていなかったわけじゃない。君は、大人しく待っていてくれればいいと言ったがアデレードも君の頑張りに見合うために自分を磨く努力はしていた。君は、フランツ嬢に勉強を教えていると言ったが、アデレードに教えてやったことはあったか? あの子は試験勉強は、自分でしていた。わからなければ教師か友人、或いは私に尋ねることもあった。毎朝一緒に登校している優秀な君に手伝って貰うのが、一番早かっただろうけどね。君の邪魔をしないようにしていたのだろう。普通科のただの定期考査だ。成績が悪くても進級できるし、就職試験とは重大さが全く違う。でも、フランツ嬢を教える君を、あの子はどう思って見ていただろうね」
レイモンドは黙ったままでいた。見ているこちらが不安になるような表情。今更言うのは酷だろうか、とエイダンは思った。アデレードはもういないのだから、諦めて帰ってくれと追い返した方がよっぽど優しい気がしてきた。でも、エイダンはどうしても聞かずにはいられなかった。レイモンドは、アデレードに対して「自分が迎えに行くのを待っていてくれればいい、大人しく待っていて欲しい」と言うがそれは本心か。エイダンは、その発言の奥に、他人を貶めて自分だけが上に上がりたいような感情が潜んでいる気がしてならない。
だから、ずっと聞きたかったのだ。
「君は本当はアデレードをどう思っていたんだ?」
***
侯爵に会ったら、猛抗議するつもりでいた。
約束が違う。どうしてアデレードを嫁がせたのか。俺にくれると言ったじゃないか。今すぐ返してくれ、と。
血が上った頭で不躾に暴れまわりたい衝動に駆られていた。しかし、人の怒りは長く持たないと文献で読んだ通り、バルモア侯爵邸へ向かう馬車の中で段々と熱が冷めていった。怖気づいてしまったというのが正確な表現かもしれない。明白に後ろ暗いことがあったから、侯爵を一方的に非難することはできないと不安に思った。いや、それでもまだ、話し合いに応じてもらえない可能性を微塵も考えていなかったこと自体が、厚顔無恥だった。思い返せば、あっさり屋敷へ入ることを許可されたことがどれほどの温情だったか。
馬車から降りて、玄関の呼び鈴を鳴らすとすぐにメイドが現れた。
「レイモンド様。お久しぶりでございます。アデレード様はいらっしゃいませんが……」
と告げられた。
「いや、バルモア侯爵に面会を頼みたい」
「お約束は?」
「……いや」
そんな会話を繰り広げていると、家令がやって来た。当然に知っている顔で、しばらく待つように言われた。追い返されたらどうしよう。格上の侯爵家へ約束もなく押しかけてしまった。その時になってようやく自分の非礼に背筋が冷たくなった。
だが、すぐに戻ってきた家令は、
「お待たせして申し訳ありません。旦那様はすぐに参られますのでこちらへ」
と屋敷の中へ誘ってくれた。
しかし、ほっとしたのも束の間で、通されたのは客間でなく侯爵の執務室だったことに、一層緊張が強くなった。かつて、アデレードとよく遊んでいた頃「ここはパパのお仕事するところだから入ったらダメなんだって。すごく怒られるよ」と言われたことが妙に思い出された。
部屋に入って少しして、見慣れない赤毛のメイドがお茶を運んできた。が、そのことにも気持ちが落ち着かなくなった。昔は、バルモア家の使用人全てと顔見知りだった。
この屋敷に来たのはいつ以来か。
こんな状態になってのこのこ来たことに羞恥心が襲ってきた。それでも自分を律して待っていると、ノッキングの音がして、バルモア侯爵が入室してきた。
アデレードと同じ栗色の髪に茶色の瞳。上の兄と姉は、母親のナタリアと同じ髪色だから、自分に似たアデレードをバルモア侯爵は殊更に可愛がっている。アデレードは、子供の頃は、父親に似ていると言われるたびに「違うもん。ママに似てるんだもん」と泣きじゃくっていたが。
なんだろうか。バルモア邸にいるからか、昔のことばかり浮かんでくる。
いや、昔のことじゃない、これからも、この先の人生も、アデレードと二人でいる。その為にここへ来た。
「先触れもなく申し訳ありません」
勉強に追われるようになり、子供の頃のようにこの屋敷へ訪れなくなってからも、バルモア侯爵とは、時折、父に同伴する商会の顔繫ぎの夜会で挨拶することはあった。しかし、バルモア侯爵にアデレードに関して何か言われたことは一度もなかった。そのことに関して、アデレードは自分が悪いと自覚しているから侯爵には黙っているのだな、と都合のよい解釈をするようになった。アデレードは昔からパパよりママの方が好きだったけれど、泣きつくのはいつも自分に甘いパパで、それは成長してからも変わらなかったから、嫌なことがあったら侯爵に告げるはず、と。
「いや、構わないよ。座りなさい」
着席したものの、何から切り出せばいいのか。沈黙の中、お茶を勧められるが到底飲む気にはなれなかった。意を決して、アデレードが結婚したのかと尋ねると、
「あぁ、今朝嫁いで行ったよ」
とまるでその辺のカフェにでも行っているような答えが返り、不快な気持ちが湧きあがる。
(俺にくれるといったじゃないか)
だけど、言葉にはできずにいると、
「言いたいことがあるなら言いなさい。この部屋でのことは不問にしよう」
バルモア侯爵が見透かしたように告げた。穏やかな声だったけれど、なんだか寒々しいものを感じた。
「アデレードを私の元へ嫁がせてくださる約束だったはずです」
「……そうだね。でもそれはアデレード次第とも伝えていたはずだよ」
「それ、は……アデレードが望んで結婚したと言うことですか?」
「この結婚は、アデレードが自分で決めたことだよ。君のことはもういい、とも言っていた。私は最初はただの喧嘩だと思って、結婚は承諾しなかった。あの子は、カッとなると激情のまま動いてしまうから、後になって先方にやはりなかったことにしてくれとは言えないからね。でも、そうではないと理解して話を進めた。この一月、アデレードは隣国へ向かう準備を自分でずっとしていたし、君とのコンタクトもまるでなかった。むしろ、何故、今更。君が訪ねて来たのか疑問に思っているよ。メイジー・フランツ嬢の勉強はいいのかい?」
何も知らないと思っていたバルモア侯爵が、何もかも知っているような口振りで語ることに、言い知れない恐怖を覚えた。
言葉の一つ一つがショックだった。アデレードが自分で決めて、自分で嫁いでいったと言われたことも、この一月会おうと思えばいつもで訪ねられたのに、会いに行かなかったことを指摘されたことも。メイジーのことを知られていることも。
「……彼女の就職試験に集中するあまり、アデレードを蔑ろにしました。しかし、メイジー嬢に対してやましい気持ちはなく、私は彼女が男性でも同じように手助けをしたと断言できます。人の人生を左右する試験を優先させて何が悪いのか、と思ってしまっていました」
それでも必死に取り繕った。何故、大丈夫と思ったのか。何故、メイジーの試験に時間を費やしてしまったのか。ただの親切心だった。本当に一ミリもメイジーを女性として意識したことがなかったから。そんなつもりはなかった、と必死で告げてみたが、ただの言い訳にしかならなくて、ほとほと自分が嫌になった。だけど、それよりもっと苦しかったのは、
「君は、本当に根本的な問題がフランツ嬢にあると思っているのか?」
問題はメイジーのことではないのだ、と全て見抜かれていたことだ。アデレードに辛くあたっていたことも、他の令嬢に秋波を送られていたことも、痛いところを次々に突かれて狼狽えるしかできなかった。それでもアデレード以外に心を移したことなどただの一度もなかったから、必死に食い下がった。
けれど、バルモア侯爵には一つも届いていないみたいだった。
「君は一体、アデレードをどう思っているのかね?」
尋ねられて、そんなのもちろん愛している、と言葉にしようとした。
が、侯爵に遮られた。「話の途中に一体何だ?」と意味がわからなかった。けれど、文句を言える立場でないことは重々承知だ。
侯爵が立ち上がり、執務机から取り出してきた誕生日のメッセージカードを並べて行くのを黙って見つめた。ぼんやり眺めていると、また、昔のことが色濃く蘇ってきた。アデレードは、字を覚えるのが遅かった。教えたのは自分だった。右に折れる部分を、左に曲げてよくわからない字を書いた。注意したら「じゃあ、後ろ向けて読んだらいいんじゃない?」と突拍子もないことを言って、紙を反転させて太陽に透かしてみせた。他の部分は間違っていないので、上手くいくわけもなく、余計に見知らぬ文字になるのだが。何のわだかまりもなく笑っていられた遠い善き日だ。そんなことを思って、レイモンドの心は一瞬緩んだが、
「君に比べて、確かにアデレードは周囲から評価されるほどの成果をだしていない。けれど、何もしていなかったわけじゃない。君は、大人しく待っていてくれればいいと言ったがアデレードも君の頑張りに見合うために自分を磨く努力はしていた。君は、フランツ嬢に勉強を教えていると言ったが、アデレードに教えてやったことはあったか? あの子は試験勉強は、自分でしていた。わからなければ教師か友人、或いは私に尋ねることもあった。毎朝一緒に登校している優秀な君に手伝って貰うのが、一番早かっただろうけどね。君の邪魔をしないようにしていたのだろう。普通科のただの定期考査だ。成績が悪くても進級できるし、就職試験とは重大さが全く違う。でも、フランツ嬢を教える君を、あの子はどう思って見ていただろうね」
聞かれてまた息が詰まった。確かに、字を書く練習は一緒にしたのに、学校の勉強を一緒にした記憶がない。アデレードは勉強せずに遊んでいるのだと思い込んでいたし、別にアデレードが勉強しなくてもいいと思っていた。自分と結婚するのだし、困ったことは助けてやれる。メイジーをどういう思いで見ていたか? 気の毒だと思っていたんじゃないのか。
目の前に並べられたカード。
レイモンドの記憶の中のアデレードの文字は、癖のある少し斜めに上がった文字だ。こんな字は知らない。いや、自分も毎年誕生祝いにメッセージカードは貰っていた。ちゃんと読んだし、多分部屋に置いてある。毎日見る文字が少しずつ変化しても気づかなかっただけ。そもそもアデレードが字の練習をしているのだと、教えてくれたら良かったのではないか。そこまで考えて、レイモンドはアデレードは本当に話していなかったか? と嫌な動悸に見舞われた。
「今勉強中だから少し黙ってくれないか」
たびたびそんなことを言ってアデレードが話すのを止めた。挙句に、
「俺、喋るの嫌いなんだよね」
とまで言ったこともある。
「そっかぁ」
アデレードはあの時確かそう言った。どんな顔をしていたかは教科書を読んでいたから見なかった。
「君は本当はアデレードをどう思っていたんだ?」
本日二回目の質問にレイモンドは硬直した。先ほど、すぐに答えようとした回答が、この世から消えたみたいに出てこない。愛している、好きでいる、その為に、どれだけの努力をしてきたか。堂々と、胸を張って言えばいい。嘘なんかじゃない。本当なんだ。
顔を上げると侯爵がこちらを向いている。長い沈黙を根気強く待っている。アデレードと同じ薄い茶色の瞳。ただ、アデレードと違うのは非常に容赦がないということ。今答えを間違えれば、多分、もうそれで終わりだ。
レイモンドは視線を彷徨わせて再びテーブルを見た。「パパ、だいすき」という下手くそな文字が目に入る。
「……アデレードは、みんなのことを、好きだったから……」
自分の耳に届くか届かないかの声だった。なんの話をしているのか。面接試験なら質問の的を射ていなくて不合格になる。自分のことを聞かれているのに、何故アデレードが誰を好きかを話すのか。どう考えてもおかしいだろう。回答になっていない。こんなのは自分らしくない。それでも、
「……あれも好き、これも好きって、いつも言ってました。俺はアデレードが一番だったけど、アデレードは、みんな、どれも大好きで……俺は、ずっとそれが気に入りませんでした」
上がってくる吐瀉物を呑み込むことができないみたいに吐き出される。喉が熱い。
侯爵の顔を見れなくなって俯いた。アデレードの下手くそな文字だけを見ていた。幼い顔のアデレードが笑っている場面が浮かぶ。「えー、みんなで遊んだ方が楽しいよ? レイも行こうよ!」アデレードがそんなことをよく言うようになったのは初めて茶会に参加した後くらいだっただろうか。
全然関係ないことを考えながらも、言葉が堰を切ったように出てくる。
「別に友達を作るなとか、誰とも口を利くな、とかそんなことじゃなくて、皆を好きでいいから、俺のことは特別に好きでいて欲しいって、ずっと思っていて、でも、そんなことは恥ずかしくて言えなかった」
見ないようにしてきた。誰にも知られたくない。こんな子供じみたことは言えない。ならば永遠に黙っていろ、と俯瞰的に思う自分が遠くの方でぼんやりしている。役立たずで止めてはくれない。
アデレードをどう思っているのか。
「……だから、ずっと、アデレードが嫌いでした」
自分の言葉に息を呑む。そんなことはあるわけない。顔がじんじん熱くて、息苦しい。とんでもないことを言ってしまった。なのにつっかえていた重い塊が消えたみたいに胸がすいた。
嫌いだった。
そうだ。ずっと憎くてたまらなかった。いつも後ろを追いかけてばかりで、なんでなんだって思っていた。振り返らないアデレードに腹が立ってたまらなかった。いつか、仕返ししてやろうと、ずっと思っていた。「皆で遊んだ方が楽しいだろう?」そう言ってやりたかった。
そうだ、嫌いだったんだ。嫌いで、嫌いで、
「嫌いだった……」
視界がじんわり滲んでいく。自分の世界が壊れていく。上と下がひっくり返る。嫌いだった。アデレードを、嫌いで、それで、
「でも、好きだった。大好きだった。本当に、ずっと……嫌いで、憎かったけど、好きだった。好きだったのに、好きだった……本当に、本当に、今も、ずっと、会いたい。ごめんなさい。諦められない。すみません……すみません……」
後から後から涙が出て、止めようと思うのに止まらなくて、気づけばむせび泣いていた。
***
レイモンドの独白にエイダンは息を殺した。
プライドの高い青年だと思っていたから、人前でこんな風に嗚咽を漏らして泣くとは、夢にも思わなかった。
レイモンドの抱えているのが、厄介な代物だとは想定していたが、思ったより闇が深くてエイダンは困惑した。
泣きじゃくるレイモンドを宥めるのに三十分は掛かった。それから、ぼそぼそ観念したように話を始めたことにも酷く哀れみを感じた。学園に入学した頃、酷い虐めを受けたことも、それを誰にも言えずにいたことも、何故この青年がこんなに自信がないのか少しだけ理解できた。
アデレードを嫌いだと告白された時も、何処か納得する部分があった。好きな子は虐めたいとか、嫉妬させたいとか、幼稚な考えを持つ男は割といるが、レイモンドのそれはもっと重くて暗かったから。あぁ、自分の中でいろんなわだかまりを抱えて、それを隠すうちに何処に何を隠したかわからなくなって、見るのが怖くなって、逃げ続けてきたのだな、と思った。まるでパンドラの箱だ。けれど、その一番底にあったものが、零れ落ちるような告白だったことは良かったと感じた。かといって、レイモンドのやってきたことは、酷く偏った自分勝手な言動で、アデレードが愛想をつかして別れを告げたことは、仕方ないことだとも思った。けれど、屋敷から叩き出す気持ちにはなれなかった。
恐らく、娘のセシリアなら話の途中で激昂して、この場からレイモンドを追い出すに違いない。しかし、エイダンはそこまでの非情にはなれなかった。
まず何より、卒業までに成果を出すからアデレードを嫁に欲しい、と膝を折ったあの日のレイモンドの宣言は、やはり嘘ではなかったし、その約束をきっちり果たしていることが大きい。勉強を頑張ったから何なのか。仕事が出来るからどうだというのか。アデレードを大事にしないなら意味がない。関係ない。そんな男は叩き捨てろ、と切り捨てることは簡単だが、それを言う権利があるのは、それを両立させた人間だけではないか、とエイダンは考える。
かつてエイダンもまたステルス学園の特進科に通っていた時期があったから。残念ながら四年生に上がる前に脱落した。原因は、カリキュラムがハードすぎて遊ぶ暇がない、という浮ついた理由で自ら普通科へ編入したのだ。だから、実際あそこにいた人間として、レイモンドのやっていることは異常としか言いようがない。毎朝通学の一時間前に起きて勉強し、帰宅後は商会で働き、休みの日は一週間分の総復習をするために机に齧りついている。それを丸四年以上。できるか。できないか。考えるのも憚られる。
それに、こんな風に自分の娘を好きだと泣く男を無下にする気になれない。馬鹿正直に気持ちを吐いたことにも絆された感がある。尤も、下手な言い訳をして取り繕ったらその場でお帰り願ったのだが。
はーっとエイダンは大きく息を吐いた。
「もう泣くな。顔を上げなさい」
レイモンドが赤い目をこちらに向ける。美男子がボロ雑巾のようになっている様はなんとも言い難い。自分の娘と同じ年の子供であるから特に。アデレードが今のレイモンドを見たらなんと言うだろうか、ということが脳裏に浮かんだ。あんなに好きだった相手が、自分を思って泣く様は心にくるものがあるに違いない。
ただ、自分は父親として、レイモンドにアデレードを故意に傷つけてきたことの罰を受けて貰わねばならないとも思う。追い返したりはしないが、甘い顔でにこにこ許すつもりはない。第一今日嫁いだ花嫁をどう連れ戻すと言うのか。
「正直、親として君のしたことは腹が立つよ」
「っすみません」
「私に謝罪してもしかたないだろう」
「アデレードに……会わせて頂けるんですか?」
「アデレードは、君に会いたくないから隣国に嫁いだのだと私は思っている」
思っているというかそれが事実なのだが。
アデレードの嫁ぎ先のフォアード侯爵家の現当主とは学生時代からの友人だ。一時期、交換留学生としてやってきて学園内で知り合った。非常に真面目な男で帰国後もずっと交流があったが、フォアード侯爵が結婚してからしばらくは連絡が途絶えた。なんでも碌でもない女に振り回されていたらしい。今は笑い話のように語るが、金持ちの箱入り息子が、遊びなれた女によいように弄ばれた例の典型というのか。結局、結婚後、五年で破局した。別れて良かったと皆が言う中で、ただ一つ問題視されたのが残された息子だった。心に大きく打撃を受けて、その傷は癒えることなく成長した。祖父譲りの随分な美男子だというのに女嫌いで有名で、来る女性は全て手酷く袖にすると言う。金目当ての女というのが地雷で、結婚に消極的。どうしても結婚しろと言うのなら、フォアード家の財産と同等の資産家の娘を連れて来いなどと無茶苦茶な注文をつけるのだ、とフォアード侯爵からしばしば愚痴を零されていた。そしてその際、ちらちらアデレードを嫁に欲しそうな打診もされていた。尤も、フォアード侯爵自身、レイモンドの存在を知っていたから、はっきり口にすることはなかったし、冗談めいて直接アデレードに「うちに嫁に来てくれないか?」と告げることがあったが、アデレードはけらけら笑って全く本気にしていなかったのだが。
しかし、ある日突然、
「フォアード侯爵様のご令息の花嫁ってもう見つかったの?」
とアデレードが尋ねてきたので驚いた。レイモンドを諦めて結婚するという。一旦落ち着くように説得したが頑として譲らなかった。
レイモンドと結婚しないことは分かったが、わざわざ隣国のフォアード侯爵家でなくともよいのではないか。簡単に行き来できる距離ではない。他によい見合い相手を見つけてやると言えば、
「遠いからいいのよ!」
とポロッと口を滑らせるので、意図することを把握した。そんな不純な動機で結婚を決める馬鹿がいるか、と当然猛反対した。が、変に行動力がある娘なので厄介だった。アデレードは自分で書いた釣書をフォアード侯爵に送り付けたのだ。こちらがそれに気づいたのは、フォアード侯爵が狂喜して、結婚の話を進めるためだけに入国してきた時なのだから、もうどうしようもない。先程、レイモンドには、さも熟考した上で結婚の了承をした体で話したが、実際はアデレードが親の有無を聞かずに勝手に進めたのだ。結局、白い結婚制度を活用して経歴に傷がつかないようにすることで、どうにか上手く纏めたというのが真実だ。今頃アデレードはフォアード家の門扉を叩いているだろう。フォアード侯爵は手放しにアデレードを歓迎してくれたが、息子のペイトンは結局一度も顔合わせに来なかった。アデレードの結婚の動機が動機なだけあって、こちらも強くは出れなかったが、一度は顔を出すべきではないかと憤る気持ちはあった。アデレードが住むという新居は、フォアード侯爵の住むタウンハウスとは別宅にあるというのも心配になる。冷たく追い出されたりしていないだろうか。
アデレードの結婚話の顛末を思い返すと、目の前で鼻をシュンシュン鳴らしているレイモンドに対して急に申し訳ない気持ちが湧いた。
レイモンドが結婚の許可を取りに来たとき「結果なんて不要だ。アデレードを幸せにしてくれればそれで構わない」と言ってやれば、何かが違ったのかもしれない。起こらなかった出来事に思いを馳せても仕方ないのだけれど。
エイダンは、眼前にいるレイモンドを見て、もっと早く動いてやればよかったと後悔に打ちひしがれた。
アデレードに会いたい、と泣いて縋って来られると辛い。しかし、
「たとえアデレードが君と会っていいと言っても、私が許可しない。嫁いで行った娘に他の男と逢引きするような真似はさせない」
敢えて厳しいことを言った。時間は取り戻せないから。一月あって何もしなかったのはレイモンド自身だ。
エイダンの言葉に、レイモンドはぎゅっと口を結んだ。ギラギラしていて危うい。このまま野放しにすれば、勝手に会いに行くのは間違いないと思えた。アデレードがつき返せば問題はないが、まさか二人で駆け落ちなどされたら、と考えてエイダンは血の気が引いた。いくらレイモンドが優秀といえ、流石に何もかも捨て一から生活などできるものか。路頭に迷って、生活に困窮して、身売りでもするようなことになったら……と元来アデレードに甘い父親の顔が出る。
「しかし、会わせないと言っているわけじゃない。ただ、君はこれまで君のしてきたことの罰を受けねばならない。だから、条件をつける。白い結婚期間が満了するまでアデレードには接触しないこと。期間満了後、アデレードが結婚を継続すると決めた場合、何も言わずに祝ってやってくれ。この二つの条件を呑めるなら、婚姻解消後、アデレードと会う機会を与える。その時は、私は君を許して応援するよ」
エイダンは考えあぐねた末に言った。これは重い罰なのか、軽いのか。もし謝罪をして許しを乞い、思いを打ち明けるなら一秒でも早い方がよい。一年後では分が悪すぎる。だが、一年後アデレードが離縁して戻って来る可能性は非常に高い。元々戻って来る気の旅行気分で行っているのだ。だから、そこから新たに始めるのは悪くない提案の気もする。
まだ二人とも十八歳。なんでも始められる年齢だ。今度こそちゃんと二人で手を取り合ってやり直すのもありなのではないか。
「どうだい? 条件を守れるか?」
エイダンが尋ねると、レイモンドはしばらく黙ったままでいたが、やがて静かに頭を下げた。
「わかりました。申し訳ありませんでした。宜しくお願いします」
かくして、レイモンドの苦悶と焦燥と不安に喘ぐ一年が始まった。




