SIDE2-5
レイモンドがアデレードの結婚を知ったのは、アデレードがバリバラ国へ出国した日だった。いつものように学校からリコッタ商会へ直行して仕事に追われていた。ただ、二日前からメイジーが一緒に来ていることが、通常とは若干勝手が違った。これまでメイジーは放課後は一人で屋敷へ戻り勉強していたが、就職試験まで一月を切り、最後の調整をするために父が商会の一角をメイジーに提供した。レイモンドが傍にいた方が直ぐに質問しやすいという配慮だった。レイモンドは今は見習いとしてではなく、一従業員として仕事を割り振られているため、就業時間を割かれるのは迷惑千万だったが、合格まで面倒をみる約束をした手前、父の提案に黙って従った。
「お茶にしようか。少し休憩するといい」
「有難うございます!」
「ほら、レイモンド、お前も」
「俺はいいです」
休憩なんてしている場合か、と苦い気持ちになるが、自分がそうでも他人に休みなく勉強しろとは言い難い。レイモンドは父とメイジーが談笑する傍ら作業を続けていた。が、
「そういえば、アデレード様がご結婚なさったこと、ご存じですか?」
メイジーが突拍子もないことを言うので手を止めた。
「アデレードちゃんが? それは何かの間違いじゃないかい?」
ハハッと父が軽く笑うが、メイジーは反論した。
「本当ですよ! 少し前から、普通科の令嬢達の間でちらほら噂はされてましたけど、今日から休学することが分かって、やっぱり本当だったって一気に話が広まったんです」
メイジーが興奮して言う。下らない噂話にむきになるのは馬鹿馬鹿しいが、
「そんなことはありえない。アデレードは俺と結婚する約束がある」
とつい我慢ならず割って入ってしまった。「え」とメイジーが目を見開いたが、それよりもっと驚いた表情をしたのは父だった。
「アデレードちゃんと結婚ってお前本気か?」
レイモンドは、明らかに動揺している父の反応の意味がわからなかった。
「父上にも許可は取っていたはずです」
「いや、それは、子供の頃の話だろう」
「撤回した記憶はないですが」
「いや、だが……」
激しく狼狽えるので、レイモンドは眉を寄せた。一度許諾された結婚について、その後父親に何度も話す必要があるのか。今更反対されても強行するし、第一、アデレードと結婚することは、リコッタ家にとって利益に繋がることしかない。反対する理由などないだろう。尤もバルモア侯爵家の力を借りて仕事をするつもりはないが。
「お前はメイジー嬢を好いているのではないの?」
「は?」
あまりに的外れな言葉を放つので呆れてしまった。一代で商会を大きくして富を築いた才覚ある父を尊敬しているが、狂ってしまったとしか表現しようのない発言にレイモンドは内心で舌を打った。
「流石にそれはメイジー嬢にも俺にも失礼では? 彼女は自立するため就職試験に真剣に取り組んでいるし、俺は父上に頼まれたから指南している。それだけです」
「しかし、二人でずっと一緒にいるから、私はてっきり……」
「いや、引き受けたからにはよい結果を出せるよう尽力するのは当然ですよね? 何故好いた惚れたの話になるのか。不愉快です」
父と諍うことなどなかったから、こんな風に正面切って反発したのも初めてのことだ。一息に言うと父の顔色がサッと青くなった。しかし、間違ったことは言っていないから謝罪する気もない。
「で、でも、それじゃあ、アデレード様は、レイモンド様との約束を反故にしたってことですよね? ひどいわ」
慌てた様子でメイジーが口を挟む。自分と同様に父への抗議をするのではなく、矛先をアデレードに向けることに嫌な感覚を覚えた。メイジーは最初の頃、アデレードを妬む言動を取っていた。しかし、平民になる境遇を受け入れて試験勉強に取り組むと言い出したから協力した。昔の自分に重なったから、応援したい気持ちになった。でも、もしそれが、自分に取り入るための策略なら話が違ってくる。父が誤解するようなことを、こっそり言っていた可能性も出てきた。冗談じゃない。そんなつもりは毛頭ない。親切心を仇で返す気か。止めてくれよ、とぞっとした。
「単に噂が出鱈目なだけだろう。父が、君と俺の関係を誤解したみたいに、時としてありえないことが噂になったりするものだ」
「……っ。だったらアデレード様は何故休学したんですか?」
メイジーが皮肉気に笑って言った。なんなんだ。自立を目指す努力家の健気な令嬢から、一気に強かな女豹に見えた。その発言にもイライラした。噂など当てならない。何処かしらで尾鰭がついて適当に話がすり替わる。しかし、火のないところに煙は立たないのも事実だ。万が一、と考えた瞬間、レイモンドは立ち上がっていた。
(休学? 本当に? そんなことは聞いていない)
ここでぐだぐだ話していても埒が明かない。確かな情報を持つ者に聞けばいい。それは誰か。つい先日、母が茶会に行ったことを知っている。誰の屋敷へ行ったかも。
「なら噂の真相を突き止める」
レイモンドは短く言い残して、足早に商会を後にした。
「母上、母上!」
忙しなく部屋へ入ってきたレイモンドにポーラは顔を顰めた。
「ノックもなしに無作法よ」
「そんなことより、アデレードが結婚したと妙な噂が出回っているんです。何かご存知ありませんか?」
お前は一体何を言っているの? と怪訝に答えてくれることを期待した。が、
「あら? 誰に聞いたの?」
とポーラはあっさり認めた。レイモンドの中に、何故? という憤りが湧き上がった。知っていたのか。だったら何故教えてくれなかったんだ。そもそも何故アデレードは結婚したのか。何故、何故、何故、と脳内を繰り返し回る。
アデレードと最後に言葉を交わしてから一月経つか経たないか。百歩譲って「婚約した」なら理解できるが、いきなり休学して嫁いで行ったなんて非現実的すぎる。一体、何処の、誰の元へ行くというのか。
「揶揄わないでください」
「揶揄ってどうするの」
「だったら式は? いつ挙げたのですか?」
バルモア家の娘の結婚式だ。盛大なものになる。招待客も多岐に渡るだろう。そうすれば社交界に情報を流れるのは必須だし、メイジー経由で知るより、自分が先に耳にしていたはずだ。
「式は挙げていないわ。白い結婚制度を利用して隣国へ嫁いで行ったのよ」
「白い結婚?」
レイモンドは顔を歪めた。白い結婚は他国と事業を結ぶ際に行われる古い慣習のはず。事業提携の為に政略結婚させられたという意味か。あのアデレードに甘いバルモア侯爵が娘を仕事の道具にするか? 信じられない。でも、それ以外に納得できる答えが出ない。アデレードは、家の為に結婚させられた。だったら、自分に助けを求めに来るべきではないか。バルモア侯爵を説得しに行ったし、一緒に逃げてくれと言うならそれでも良かった。そうだ。別にそれでよかった。本当に。何を捨てて行くことになっても。
(いや、別に今からでも構わない)
レイモンドはグッと拳を握った。その瞬間、
「あぁ、誤解ないように言っておくわね。結婚はアデレードちゃんの意思よ。心配したバルモア侯爵が、わざわざ白い結婚を提案して一年間のお試し期間を設けただけ。期間が明けてお互い婚姻関係継続の意思があれば正式な結婚をすることになっているのよ」
内心を見透かしたようにポーラが述べた。
「そんなことはあるわけがない」
「何故? 貴方達は既に破局しているじゃないの。別れた時点で約束は当然無効でしょう」
「破局なんかしていません」
「だったらどうしてアデレードちゃんと登校せず、メイジー嬢と一緒にいるの? おかしいでしょう」
両親共に、メイジーメイジーとなんなのか。そもそもメイジーを預かったのは父の権限だし、母も了承した。貴重な時間を割いて面倒を見たのは、そちらが依頼してきたからではないか。進んで立候補したわけでもないのに責められる謂れはない。メイジーと二人で登校するようになってからは、あらぬ疑いをもたれぬようメイドを乗車させている。きちんと配慮していた。第一に、
「アデレードはちゃんと理解している」
レイモンドが刺々しく告げると、
「理解? 何を理解しているの? 私なら一つも理解できないわ」
ポーラが憐れむように言うので、レイモンドは喉が詰まった。でも、負けるわけにはいかなくて、
「……だから、メイジー嬢の試験が終わるまでは、別に登校するってアデレードが自分で言ったんです。邪魔したら悪いって、」
と続けたが、そこまで言った時、レイモンドは、本当にアデレードはそんなことを言ったか? と突然不安になった。「じゃあね」と笑った時の顔が頭を過ぎる。あれは何の挨拶だったのか。激しい動悸がする。母が深く息を吐く音が嫌なくらい耳に届き、次いで、
「せめて引き際くらいは心得なさい」
と静かな声が響いた。はっきり聞こえたのに意味が理解できなかった。ジリジリと体温が上がっていくのを感じるのに、何処か遠くがひどく寒い。引き際? 何の? 何を言っているのか。そんなことは認められない。
「絶対に嫌です」
子供みたいな言葉を放って、気づけば部屋を飛び出していた。
「レイモンド? ちょっと何処へ行くの! まさかバルモア邸じゃないでしょうね? 不躾な真似はやめなさい!」
不躾だろうと非礼だろうと関係ない。自分のものを取り返しに行く。くれると言った約束を守ってもらいに行く。それだけの代償は払ってきた。五年間、寝る間も惜しんで心血を捧げてきたのだから。
ただ、そんなことを考えていた。




