SIDE2-4
翌朝の馬車の中で、サマーパーティーのことは、お互い口にしなかった。いつものアデレードなら、
「結局来れなかったのね。待っていたのよ?」
とムスッとした顔で言ったはず。でも、
「勉強していたんだ。仕方ないだろ。成績が落ちたら特進科から外されるんだぞ。卒業まで後半年なのに目も当てられない」
と返せば、不機嫌ながらも納得して終わる。しかし、今回は一切触れてこなかった。それは後ろ暗いことがあるからではないか。
(侯爵家の息子から縁談がきて浮かれていたくせに)
(あの後一体どうなったんだ?)
(いや、あれはただの社交辞令の会話だった)
ぐるぐる感情が廻って怒りに似た不安が収まらなかった。けれど、こちらから尋ねるのも癪に障る。アデレードから話題にするまで黙っていよう、と決めた。だというのにメイジーが、
「昨日のサマーパーティーは凄い賑わいでしたね。息抜きしちゃったから、今日からまた頑張らないと」
と言い出した。
あの後、自分は直ぐ帰宅したが、メイジーは父と共に夕方近くまで参加していた。父と二人で楽しんだ話をするのは構わないが、こっちがあの場にいたことまで喋られたくない。
「じゃあ、始めようか」
レイモンドは、メイジーの話を制するように今朝の新聞を手渡した。その場で資料を読み込み自分の意見をまとめて発表する、という面接試験の対策として、朝刊のコラムを題材に毎朝練習している。
「五分計るから」
制限時間を告げると、メイジーは真面目な顔でコラムを読み始めた。ほっとしてレイモンドも時計を気にしつつ自分の教科書に視線を落とした。
昨日も帰宅後、ずっと机に向かっていた。勉強していると他のことを考えずに済む。特進科を卒業して、父の後継として仕事に就けば全て解決する。二人の将来の為に頑張っているのだから、と安心できた。アデレードの気持ちを一切慮ることなく、何故あそこまで妄信できたのか。きっとアデレードがいつもいつも笑っていてくれたからだ。
だから、三日ほどしていつも通りの調子で、
「ルグランの予約日明日なの覚えてる? ちゃんと来てね!」
とアデレードが笑った時、ほら、やっぱり大丈夫、と思った。同時に、サマーパーティーの怒りが再熱した。侯爵家の倅の方がよいのではないか。そもそもアデレードがこちらへ向ける感情は軽い。どんなに成績を上げて、いくら社交界で持て囃されても、アデレードは昔から一つも変わらなかった。「アディはレイのこと好きだよ!」と言ったあの頃と同じ。その辺のありふれた好きのまま。例えば、チョコレートケーキを好きだと言うのと同じくらいの安物。もっと高い熱量を向けてくれてよいんじゃないか。自分は「学生らしい生活」の全部と引き換えに「侯爵令嬢に見合う」という評価を必死で得たのに。それくらいの重い気持ちでいるのに。自分ばかりが好きでいる。あまりに不公平じゃないか。違うと言うなら証明してくれ。
そんな狂人めいた驕れる気持ちがあったから、あの日、あの店へメイジーを同伴して行った。
「ルグランへ行くんですか? いいなぁ。半年待ちのお店でしょう? 今から予約してもわたしは半年後には平民として働いているから、きっと行く機会なんかないわ」
と悲しげに笑うメイジーに同情したふりをして、連れて行った。本音は、アデレードに対価を払わせたい一心だった。二人の約束にメイジーを連れて行ったら不快に思うだろう。世界一美味しいと言うケーキとやらを、嫌な気持ちで食べたらいい。せめてそれくらいは我慢すべきだ。それで漸く対等になれる。誰が聞いても意味がわからないし、思い返すと自分でも何故あんな風に考えていたのか理解できない。過去に戻れるなら、頭のおかしい自分を殴ってでも止める。だけど、そんなことはできないし、当然、あの日、未来の自分がやってきて殴り飛ばしてもくれることもなかった。
「貴方に命令される謂れはないわ。さよなら」
アデレードが席を立った時、不安や焦りや後悔ではなく、怒りの感情だけがあった。チョコレートケーキ一つで出て行ったアデレードが、忌々しくて堪らなかった。テーブルに残された紙幣に震えるくらい憤った。
(一万リラ? たったの?)
ケーキの値段として換算したんじゃない。これが自分の愛の値段のような気がした。一万リラで精算された。やっぱり安物だったじゃないか。目の前が真っ赤に染まって憎しみに呑み込まれていく。が、
「あの、レイモンド様、アデレード様、大丈夫でしょうか?」
メイジーに呼ばれてハッと我に返った。店内の話し声や雑音に、周囲からの目を強く意識して一気に冷静さを取り戻した。
「大丈夫だ。君が気にすることじゃないから」
「でも……」
「折角来たんだし遠慮せず食べてくれ」
この店は貴族専用だ。もうすぐ平民になるメイジーが来れる機会はもうない。だというのに利用して巻き込んだことを詫びる気持ちが湧いた。同時に、
(そうだ。メイジー嬢に親切にして何が悪いんだ)
という自己保身が広がった。元々あったものを失うことは、初めからなかったより辛い。アデレードは、自分が恵まれていることをもっと自覚すべきだ。確かに説明もなくメイジーを同伴したのは悪かったが、アデレードはこの店へは半年後でも一年後でも来れる。今回くらいメイジーに譲ってあげてもよいじゃないか。明日アデレードにそう言おう。そうすればいつも通り納得するはず。いつの間にか怒りは消えて、アデレードを言い含めることばかり考えていた。
だが、翌朝アデレードは迎えに来なかった。これまではどんなに険悪な別れ方をしても、翌朝にはけろっとした顔で迎えに来たから、まさか来ないとは微塵も思っていなかった。そしてそれは次の日も、その次も続いた。
(いつまで怒っているんだ?)
とうとう一週間経過して流石に拙い、と感じた。いや、本当は最初から焦る気持ちがあった。気づかないふりをしただけ。だって今、それを見つめてしまったらとんでもないことになる。謝罪してしまったら、非を認めてしまったら、長年のアデレードへの振る舞いが全部覆ってしまう。本当はずっと黒い感情が心の奥にあったことを、表に引っ張り出すわけにはいかない。レイモンドには零か百かの考えしかない。あっちもこっちも全部繋がっているから一つでも潰れたら全てが崩壊する。だから、全部見ないふりをしてきた。頑なにひたすらに初志貫徹するだけ。卒業して商会を継げば誰からも文句を言われなくなる。全てが完璧になる。そのための今の犠牲は仕方ない。
(後、半年なんだ。本当に、後少しで……)
だけど、今回はこれまでとは勝手が違った。アデレードが来ないことに、自分の正当性を保ちきれなかった。母が何も言わないこともプレッシャーに感じた。いつも煩いくらい干渉してきたのに、何故? 母は昔からアデレードの味方をする傾向にある。何か二人で企んでいるのではないか。だったらその罠に嵌りたくない。愚かなプライドだけは健在していて、ただ時間だけが過ぎた。
そんな雁字搦めの状態を動かしたのはメイジーだった。
「わたしのせいで、すみません」
メイジーに頭を下げられて、なんとも言えない気持ちになった。あの日、店に連れていくのはメイジーでなくても良かった。彼女は本当に巻き込まれた無関係な人間。人生を左右する大事な時期に心労をかけている罪悪感が湧いた。
「君のせいじゃないから」
「アデレード様にも同じことを言われました。でも、二人が仲違いしたままじゃ、わたし……」
「アデレードと話したのか?」
「はい。すみません。出過ぎた真似をして」
「いや……」
「あの、差し出がましいようですけど、わたし、アデレード様に昼休みに中庭に来て頂けるよう伝言しますから、二人で話をしてください」
「そんなことは君に頼むことじゃない」
「でも、わたしが原因なんですから。お願いします。このままじゃわたし勉強にも集中できないです」
メイジーの提案は、自らアデレードに会いにいくより遥かに簡単な選択肢だった。
「わかった。頼むよ」
気づけば返事をしてしまっていた。
特進科と普通科の授業時間は異なる。その為、レイモンドが急いで中庭へ駆けていった時には、既にベンチに腰掛けるアデレードの姿があった。
「メイジー様から、貴方が私のことを気にして勉強に集中できていないって聞いたの。メイジー様の就職試験も近いし、特進科の最終試験も後三月でしょ? 私のことはもう気にしてくれなくて大丈夫だから」
すっと立ち上がったアデレードに、開口一番言われて拍子抜けした。こちらを心配する発言だったこともあるし、何よりあまりに普通だったから。不貞腐れて帰った翌朝、へらへら笑って現れる時くらいに。怒っているか、拗ねているのか、と予想していたけれど、どちらでもなくて面食らった。
「……この間のことは、」
兎に角、弁明しなければ、と色々考えてきた言い訳を口にしようとしたが、
「半年後の予約じゃもう来店できないから、メイジー様を誘ったのでしょう? 本人から聞いたわ」
アデレードが遮った。メイジーが説明したなら、しつこく繰り返すのはどうか。レイモンドは口を噤んでしまった。例えば、同じ事実を告げることにも、
「レイモンド様はわたしを喜ばせる為に、お店に連れて行ってくれたんです! 悪いのはわたしなんです! レイモンド様を責めないでください」
「ずっと仲の良かった幼馴染と喧嘩したままじゃ勉強にも身が入らないみたいなんです。特進科の試験も近いのに……わたし、申し訳なくて……レイモンド様は君のせいじゃないってそればっかり仰るし……どうかレイモンド様と仲直りしてください。お願いします」
などと発言すれば、心象は全く異なることには考えが及ばなかった。レイモンドの意識には、アデレードの後釜にメイジーを据えることなどあり得なかったから、まさかメイジーが無意味にアデレードを挑発するような発言をするとは思わなかった。メイジーは他の令嬢達とは異なり男を捕まえるより、自力で就職先を探そうと努力する人間なんだから、と。
「……怒っているんじゃないのか?」
「怒ってないわ」
「じゃあ、なんで朝来ないんだ?」
責めるつもりはないのに、詰問するような言い方になって嫌な汗が背中に流れた。
「お邪魔したら悪いから。試験も近いんでしょう?」
「それはそうだが……」
なんだろうか。アデレードは感情が顔に出るから物凄く分かりやすい。でも、目の前のアデレードからは何も汲み取れない。ちゃんとした淑女に見えた。いや、アデレードだってきっちり教育を受けてきたのだから、貴族令嬢として普通のことなのではないか。でも、いつからこんな表情をするようになったのか。その時、レイモンドは、もう随分とアデレードを正面から見ていなかったことに気づいてハッとなった。
「……本当に怒っていないのか? あの時、俺、何の説明もせずに勝手に、」
「怒ってないから、もういいってば」
アデレードが再び言葉を遮る。本当に怒っていないのか、謝罪を受け付けるつもりがないのか。こんなにもアデレードのことがわからないのは初めてだった。いつも一緒にいて、なんでも理解してきたはずではなかったか。けれど、怒っていないと言う相手にこれ以上どうすれ接すればよいのか。レイモンドが適切な言葉を考えている間に、
「じゃあ、勉強頑張ってね」
アデレードは短く言い残して、スタスタ去って行く。追い掛けてよいのかも分からない。アデレードの後を追うのは得意だったのに、足が竦んで動けなかった。自分が見てきた世界が突然変異したようで手先が冷えていくのを感じた。
(そうだ。一万リラもまだ返していない)
ポケットに入れてきた紙幣を思い出して、
「……アデレード!」
呼び止めると、アデレードはその場で静止した。
「メイジー嬢の試験が終わったら、また一緒に登校するだろ?」
何故か思っていたこととは違うことが口を衝いた。試験が終われば、もうメイジーに面接の練習をせずに済む。「勉強の邪魔になる」とアデレードが気遣う理由もない。アデレードの「邪魔になる」には「二人の」と枕詞がつくとは思わなかった。
「アデレード?」
二回目の呼び掛けで、漸く振り向いたアデレードは笑っていた。きちんとした淑女の笑みで。
「じゃあね」
嫌な動悸はしたけれど、それ以上は引き止められずに後ろ姿を黙って見ていた。メイジーの試験を早く無事に終わらせて役目から解放されなくては、と問題の真意を見誤ったままに。




