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何がどうしてこうなった。
アデレードが去った部屋でペイトンは暫く考えこんでから、
「僕は一体何を約束したんだ?」
と呟いた。
応接間に入ってまず思ったアデレード・バルモアの第一印象は「平凡な令嬢」だった。だから、余計にあんなことを言い出すとは予想できず混乱してしまった。自分が開口一番、非常識なことを言った自覚はあったから、普通の令嬢なら怒るか悲しむか、どちらかだと思った。しかし、アデレードは冷静に淡々と自分の意見を告げた。えっ? えっ? という間にわけのわからない承諾をしてしまった。
「彼女、おかしいよな?」
力なく執事のジェームス・ランドンに尋ねる。
「言っていることおかしいだろ?」
縋るように繰り返すと、ジェームスは、
「嫁いできた花嫁が旦那に愛されたいと思うのは当然のことでしょう。むしろ、旦那様の発言の方が大変失礼でしたよ」
と答えた。
ランドン家は何代にも渡りフォアード家に仕える家系だ。ジェームスの父は家令としてフォアード侯爵に仕え、母は乳母として雇われていた。つまりペイトンとジェームスは乳兄弟にあたる。ジェームス自身も、学校卒業後すぐフォアード家で執事見習いとして勤め始めた。ペイトンが十八で成人の儀を迎えて独り立ちした後は、筆頭執事としてこの屋敷について来た。
ジェームスは、ペイトンにとって、建前上は使用人であるが、個人的には兄的存在でもある。言葉遣いは丁寧であるが、辛辣なことも言い合う仲だ。
「いや、そういうことを言っているんじゃなくて!」
ペイトンは抗議するが、ジェームスは冷めた表情でいる。
「じゃあ、どういうことを言っているんですか。嫁いできたから旦那に大切にされたい。自分の願望だけを叶えるのは不公平だから貴方の願いも叶える、という訴えは至極まともですよ」
その結果「自分は貴方を嫌うが、貴方は私を好きになれ」と流れることには「なんで!?」という感情しかないが。しかし、ペイトンもそれに負ける劣らずおかしいので、ある意味お似合いなのではないか、とジェームスは思った。
この結婚が白い結婚だと知らされていたのに、ペイトンは「そんなこと言ってそのまま居座る腹づもりなんだ。絶対に僕を見たら気が変わって擦り寄ってくる」と高を括っていた。何処から来るんだその自信! と一蹴できないところも厄介だった。
ペイトンは確かに女嫌いであるが誰彼構わず「近寄るな!」と四方に剣先を向けて練り歩くタイプではない。ビジネスライクな付き合いならできるし、社交辞令も言える。だが皮肉にもペイトンが長身で垢抜けた銀髪碧眼の美丈夫であることから、感じの良い態度に誤解して恋情を向ける令嬢が後を断たなかった。一方、ペイトンは、ひとたび色の孕んだ言動を取られると掌返しにばっさり関係を切り捨てる。それで袖にされた令嬢達から逆恨みされ、あらぬ噂を流されて、結果、余計に女性嫌いに拍車を掛ける悪循環が続いている。
しかし、ペイトンは女性関係を除けば常識的な男であるから、フォアード家の今後を考えると自分自身に強く思うことはあった。されど、生理的に受け付けないものを好きになれと言うのは酷な話だ。あれこれ考えるが決心しきれず逃げ続けてきた。今回重い腰を上げたのは、相手が裕福な侯爵家の令嬢だったことが大きい。ペイトンの最大の女嫌いの原因は金蔓として父親を騙して結婚した実母にある。父は母にベタ惚れで、母の放蕩を許していたが、母はそれでは飽き足らず、浮気を重ね、挙句、フォアード家の財産を横領し男と駆け落ちした。父は憔悴し、残されたペイトンは本当にフォアード家の血を引く子供であるかを疑われた。他国の研究機関で血液による親子鑑定ができると知った親族に誘拐紛いで連行されて、鑑定を受けさせられた過去もある。鑑定結果は「親子関係あり」と出たものの、ペイトンは心無い人間から後ろ指を指され暗い幼少期を過ごした。成長するにつれ美丈夫だと有名だった曽祖父に生写しのように似てきたことでその噂は払拭されたのだが。だから、結婚相手は金目当ての女を避けるため、自分と同等かそれ以上の資産家で高位貴族の娘でなければならない、という絶対的な条件を持っていた。しかし、フォアード侯爵家より裕福な年頃の令嬢など早々いるはずはない。いたとして、ペイトンのような難ありの男に嫁いでくるか、という問題もある。そんな中、現れたのがアデレード・バルモアだった。ペイトンの絶対譲れない第一条件をクリアしている希少な令嬢。おまけにペイトンの碌でもない噂を知っても嫁いでくると言う。フォアード侯爵家では両手を挙げてアデレードを迎えた。だというのに、当の本人がいきなり先制攻撃をかましたのだから、苦言を呈したくもなる。
「初対面で為人が分かるわけないんだから、話し合って気が合うとか合わないとか判断するものでしょう。これが白い結婚というのもご存じでしょう? 嫌なら一年後に離縁できるという前提があるのに、いきなり失礼にもほどがありますよ。曲がりなりにも結婚の承諾をしたのですから往生際が悪すぎます」
ジェームスの言葉に、
「だが、」
とペイトンは反論しようとしたが、
「というか、もう約束したのですから一年はちゃんと奥様を愛して大切にしてください」
とジェームスが強引に締め括った。
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夕食の用意が出来たとメイドに呼ばれて晩餐の席へ向かう。「貴方を愛さない」という取り決めなので、嫌がらせの為にわざと十分ほど遅れて行ってみたが、ペイトンは文句をつけなかった。ペイトンの方はこちらを愛して大切にする設定なので、ちゃんと演じる気があるのね、とアデレードは少し感心した。なので席に着くと早々に、
「これ、書面に起こしました」
と契約書を差し出した。十人は座れるテーブルの端と端に向かい合い座っているため、控えていたジェームスがアデレードから契約書を受け取りペイトンに渡した。
「本当に書面にしたのか……」
「はい、口約束は信用ならないので」
とさらりとアデレードが答えると、
「なんだ。僕が信用に値しない人間だということか」
ペイトンが急に突っかかってくる。
「え、いえ、貴方のことは信用に値するかどうかさえ、そもそも知りません。口約束をして嫌な目に遭ったことがあるので、自分の経験から学んだ結論ですよ」
アデレードが平然と答えると、ペイトンはぐぬぬっと言葉に詰まった。ペイトンは五つも歳下の娘にいちいち目くじらをたてている自分に恥じいる気持ちが急速に芽生えた。ジェームスが言う通り、もう結婚しているのだし確かに往生際が悪すぎる。
ペイトンは大人しく契約書に目を通した。形式に則った書式。それらしい法律用語で認められている。かなり達筆な文字だ。
「違約条項が空白になっているが?」
「はい、契約違反をした場合の罰則についてはまだ話し合っていませんでしたので、私が勝手に決めるわけにはいかないでしょう? どうします?」
「……罰則なんて必要だろうか」
「必要です」
アデレードが躊躇いなく言うのでペイトンは閉口した。これまでペイトンに関わってくる女性は、仕事関係か、恋情で近寄ってくる相手だった。いずれもペイトンが強い立場だったから、面と向かって反対意見を言われたことなどない。振った後逆上してくる令嬢はいたが、こうも冷静に反発されると面食らってしまう。
「契約って通常違約条項を折り込むものではないですか? でないと好き放題違反できてしまいますし」
「わかった。だが、この契約に関して何がどう違反か決定するのは難しいのではないか。あ、愛するとかそんなこと明確な答えがあるわけではないからな」
ペイトンが若干頬を紅潮させて告げる。今の会話にそんな要素があったか謎だがアデレードは構わず続けた。
「そうですね。では第三者に今の態度は契約違反に該当するか判定してもらいましょう。違反する都度ポイントが加算されていく方式で、一年後ポイントの少ない方が勝ちです。罰則はどうします? 違約金というのも、パッとしませんよね。もっと絶対に違反したくない、と思える罰則でないと。負けた方が勝った方の言うことをなんでも聞くとかはよくある話ですけど、流石にざっくりしすぎて怖すぎですし……負けた方が勝った方の喜ぶことを一つ考えてしてあげるのはどうですか? 負けた方が提案するので酷いことにはならないでしょうし、もちろん勝った方が喜ばなければやり直しで。そのやり直しもあまり続くようなら第三者に判断を仰ぎ、現実的な落とし所を見つける」
アデレードは、思いつくままにペラペラ喋ってみたものの、言い終えた後で、契約とはもっとシビアなものではないか、と思った。違反した方が悪いのだから、勝った方の言うことなんでも聞け! で良かった気がしてきた。何故こんなまどろっこしいことを提案してしまったかというと、罰則を受けるのは十中八九ペイトンなのであまり無茶を言うのも可哀想か、と変な同情心が湧いたのだ。
「……わかった。だが、その第三者というのは?」
ペイトンが口を開く。
「ジェームスさんで宜しいのではないですか? 無駄なお仕事が増えて申し訳ないですが」
「ジェームスは僕の執事だぞ」
「えぇ、でも先程も公平に判断して頂けましたし。明らかな不正を感じましたら、変更を希望致します」
「……わかった」
この人殆ど「わかった」しか言っていないけどいいのかしら? とアデレードは思ったが、面倒くさいので敢えて口にはしなかった。
「では、違約条項を書き加えて契約書を完成させます。ジェームスさんも宜しくお願いしますね」
「畏まりました」
ジェームスが一礼する。同時に、頃合いを見計らっていたメイド達が食事を運びはじめた。
アミューズからカフェ・ブティフールまで、アデレードの好みのものばかりだった。いくら愛され妻契約したとはいえ、事前に調べていなければ用意できるわけはない。つまりこれは契約以前から手配されていた。恐らくジェームスの計らいなのだろう。主人が歓迎しない花嫁でも礼儀を尽くしてもてなす。公平な第三者として彼を抜擢したのは間違いじゃなかったな、とアデレードは思った。だが、その判断は良い意味で外れた。
「旦那様、罰則のポイント一点ということで宜しいですね」
ジェームスが静かに口を開く。
「え」
「え」
アデレードとペイトンの言葉が重なった。
「会話のリードもなく、終始無言で食事を終えてしまうとは、どう考えても契約違反でしょう」
ジェームスが嗜めるように言う。特にこちらが不快感を露わにしたわけでもないし、食事中に会話がないことくらいで違反点を加算するのは厳しすぎないか、とアデレードは思った。何故なら、レイモンドはいつもそんな風だったから。
「まだ契約書にサインしていないだろ」
「契約云々以前に人としてどうかと思いますよ。こういう場で会話をリードするのは男性のマナーですから」
ジェームスがため息交じりに言う。確かに食事中に全くの無言でいることは不作法かもしれない。アデレードは、ペイトンとジェームスのやりとりをぼんやりした気持ちで見つめた。レイモンドは人前ではにこやかで話題豊富に会話を進めるが、本当はそれほど話好きじゃなく、二人の時は沈黙であることが多かった。アデレードはそれを「私にだけ気を許した本音の姿を見せてくれている」と嬉しく感じていた。思い返せば滑稽すぎて笑ってしまう。
「急に会話と言われても、僕は彼女と会ったばかりなんだ」
「仕事では初対面の女性でも普通に話しているでしょうに」
「彼女は仕事相手じゃないだろう! 僕の、つ、妻なんだぞ!」
「いや、だったらむしろもっと積極的に話し掛けてくださいよ」
「大丈夫です。旦那様が仰る通りまだ契約書に署名していないですから」
アデレードはペイトンを庇う気は毛頭なく、二人の会話を聞いていると過去の自分に対していたたまれない気持ちになるので止めた。だが、
「奥様はお優しいですね」
ジェームスは感心して、ペイトンはあんぐり口を開いたまま黙った。ジェームスはいいとして、ペイトンの反応の意味が全く分からない。噂を聞く限りでは上から目線で不遜な態度を取るタイプだと想像していたが、そんな風でもない。反応が独特すぎてこれはこれで厄介だが。
「いえ、ではわたしは部屋で契約書を完成させます。後ほど侍女に届けさせますので署名お願いします」
アデレードはチラッとペイトンを見て立ち上がるが返事が返らず固まったままだ。取り敢えず、ジェームスはこちらの味方らしいので、放っておいても契約書を渡せば無理やりサインを書かせてくれるだろう、とアデレードはそのまま食堂を後にした。
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「お前は一体誰の味方なんだ」
アデレードの姿が完全に見えなくなると、ペイトンも立ち上がり足早に自室へ向かった。様子がおかしいので、仕方なくジェームスも後に従ったが、ペイトンは部屋に入るなりジェームスを責めた。
「味方とか、敵とか、そんな子供じみたこと言わないでください」
ジェームスが窘めて返したが、恨みがましい言葉とは裏腹にペイトンが妙にもじもじした態度なので不気味だなと思った。ペイトンはどう贔屓目に見ても可愛い容姿ではない。長身でどちらかと言えばがっちりしている。顔も美形特有の冷たさがあり、朗らかさの欠片もない性格と相まって真顔でいるとかなり冷酷に見える。その男が、今は何故か面映いような仕草を見せているから気味が悪いのだ。
「彼女……なんと呼べばいいんだ」
「え?」
「僕のこと、だ、旦那様って呼んでいただろう。旦那様に対する呼称は……奥様……か?」
こいつ何言ってんだ、とジェームスは思った。一応、主人であるので口には出さなかったが、はっきり思った。
「いや、普通に名前で呼んでください。自分の妻を奥様とは言いませんよ」
「名前……」
「もしくは愛称でもいいのではないですか。アデレード様ですからアディとか」
「無茶言うな」
ペイトンの性格上愛称で呼べるわけはないのは承知だ。ハードルを上げることで名前で呼ぶことの抵抗を下げる効果を狙った。
「だったら、普通に名前で呼んでください」
「いきなりすぎないか?」
だから、普通は結婚前に顔合わせして事前準備をする。それを全部断ったのはお前だろうと言いたかったが、今更だ。
「気になるなら今日から夫婦になったから名前で呼ばせてもらうと許可を取ればよいのでは?」
「お前はそうやって許可を得たのか?」
「私は恋愛結婚でしたので恋人期間も長かったですし自然に名前で呼んでいました」
「ほら!」
何が「ほら!」なのか。ペイトンが勝ち誇って言うので、ジェームスは呆れるばかりだ。
ペイトンは女性とまともに付き合ったことはない。しかし、女性と接点がなかったわけでもない。ペイトンに関する悪質な噂を知ってなお、ペイトンの持つ地位と財産と美貌に群がる令嬢達は多数いる。ペイトンの最も嫌うタイプの令嬢達だ。手を替え品を替え近づいてくるので、二人きりで出掛ける状況に持ち込まれることもあった。そんな時のペイトンは、実に堂々としており、紳士的に或いは辛辣に相手をあしらった。取り乱すことなどなかったし、常に自分のペースだった。だというのに、現状の体たらくぶりは何か。女性を追い払う経験値は人並み以上だが、向き合う経験は幼児以下ということか。それにしてもちょっとひどいのでは、とジェームスは困惑した。「名前で呼んでください」と幾ら繰り返しても、ああだこうだごねまくる。いやもう勘弁してくれよ、とうんざりしているところへ、天の助けのようにドアを叩く音がした。救世主はアデレードが自国から連れてきた侍女のバーサだった。夕食前に一度侍女長と共にペイトンの執務室へ挨拶に来ている。
「失礼致します。アデレード様から契約書を預かって参りました。アデレード様の分と、旦那様とジェームス様の控え用に三枚ありますのでそれぞれサインを頂くように言付かっております」
部屋へ戻ってすぐ作成したのだろうが仕事が早い。といっても一時間は経過しているが。
渡された契約書を受け取り内容を確認する。特に不備も見当たらない。しかし、ペイトンはサインする気配がなかった。内容に瑕疵がある云々ではなく契約自体を渋っている様子に見える。本当に往生際が悪い。ジェームスが、長年の付き合いから無理やり擁護するならば、元来生真面目な男なので契約したからにはきっちり守らねばという思いが強く、条件のハードルが高すぎることを懸念しているのだろう。何故こんなことになってしまったのか。思い返しても、特にアデレードが無理強いしたわけではない。つまり承諾したペイトンのせいだ。だから、もう潔く腹を括らせるしかない。
「奥様の分だけでも先に署名してください」
ジェームスはペイトンを煽った。アデレードの分の契約書を持って帰りたいバーサが室内で待機しているのだ。ペイトンはチラッとバーサに視線を向けた後、
「わかっている」
と、ようやく観念してペンを走らせた。
かくして愛され妻と嫌われ夫契約は締結した。