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アデレードは夕食から戻ると、早々と寝る準備をして寝台に横になった。
凄く好きだった人、と言葉に出した時、考えないようにしてきたレイモンドの顔が浮かんだ。でも、くっきりはっきり鮮明には思い出せなかった。まるで自分の想像のレイモンドが思い出の中で動いているように見えた。
(もしかして、私はずっとレイモンドの幻想を追っていたのかもしれない)
レイモンドとの関係が決定的に破綻したのはカフェ・ド・ルグランへ行った日だ。
今年開店したばかりの有名ショコラティエが手掛ける店で、一日十個限定のチョコレートケーキに人気が殺到している。半年待ってようやく来た予約日だった。
「人生の中で一番美味しいケーキだったの! レイモンドにも食べて欲しい!」
そんなことを興奮しながら言ってレイモンドを誘った。
レイモンドは「あぁ」とか「へぇ」とか答えたはず。快諾はしないけど、嫌とも言わないみたいな。振り返れば、いつも自分ばかりがはしゃいでいた気がする。独りよがりで色々痛かったのかもしれない。俯瞰的に蘇ってくる記憶に居た堪れなくなった。やはり周囲の言うように、厚顔無恥にしつこく付き纏っていたのだろうか。でも、だったら、もっとはっきり迷惑だと言って欲しかった。あの日みたいに。
ルグランへ行く約束をした日、レイモンドはメイジーをエスコートしてカフェに来た。「なんでよ!」と怒りの感情が噴き上がるより、空虚な気持ちになった。
「二人分の予約しかしてないのに……」
「ごめんなさい。やっぱりわたしはお邪魔よね。どうしても一度来てみたくて」
「だったら自分で予約すれば済む話でしょ」
「俺が誘ったんだよ。いいじゃないか。そんな意地の悪いこと言わなくても、席ぐらい用意してくれるだろ」
確かに限定のチョコレートケーキに関しての予約であって、カフェ自体は当日でも入店できるし、店内はどのテーブルもゆったりした配置になっていて二人から三人に増えたところで、店側に負担は掛からないのかもしれない。でも、
(意地が悪い? 私が? 非常識なのはそっちでは?)
憤りが拭えなかった。しかし、全部呑み込んで、レイモンドに言われるままに入店して席に着いた。
以前からメイジーはレイモンドとの外出についてこようとする言動があった。その度、レイモンドの母であるポーラが嗜めてくれていた。しかし、最近それがなくなって、レイモンドとメイジーの関係は急速に深まっていた。ポーラが二人の仲を認めたのかもしれない。メイジーは華やかな美人だし、息子が疎う人間より、大切に扱う令嬢を選ぶのは当然だ。ポーラが味方でいてくれたことは大きな心の拠り所だった。だから、それがなくなっていたあの時、既に気持ちは折れていたのだろう。
入店後しばらくして、紅茶と限定のチョコレートケーキ二つ、洋梨のタルト一つが運ばれてきた。
「それが噂のチョコレートケーキ? 本当に美味しそうね」
メイジーの発言に、そんなこと言うな、食べにくくなる、と黒い感情が湧いた。勝手に来た相手に譲ってやる義理はない。元々メイジーが嫌いだったから尚のこと。無視してフォークを握ると、
「じゃあ、交換しようか? 俺はそのタルトを食べるよ」
「え! いいの?」
目の前で繰り広げられる会話に腹底の不快さが抑えきれなくなった。
「それは私がレイモンドに食べてもらいたくて予約したケーキよ」
私が世界一美味しいと思って、私が予約して、私が半年待って、私が楽しみにしていて、私がレイモンドに食べてもらいたかった、私の気持ちじゃないか。何故それをメイジーに与えるのか。
「お前の分をやれと言っているわけじゃない。支払いは当然俺が持つのだし、別にいいじゃないか」
「そういう問題じゃない!」
「そうよね。わたしが勝手についてきたんだし、これはレイモンドが食べるべきよ」
「いや、いいんだ。俺はそんなにチョコレートケーキが好きじゃないし、大して食べたいわけでもない。要らないから君が食べたらいい」
レイモンドがメイジーの皿と自分の皿を交換する。取り替えられていくケーキを見ながら頭の中が妙にすっきりしていった。
あぁ、そうか。要らないのか。そうか、そうか、要らなかったのか。だったら、もっと早く言ってくれたらよかった。そしたら、レイモンドを誘わなかったし、二個とも自分で食べたのに。でも、もうこんなケチのついたケーキは私も要らないや、と。
「わかりました。では、これも二人で食べてください。私は帰ります」
「何を言っているんだ。お前の分はお前が食べたらいいじゃないか」
「もう要らないの」
「おい、待てよ。たかがケーキで何をそんなに怒っているんだ? 馬鹿馬鹿しい。座れよ」
「貴方に命令される謂れはないわ。さよなら」
テーブルに一万リラを叩きつけて帰ってきた。屋敷に戻り今日と同じようにすぐ寝台に横になった。十八歳の令嬢がケーキ一つで癇癪を起こすなんて滑稽な醜態だ。だから、レイモンドとの絶縁の理由を聞かれても誰にも教えなかった。でも、あれは自分にとってただのケーキではなかったのだ。長年のレイモンドへの執着が解けるくらいに。
(……執着か)
寝台横のランプだけが灯っている薄暗い部屋。ぼんやり天蓋を見つめる。
昔観に行った演劇のヒロインが、しつこく言い寄ってくる男へ向けて「それは愛じゃなくてただの執着よ」と放った台詞が頭に浮かんだ。愛と執着は同じじゃないの? とその時は思った。でも、レイモンド一色だった日常がなくなった今は、あの台詞の意味がわかった気がする。失うのが怖かったし、変わるのが不安だった。レイモンドを一生懸命好きで、好きになってもらえるように努力してきた時間を無駄にしたくなかった。これを失ってしまったら、今までの人生の意味がなくなる。しがみついて離さなかったのは、そんな気持ちが心の底にあったからだ。もし、記憶をもったまま過去に戻れたら、レイモンドを好きになるのをやめると思う。やめたいと思う。やはりあのヒロインの発言は正しい。愛と執着は違う。でも、執着はかつては愛であったはずだ。腐って落ちた成れの果てだ。
(あの男は、結局ヒロインの誘拐を企てて牢屋に繋がれたのだっけ……)
自分がそんな強行に走るとは思わないけれど、レイモンドと物理的に離れて良かったと思う。その手段が白い結婚だったことも。自分から望み、家同士を巻き込んだ結婚を反故にして、途中で自国へ帰るほど無責任ではない。結婚している身でレイモンドに復縁を迫るほど非常識でもない。顔を合わせない期間が一年間あれば、現実をきちんと消化できるはず。現に四ヶ月はレイモンドのことは考えずに過ごせた。予定外だったのは、女嫌いで傲慢な男のはずの結婚相手が、案外普通で非常に穏やかな日常を暮らしていること。相手も親の意向で嫌々結婚するのだから、こちらも利用してよいと思ったし、実際第一印象は最悪だったのに、どういうわけか。多分、根が悪い人間ではないんだろう。
アデレードは、先程の夕食でのペイトンを思い浮かべた。
(あんなに同情してくれるとは思わなかったわ)
酷い振られ方をしたのだ、と打ち明けた時、ペイトンはこの世の終わりみたいな顔をした。アデレードの身近な人間は殆どが「あんな男とは絶縁して正解!」と喜んだから、ペイトンの表情に面食らってしまった。今更結婚理由などを尋ねてきて若干苛ついていたけれど、あの顔を見た瞬間、そんな感情は砂地に水が染み入るように引いた。逆に慰めの言葉をかけようかと思ったくらいだ。でも、何をどう慰めればよいのやら。ペイトンには関係のない話なのに、落ち込む理由が意味不明すぎて困った。同時に、結婚理由について改めて考えると、ペイトンばかりに理不尽な契約を強いるのはどうかと思った。本人には言わなかったが、本当は「碌でもない男と結婚したらレイモンドが罪悪感を抱くかもしれない」というのが発端だ。隣国の悪名高き屑男だから結婚した。相手のことなどどうでもよかった。「君を愛することはない」くらいの自己中心的思考。いやしかし、こっちは口に出しては言っていないのだから、やはりペイトンの方が悪い。なので、契約破棄の提案をするのはやめた。言い訳するならペイトンは、事あるごとに「契約だから仕方ない」と口にする。つまり契約がなかったら不当な扱いを受ける可能性がある。尤もペイトンに悪態をつかれても倍返しにしてやる自信はあるのだが。
(まぁ、後七ヶ月だし)
所詮今の生活は仮初。ずっと続くわけでもない。契約続行でもペイトンに圧政を強いなければ問題ないはず。それより家へ戻った後の生活の方が心配だ。両親や姉から手紙がくるが、レイモンドのことには一切触れられていないし、こっちからも尋ねたことはない。しかし、帰国したら社交界で顔を会わせるのは避けられない。再会したら、レイモンドは何か言うだろうか。
(……考えるだけ無駄よね。メイジーと楽しくやっているもの)
また自分だけが空回りするのは御免だ。やめよう。やめよう。やめよう。
アデレードはランプの灯りを消して目を閉じた。悪い思考を吐き出すイメージで、深く呼吸する。静寂の中に自分の吐く息の音だけ小さく聞こえる。上質の布団に包まれて眠るのは幸せなことだ。一定のリズムに意識を集中させていると、やがて眠りに落ちていった。




