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愛憎と狂気


 あの日。


 彼女がぼくに一方的な別れを告げた日。


 ぼくは彼女を必死に説得しようとした。


 彼女の言葉のすべてが受け入れられなかった。


 不幸になる。ただそれだけの理由で、愛する人を手放せるわけがなかった。



『ふざけるな! そんな……そんな理由で君を手放すと本気で思っているのか!? この家の人間とかかわったら不幸になる!? それがなんだ! そんなことが婚約をなかったことにする理由になるか! いいか! ぼくは絶対に君と結婚する! 結婚して、君をこの家から救い出す! あの親から、妹から遠ざける! 不幸になってもいい! どれほどの苦しみを味わおうとかまわない! 君がそばにいてくれるなら、どんな苦しみにも耐えてみせる! 君がぼくを守るんじゃない! ぼくが君を守るんだ! それこそ、どんな手を使ってでも!』



 クローイは無言だった。目を伏せ、頑なに唇を引き結んでいた。


 ぼくはさらに説得を続けた。


 同じ言葉を何度も繰り返し、懇願し、脅し文句まで口にし、最後には彼女の足元に両膝をついて泣きながらすがりついた。


『クローイ。お願いだ。ぼくを……ぼくを捨てないでくれ。不幸になったっていいんだ。君のそばにいさせてくれ。頼む。頼む!』


 長い長い沈黙のあと、クローイはようやく口を開いた。


 しかし、震える唇から震える吐息と共にはき出されたのは、どこまでも無情な言葉だった。




「さようなら、ウィリアム。今までありがとう」






 また来る、とぼくは告げた。


 クローイが折れるまで何度でも説得するつもりだった。


 そんなぼくを、クローイは拒絶し続けた。


 訪ねて行っても決して会ってはくれず、無理やり部屋に入ろうとしても、扉には鍵がかけてあった。


 手の皮膚が破れて血がにじむほど扉をたたいても、返事はなく――。


 手紙も、いくら送ったところで意味をなさかった。


 子爵には婚約解消に同意するよう迫られた。クローイがそれを望んでいる以上、結婚はさせられない、と。


 無視すると子爵に雇われた弁護士が職場に押しかけて来るようになったが、それでもぼくは同意しなかった。


 クローイを信じていたからだ。


 ぼくを愛してくれているなら、必ず考え直してくれるはずだ、と。




 それなのにぼくは。


 ――ああ、ぼくは。




 信じていた。


 信じたかった。


 愛していたから。


 大好きだったから。




 だが一方で、たまらなく不安だった。孤独だった。恐かった。




 クローイは本当にぼくを愛してくれているのだろうか。


 ぼくが勝手にそう思い込んでいるだけで、本当はぼくの片思いに過ぎないのではないだろうか。




 会いたい。会いたい。会いたい。


 会って、確かめたい。


 君はぼくを愛してくれているのか?


 愛しているからこそ、ぼくと別れようとした。そうだろう?




 教えてくれ。教えてくれ。教えてくれ。


 ぼくを、安心させてくれ。




 それなのにクローイは。


 彼女は、ぼくを。




 いつからだろう。


 何をしても応えてくれないクローイに怒りを覚えるようになってしまったのは。


 ジュリエットが、子爵夫人が吹き込んでくる毒のごとき言葉に心を(むしば)まれ、クローイを疑うようになってしまったのは。




 怒りが、憎しみへと変貌してしまったのは。




 クローイ。


 ぼくは君を愛していた。どうしようもないくらい愛していた。


 それなのに君はあれ以来、一度も会ってくれなかった。


 ぼくを傷つけたまま、放置した。


 クローイ。


 ぼくは頼ってほしかったんだ。


 ぼくは誰かに守られるほど弱くない。なんならあの家族全員破滅に追い込んでやれる。


 ぼくは君に、守ってほしいと言ってほしかった。あの家から連れ出してほしいと言ってほしかった。



 別れの言葉なんて聞きたくなかった。



 そんな方法でぼくへの愛を証明してほしくなかった。






 ぼくは、ぼくたちは、手を取り合って生きていく運命だったのに!






 憎い。


 許せない。


 同じ苦しみを、君の心にも刻みつけたい。



 ぼくのせいで苦しんでいる君の姿が見たい。



 ぼくたちは同類だ。お互いの理解者だ。




 ならば、痛みも分かち合うべきだろう?






 クローイに別れを告げられてから三ヶ月後、ぼくは婚約破棄に同意した。


 そして、その日のうちにジュリエットに求婚した。


「どれほど君に愛されていたか、ようやく気づけた。どうかぼくと結婚してほしい」

ジュリエットは驚いていたが、涙ながらにぼくの申し出を受け入れた。


 子爵夫妻は反対しなかった。それどころか、笑顔で祝福してみせた。


「よかったなあ、シャーリー。想いが実って」

「ええ、本当によかった。正直わたくしたちも、クローイよりシャーリーの方があなたにふさわしいと思っていましたのよ、ウィリアム。シャーリーは明るくて賢くて本当に良い子ですもの」


 怒りは湧かなかった。


 そのときのぼくは自分でも驚くくらい冷静だった。


 なぜクローイが婚約を破棄してまでぼくとこの家族を遠ざけようとしたのか。


 彼らの異常性を今さらながらに理解し、自身の選択が正解だったことを確信して、安堵してすらいた。




 ジュリエットと結婚すれば、義兄という立場でクローイの近くにいられる。


 何かあれば、すぐに彼女の元に駆けつけてあげられる。


 この手で守ってやれる。


 ジュリエットはその目的を叶えるための道具に過ぎない。愛してなどいない。ひどいことをしているとは思わない。あの娘はクローイを踏みにじり続けてきた。少しは痛い目に遭うべきだ。




 それに――この方法なら、クローイの心にぼくと同じ痛みを刻みつけることができる。




 クローイ。


 君はぼくと生きる幸福を手放すことでぼくを守ろうとした。


 それならぼくも、君と同じ道を選ぼう。


 いつの日か君の前に、ぼくよりも優れた婚約者が現れるまで、君を守り続けよう。



 その心に、痛みを刻み続けよう。



 どうか、苦しんでくれ。


 苦しむことで、ぼくへの愛が失われていないことを証明してくれ。






 クローイと再会したのはジュリエットが婚約して間もないころだった。


 彼女は正面階段に立ちすくんで、今しがた外から戻って来たぼくとジュリエットを、幽霊でも見たかのような表情で眺めていた。


 クローイは病的なまでに()せていた。


 なのに、美しかった。息をのむほど美しかった。


 ――今ならわかる。


 彼女はあのとき、すでにこの世とあの世の境目に立っていたのだろう。


 だからあれほどまでに近寄りがたかった。


 クローイを見た瞬間、ぼくの中で彼女への愛と憎しみが同時に湧き上がり、暴風雨のように荒れ狂った。


 ジュリエットが告げる。


『そうそう。お姉さまにはまだ言っていなかったわね。わたしたち、婚約したの。再来月には式を挙げるのよ。これでウィルもわたしたち家族の一員になるわ』


 その直後のクローイの表情は、まさにぼくが望んだものだった。


 驚愕。呆然自失。


 なぜ、と問いかけるような眼差し。


 どうして、とつぶやいた彼女に、ぼくはかすかに(わら)って答える。


「愛する人のそばにいたいと思うのは当然だろう?」


 隣でジュリエットが「まあ」と声を上げた。


 ぼくは彼女に作り笑いを向けてやった。


 クローイを傷つけるために。


 彼女に、ぼくと同じ痛みを与えるために。


 それは想像していた以上の効果をもたらした。


 クローイは青褪(あおざ)め、震えていた。今にも気を失ってしまいそうだった。


 ぼくはその姿に狂喜した。


 今すぐ駆け寄って彼女の額に、頬に、手に、足の先に、唇を押し当てたかった。



 クローイ。クローイ。クローイ。



 愛する人。


 ぼくのすべて。


 口には出さない。だが、わかってくれ。ぼくを愛しているなら気づいてくれ。


 今の言葉に隠された本当の気持ちを。


 ぼくが誰のそばにいたいと願っているのかを。 




 ぼくはクローイを傷つけたかった。


 だから、彼女から届いた説得の手紙には、こう返信した。


《最初は君への腹いせもあった。けれど、ジュリエットと親しくするうちに彼女の美点に気づいていった。今ではこう思っているんだ。欠けたもの同士くっつくよりも、どちらかが満たされている方が、幸せになれる確率は高いのかもしれない、と》


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