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壊れゆく音


 その次もだめだった。さらにその次も。


 手紙も、何度送っても返信は来なかった。子爵夫妻充ての手紙も無視された。


 それでもあきらめずに会いに行ったが、玄関ホールに出迎えに現れた子爵夫人はまたしてもぼくとクローイを会わせようとしなかった。


「流感はすでに治っているのですが、精神的に不安定になっているんです。あなたとの婚約が原因で」


 子爵夫人はそう言いながら、じとっとした目でぼくをにらみつけてきた。


 ぼくは――その言葉をすぐには理解できず、息を詰まらせた。


「は? な……どういうことですか、それは」

「ジュリエットと違って、あの子はなんでも後ろ向きに考えるんです。あなたとの結婚も、喜びより不安が大きいのでしょう。とにかく、落ち着くまでそっとしてやってください。ああ、手紙も当面の間お書きにならないで。不安を(あお)るだけですから」


 後頭部を殴られたような衝撃だった。


 なぜ。なぜ。なぜ。


 疑問が脳裏を駆け巡る。


 不安なら、なぜぼくにそれを打ち明けてくれない。相談してくれない。手紙の返事すらくれないんだ。


「なぜ、です。ぼくたちは……婚約者なんですよ?」


 子爵夫人は目をそらした。


 その様子に、ぼくは漠然とした違和感を覚えた。



 何かがおかしい。


 なんだ、これは。



「お気持ちはよくわかりますとも。――あら、ジュリエット。こちらにいらっしゃいな。ウィリアム様がいらしていてよ」


 さっきまでの態度が嘘のような笑顔を浮かべて、子爵夫人は屋敷の奥から現れた人物を手招きした。


 衣擦(きぬず)れの音と共に、人の気配と鼻につく甘ったるい香りが近づいてくる。


 よりによって、とぼくは思わずにいられなかった。一番会いたくない人物が現れるとは。


「よろしければジュリエットがお相手をいたしますわ。温室でお茶でもどうぞ。すぐに用意させますから」

「……っ、結構! ぼくはクローイに会いに来たんです!」


 子爵夫人は目を見開いたが、すぐに整った顔に怒りを浮かべる。


 泣きじゃくる声が響いたのは子爵夫人が何か言いかけたときだった。


 顔を向けると、ジュリエットが真紅のスカートを握りしめてぐずぐずと泣いているのが見えた。


「まだ怒っていらっしゃるのね、ウィル」 


 ぼくは答えなかった。目を合わせるのも不愉快ですぐに顔を背けた。


「でも、でも、ほかにどうしようもなかったの。どんな方法を使ってもあなたと結婚したかったの! それくらいあなたが好きだったのよ!」

「……君は、ぼくが君の姉の婚約者だと知っていながらそんな発言をするのか」

「だって好きなんですもの! 今でも! お姉さまになんか渡したくない!」

「……見下げた人だ」


 吐き捨てるように言ったとき、今度は子爵が現れた。


 彼は玄関ホールを見渡して「何事だね」と言うと、ジュリエットが泣いていることに気づき、速足で歩み寄って肩を抱く。


「どうしたんだ、シャーリー。なぜ泣いているんだ」

「うっ、ううっ、お父様……」


 ぼくは子爵に言う。


「今日という今日はクローイに会わせてもらいます」

「何? 妻から事情を聞かなかったのか? 今クローイは――」


 最後まで聞くつもりはなかった。


 二階に上がろうとすると、子爵夫人が金切り声を上げて男性の使用人たちを呼び、ぼくの行動を止めるよう命じる。


 子爵もそれに加わり、ぼくを二階に上げまいと取り囲んだが、どうにか振り切ってクローイの部屋に駆け込むことができた。


「クローイ!」

「ウィリアム!」


 扉に鍵をかけ、ベッドから体を起こしたばかりのクローイに走り寄る。


 喉が、胸が、刺されたように痛かった。


 それでいて、喜びが全身を支配していた。


 寝間着姿の彼女はすっかり()せてしまっていた。


 レースの(そで)から出ている両手は可哀そうなくらい細くなり、血管が浮き出ていて、少しでも力を入れて握ったら折れてしまいそうだった。


 繊細に整っていた顔も変わり果てていて、頬はこけ、目の下には隈ができ、肌は白を通り越して青白かった。


 それでもクローイは――クローイだった。


 あの目。あの髪。あの切なげな、深い悲しみをたたえた表情。


 抱きしめずにはいられなかった。口づけを交わさずにはいられなかった。


 ぼくたちは何度もお互いの存在を確かめ合い、ぬくもりを、匂いを、持てるすべてを分け合おうとした。


 子爵も使用人たちも現れなかった。


 部屋の外は不気味なくらい静まり返っていた。


「ねえ、ウィリアム。あなたは私の婚約者よね?」


 わずかに体を離したクローイが、ぼくを見上げて泣きそうな顔で言う。


 奇妙な質問だった。


 なぜそのようなことを――わかりきったことを確かめる必要があるのか。


 ぼくの求婚も、そのあと両家の立会いの下で婚約を正式に交わしたことも、彼女は忘れてしまったのだろうか。


 ――いや、違う。


 クローイのこの、眼差し。


 不安。焦り。恐怖。


 黒い瞳は今にも涙を流しそうなほどうるんで揺れていて――。


 そのとき、ぼくの中に生じた違和感は最大までふくらみ、はじけてある確信へといたった。


 クローイは()()()()に何か言われたのだ。いや、言われ続けたのだ。


 毒を、そそぎこむように。この形の良い耳に、何かを吹き込まれた。


 ぼくたちの婚約が、現実なのか、それとも彼女の妄想の産物なのか、区別がつかなくなるほど。


「ああ、そうだ。君の婚約者だ。来るのが遅くなって済まない。何度も訪ねてはいたんだが、君の両親に追い返されていたんだ。娘は会える状態ではない、と」


 ぼくはできるだけ優しい声でそう言った。クローイの頭をそっと撫でながら。


 すると、彼女は少しだけほっとしたような表情になった。


「そうだったのね。ああ、ウィリアム。どれほどあなたに会いたかったか。どれほどあなたにそばにいてほしかったか」

「すまない、クローイ。本当にすまない」

「謝らないで。あなたのせいではないもの。それに、ようやく会えた。あなたを抱きしめることができた」


 手と手を絡め、互いの名前を呼び合う。


 喉と胸の痛みが一向におさまる気配がない中、ぼくは必死に考えを巡らせた。


 ――何がしたい、あの連中は。


 目的はなんだ。なんのためにそんなことをした。


 ジュリエットを選ばなかったことに対する嫌がらせだろうか。そんなことのためにここまでするものだろうか。


『でも、でも、ほかにどうしようもなかったの。どんな方法を使ってもあなたと結婚したかったの! それくらいあなたが好きだったのよ!』

『……君は、ぼくが君の姉の婚約者だと知っていながらそんな発言をするのか』

『だって好きなんですもの! 今でも! お姉さまになんか渡したくない!』


 まさか。まさか。


 ――いや、ありえない。


 考えすぎだ。


 いくら妹の方が大事だからと言って、正式に婚約を取り交わしておきながらそんなことをするはずが、ない。


 どうしても別れさせたいなら直接言えばいいだけの話だ。こんな回りくどいやり方はしない。普通なら。


「聞いて、ウィリアム」

「うん。なんだい?」


「婚約を、解消するわ」



 何が起きたのか――何を言われたのか呑み込めず、頭の中が真っ白になった。



「なに、を……」

「ウィリアム。この家の人間とかかわっては駄目。関わったら不幸になる。人生を狂わされてしまう」

「クローイ」


 ――待ってくれ。待ってくれ。


 ぼくは心の中で繰り返す。


 君が何を言っているのか、なぜそんなことを言い出したのか、わからない。少しも理解できない。


 君がぼくを、強い意志を秘めた目で見つめているわけも。


 ぼくたちは再会を喜んでいたはずだ。


 抱き合い、口づけを交わし、手と手を取り合っていたはずだ。


 それなのに君は。なぜ。何を考えた。君の中で何が変化したんだ。


 混乱するぼくを置き去りにして、クローイは淡々とした言葉をつむいでいく。


「あなたはこの家の遺産相続人だから、まったく関わらないというのは無理でしょう。だからせめて、可能な限り代理人を寄越(よこ)すようにして。特にジュリエットとは……彼女とは何があっても結婚しないで。あの娘は手に入れたものにすぐ飽きる。でも、ただでは手放さないの。壊してから手放す。私のものもたくさん壊された。あなたも同じ目に遭うかもしれない」


 ぼくはそこではじめて息を止めていたことに気づき、あえぐように空気を吸い込んだ。


 手足の感覚がほとんどなくなっていた。


 胃のあたりが重く沈んでいて、ひどい吐き気を覚えた。


「待ってくれ、クローイ。いきなりそんなことを言われても納得できない。意味が……わからない」


 視界がぐらりと揺れる。


 吐き気がひどくなっていく。


 何が起きている。何が起きている。何が起きている。


 わからない。理解できない。状況が呑み込めない。


 考えが、何一つまともな形にならない。


「そうでしょうね。気持ちはわかるわ。でも、取り返しがつかなくなってからでは遅いの。私はあなたを守りたい。どんなことをしてでも。――たとえあなたを傷つけることになっても」


 目の前にいるクローイは、ぼくの知っているクローイではなかった。


 彼女は驚くほど落ち着き払っていた。


 何も恐れるものなどないかのように。


 神の啓示を受けた聖人のように。


 ぼくを見つめる彼女の瞳には、恋愛感情を超越した大きな愛と慈しみと、ほんの少しの寂しさが浮かんでいた。


「だから、あなたとは結婚しない。話はこれで終わりよ。さようなら、ウィリアム」






 ぼくはクローイを愛していた。


 たぶん、はじめて出会ったときから。


 彼女はぼくの同類だった。理解者だった。


 そして、ぼく自身でもあった。


 だから、愛さずにはいられなかった。心の底から。



 それなのに、ぼくはクローイを激しく憎むようになった。



 今までと変わらぬ愛を抱きながら、激しく、激しく、彼女を憎んだ。




 苦痛と甘美。相反する感覚に、体中を苛まれながら。


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