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求婚


 奇跡はある日、突然起きた。


 あれほど(かたく)なに会話を拒んでいたクローイが、ついに訊ねてくれたのだ。


「ジュリエットと話している方が楽しいでしょう。明るい性格だし、綺麗で魅力的ですもの」


 ぼくは喜びを悟られないよう必死に平静を装いながら、クローイの目をのぞきこむようにして答えた。


「君に惹かれたからだ。ぼくと同じで、どこか(かげ)をまとう君に」

「翳……」

「ぼくには欠けたところがある。体ではなく、心のどこかだ。ぼくはそれが父親に愛されなかったせいだと考えている。君もぼくと同じなのでは? ご両親は、ジュリエットほど君を大事にしていないのでは?」


 黒曜石の瞳がわずかに揺らいだ。


 クローイは何も言わなかった。それは肯定と同義だった。


「一目でわかったよ。ぼくと君は同類だって。だから興味がわいた。ジュリエットの無邪気な明るさは、悪気なく人を傷つけるところは……ぼくには合わない。ぼくは君がいいんだ、クローイ。君のことをもっとよく知りたいんだ。それに、君だって彼女に負けないくらい魅力的だ。綺麗だよ、とても」


 事実、クローイは美人だった。その繊細なかんばせは、いつもうつむき加減なのもあって、白百合を思わせた。


 だが、ぼくには彼女が美人であるか否かは重要ではなかった。


 仮に彼女が世間的に醜いと言われる容姿であっても、出会った瞬間から惹かれていただろう。


 クローイはぼくをまっすぐに見つめたまま、静かに涙を流した。


 顔を歪めることも、嗚咽(おえつ)をもらすこともしなかった。


「ウィリアム。私は……私は……」


 それ以上の言葉は不要だった。


 その瞬間、ぼくたちの体には同じ感情が流れていて、互いにそれを感じ取っていた。


 先に手を伸ばしたのはぼくだったか。それともクローイだったか。



 ぼくたちは手を取り合い、抱きしめ合った。



 ぼくは五感のすべてで彼女を感じ取ろうとした。



 甘い匂いが、布越しに伝わってくるぬくもりが、肌の柔らかさが、胸をかきむしりたくなるほど愛おしかった。


 やがてぼくはある結論を――天啓のように、得た。



 ぼくとクローイは一つになるために生まれてきたのだ、と。



 今までの苦しみは、大きな幸福を手にするために必要な試練だったのだ、と。






 数日後、再び子爵夫妻の元を訪ねた。クローイに求婚する許しを得るためだった。


 ぼくはクローイが玄関ホールに出迎えに現れてくれるものだと思っていた。


 ところが、現れたのはジュリエットで、二階へと続く階段を見上げても、愛する人の気配はみじんも感じられなかった。


「クローイは?」

「お姉さまならお部屋にいるわ」

「……体調がよくないのかな」

「いいえ。普通よ」

「…………」

「あのね、ウィル。お父様があなたにお話があるんですって。着いて早々で申し訳ないのだけれど、書斎に来てくださらない?」


 なぜクローイが出迎えに現れてくれないのか。一体、何の話なのか。


 色々と引っかかるものはあったが、ジュリエットの後に続いて書斎に向かう。


「やあ、ウィリアム。よく来てくれたね」

「急な来訪にも関わらずお時間を取っていただき痛み入ります。ところで、子爵もぼくに話があるとか」

「ああ、そのことなんだが……」


 そのときぼくはジュリエットが書斎から出て行こうとしないことに気がついた。


 彼女はぼくのななめ後ろ、手を伸ばせば届く距離に立っていて、目が合うとはにかんでみせた。その頬はわずかに赤く染まっていた。


「君、ジュリエットのことをどう思っている」


 嫌な、予感がした。


「どう、とは」

「好いている、のではないか」


 とっさに言葉が出て来なかった。


 ――何を、何を言っている。この男は、何を。


「図星かね。はは。そうか。ジュリエットの言うとおりだったか。いや、いいんだ。責めようと思っているわけではない。むしろ、君が大事な娘を好いてくれてとても嬉しいんだ。君が望むのであれば、ぜひジュリエットを君の妻にしてやってほしい。ちとわがままなところもあるが、親思いの優しい娘だ。明るくて朗らかで、周りの者たちまで笑顔にしてしまうような子だ。君を幸せにしてくれるだろう」

「お父様ったら! わがままは余計よ!」

「ははは。隠していてもいずればれる。今ここで知ってもらった方がいい」

「んもう!」


 ぼくは動けなかった。


 驚いたからではない。恐れを感じたからでもない。


 怒りがぼくから表情を、声を、体の動きすらも奪っていた。


「おや、どうしたんだね。こんなにもあっさり認めてもらえたのが意外だったか?」


 ふざけるな、と言ってやりたかったが、なんとか抑え込んだ。


 ジュリエット。ジュリエットだ。ぼくのななめ後ろにいる娘がこの事態を引き起こした。父親に、嘘を吹き込んで。


 ひょっとすると、クローイもその嘘を聞いていたのもしれない。


 ぼくはまだ彼女に愛の言葉を告げていなかったから、妹の嘘を信じてしまったのかもしれない。


 そう考えれば、出迎えに現れてくれなかったのも()に落ちる。


 ――ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな。


 ぼくは両手を爪が食い込むほど強く握りしめた。


 余計な真似をしてくれたジュリエットが許せなくて、またしても首を絞めてやりたい衝動に駆られていた。


 息を吐き、また吸う。何度も繰り返して心を落ち着ける。


「よく聞いてください、子爵。ぼくはジュリエットのことをなんとも思っていません。結婚など論外です。ぼくと彼女ではあまりにも相性が悪い」

「……は?」

「……え?」

「ぼくが愛しているのはクローイです。子爵、ぼくは今日、彼女に求婚する許しをもらいたくてあなたの元を訪ねてまいりました。いいですか。ジュリエットではありません。クローイです。子爵、彼女に求婚する許しをぼくに与えてください。必ず幸せにするとお約束します」


 ジュリエットは泣きくずれ、父親の(ひざ)にすがりつきながらぼくをにらんだ。


 やがてクローイが書斎に現れると、ジュリエットは完全に顔を伏せ、代わりとばかりに父親がクローイをにらみつけた。


 ぼくはその様子にますます怒りを覚え、父親の視線をさえぎるようにクローイの前に立った。


 足元にひざまずくと、彼女はおびえるように後ろに下がろうとした。


 ぼくはその手を取り、どこにもいけないよう力を込めた。


「クローイ、君を愛している。ぼくと結婚してほしい。一緒に幸せになろう」


 返事の代わりにクローイはその場にくずれおち、泣きながらぼくの胸に飛び込んできた。


 ぼくはクローイの震える体を包み込むように抱きしめた。


 幸福で気が遠くなりそうだった。




 ああ、それなのに。




 なぜ幸せはいともたやすくくずれ去る運命にあるのだろう。


 幾多の試練を乗り越え、ようやく手に入れたのに。




 ――ぼくたちはこれからだったのに。




 婚約が正当な手続きによって成されたあと、ぼくは日を開けずにクローイに会いに行った。


 愛の証である、真っ赤な薔薇の花束をこの腕に抱えて。


 ところがだ。


 子爵夫妻はぼくを追い返した。今までの愛想のよさが嘘のような冷たい態度で。


 その理由を、子爵夫人はこう述べた。


「娘は流感に(かか)って()せっておりますの。うつるといけませんから部屋にはお通しできませんわ」

「流感? 大丈夫なのですか、クローイは。どんな様子なのです」

「良いとは言えません。ひどい熱で意識が朦朧としていて。とにかく、本日はお引き取りください」


 クローイが心配でたまらなかった。


 彼女がこのまま死んでしまったら――そう考えると全身が震えて、足の力が抜けてしまいそうだった。


 ぼくは子爵夫人に必死に頼み込んだ。


「一目でいいんです。部屋に入れなくてもいい。廊下からでいいんです。クローイの姿を見せてください。お願いします」

「なりません! お引き取りください! 花も持って帰ってください! 今のあの子にはそのような色の花など目の負担でしかありません!」


 どうやって家まで帰ったのか、よく覚えていない。 


 気がつくとぼくは真っ暗な自室に呆然と座り込んでいて、クローイのために用意した薔薇の花束は足元に転がっていた。


 翌日は仕事だったが、少しも集中できなかった。


 会えない代わりに手紙を書くことにしたが、返信はなく、焦燥だけが募っていった。


 一週間後、ぼくはまたクローイの元へ行った。


 今度は会えるだろうと思っていたのに、子爵夫妻はまたしてもぼくを追い返そうとした。


「まだ体調がよくありませんの。本人もやつれてしまった姿を見せたくないと言っておりますし、どうかご理解くださいな」


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