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翳をまとう君


 ある日、父の代理人が勤め先の事務所に現れた。


 代理人に事務所の奥で告げられたのは、会ったこともない親類の爵位と資産を相続する権利が生じた、というものだった。


 その親類の家には男児がおらず、また生まれる見込みもないため、そうなったらしい。


 よって、なるべく近いうちにその家に挨拶に行くように、というのが、代理人に託された父の言葉だった。


 どうやらぼくは貴族になるらしい。


 おまけに、莫大な資産も手に入れるらしい。


 そうか、としか思わなかった。嬉しくもなんともなかった。むしろ、面倒だった。


 いずれは父の土地と遺産を相続して管理しなければならないのに、もう一つ、もっと面倒なものを背負うはめになるとは。


 何より、爵位を継いだら弁護士業は辞めなければならない。


 貴族になっても走り続けていられるだろうか。



 あれに、つかまらないように。



 狂気に引きずり込まれないように。






 近いうちに、と代理人に言われていたにも関わらず、相続する予定の家に顔を出せたのはそれからずいぶん先のことだった。


 寒い日だった。


 朝から空はどんよりとした灰色の雲に覆われていて、いつ雪が降りだしてもおかしくないような天候だった。


 ぼくは憂鬱な気分で迎えの馬車を降り、貴族が所有するにふさわしい壮麗な屋敷へと入っていった。


 使用人に案内され、客間に足を踏み入れると、そこにはこの家の人々が勢ぞろいしていて――。


 全員が全員、絵に描いたように美しかった。


 外は薄暗く、部屋には照明が灯されていたが、彼ら自身が光源のようだった。


 子爵夫妻の容姿は金髪碧眼、娘は白に近い金髪に青と緑が混ざり合った色の目。


 もう一人の娘は三人の誰とも似ていなかった。髪の色も目の色も、顔立ちも。


 彼女はぼくと同じだった。黒い髪に黒い目の持ち主だった。


 顔立ちは三人とは別系統の美しさで、猫のような目が印象的だったが、すぐに伏せられてしまった。目元にまつ毛の濃い影が落ちた。


 背は家族のだれよりも高く、すらりとしていた。体のどこにも無駄がなかった。それでいて、首筋から腕にかけて、さらには胸から腰にかけて、女性らしい優美な線が目を引いた。


 他の三人が華麗なら、彼女は神秘的だった。


 伏せた眼差しも、触れたら壊れてしまいそうな繊細な顔立ちも、その身にまとう陰鬱な(かげ)も。


 ぼくは彼女から、容姿以外にも同じものを感じ取った。


 他の三人は笑っているのに、彼女だけ笑っていない。伏せた目を上げようともしない。


 何もない床をじっと見つめたまま、手を組んで静かにたたずんでいる。


 そのさまはあたかも、この場から、いや、この世から、誰にも気づかれることなく消えてしまいたいと願っているかのようですらあった。


 ――おそらく彼女も、愛を知らない。


 ぼくのように、早くに母親を亡くしたわけではない。父に憎まれているわけでもない。


 だが、あの家族の様子を見ればわかる。


 妹が両親の関心を、愛情を、ひとつ残らず独占してしまったのだろう。


 彼女はどこかでそれを受け入れた。仕方のないことだとあきらめてしまった。


 だから―あんなにも悲しげな目をしている。自分と同じ翳をまとっている。

 



 妹――ジュリエットという名らしい――がぼくに秋波を送っていることには気づいていた。


 しかし、ぼくは翳をまとう彼女の姉に惹かれた。


 クローイに。


 ぼくの同類に。



 

 どうしようもなく胸が高鳴っていた。


 背筋が、吐く息が、自分でもみっともないと思うほど震えていた。


 手足の先は氷のように冷たいのに、体の芯は灼けるように熱かった。


 彼女の元へ駆け寄りたかった。華奢(きゃしゃ)な手をにぎりたかった。


 声を、聞かせてほしかった。


 頬を撫で、額と額を合わせ、ここに君と同じ苦しみを背負う人間がいる、と伝えたかった。


 ――ぼくも両親の愛を知らないんだ。


 生まれてすぐに母を喪い、父に疎まれて育った。


 君も、愛されない苦しみを、悲しみを、むなしさを、知っているのだろう?


 ぼくらはきっとわかり合える。一緒にいれば、互いの心に刻まれた深い傷を癒すことができる。


 だから、君のことをもっと知りたい。教えてほしい。


 爵位も資産もいらない。ぼくはそんなものに価値を見出せない。



 ぼくは、クローイ、君がほしい。



 翳をまとう神秘的なあなたが。






 その日、何を話したのか、よく覚えていない。


 子爵夫妻にもクローイの妹にも色々なことを聞かれたように思うが、ぼくの意識はクローイに向けられていて、それ以外は取るに足らない雑多な情報でしかなかった。






 その日以来、子爵夫妻はぼくをしつこいくらい家に招くようになった。


 仕事があるのでそのすべてを受けるわけにはいかなかったが、休みのたびに顔を出すようにした。


 子爵夫妻に媚を売るためではない。まして、彼らが何よりも大事にしている娘――ジュリエットのご機嫌取りをするためでもない。


 ぼくの目当てはクローイだった。


 ぼくはクローイに会うために、将来相続するであろう屋敷へ、半日かけて通った。


 だが悲しいことに、クローイはぼくに関心を抱いていないようだった。


 屋敷の中で彼女とすれ違うことは何度も会ったが、会釈だけで、向こうから話しかけてくれることはなかった。ぼくから話しかけても、会話はすぐに途切れてしまった。


 そして間の悪いことに、クローイに話しかけているときに限ってジュリエットが現れ、ぼくの腕を()れ馴れしくつかんだ。


 そうするとクローイはそそくさとその場を立ち去ってしまい、ぼくはしばらくの間、ジュリエットの相手をしなくてはならなかった。


「お屋敷を案内しますわ。まだすべてまわってはいらっしゃらないでしょう?」

「せっかく天気がいいんですもの。お散歩に行きません?」

「これからお父様と領地を見てまわるんですってね。戻ってきたらお話聞かせてくださいね」

「今日はお泊りになるんでしょう? あのね、明日、お友達が訪ねて来てくれますの。ウィルに紹介したいわ」


 ジュリエットは美しく天真爛漫で、明るい笑顔の似合う娘だった。彼女が放つのは光で、そこにはわずかな翳もなかった。


 だからこそ、ぼくは彼女を受け入れられなかった。


 生理的な嫌悪。憎んでいたと言ってもいいかもしれない。


 両親の愛を知る娘。誰からも愛される娘。愛されて当然だと思っている娘。手に入らないものなどないと思っている娘。



 血の繋がった姉を踏みにじって生きている娘。


 姉を自覚なく見下し、悪意なく傷つけている娘。



 彼女は得体の知れない不安や何をしても埋められないむなしさとは無縁の人生を生き続けるのだろう。


 まぶしく、屈託(くったく)なく――ぼくのような人間には嫌味としか感じられない笑顔を、この先も誰彼かまわず振りまき続ける。




 確かにジュリエットは美しい。天使のようだ。


 しかし、同じ人間だ。


 にもかかわらず、なぜこんなにも違うのか。


 ぼくとクローイは親から愛されずに育ち、今でもそれがもたらす後遺症に苦しんでいるのに、なぜ彼女は何一つ苦悩を背負うことなく微笑んでいられるのか。


 正直に言おう。


 殺意すら覚えた。


 クローイに話しかけているのに、彼女のことを知りたくて必死なのに、いきなり現れて馴れ馴れしく「ウィル」と呼ばれたとき。


 立ち去るクローイの姿を満足そうに眺めているのを見た瞬間、衝動的に、首を絞めてしまいそうになった。


 おまえのせいで。おまえのせいで。おまえが。


 ――ぼくが求めているのはおまえなどではなく、クローイなのに!


 あのときは必死に衝動を抑え込んだ。


 だが。




 絞めて、しまえばよかったのだ。




 あんな結果になるなら、あの日、あのとき、ジュリエットを殺してしまえばよかった。


 そうすれば少なくとも――クローイは死なずに済んだ。


 ジュリエットの代わりに、彼女が両親の愛情を受けるようになっていたかもしれない。 


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