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赤。赤。赤。

 

 君の心をばらばらに引き裂いて、ぼくという存在を永遠に刻みつけて――それでも守りたかった。




 信じてくれないかもしれない、君は。


 でもぼくは、本当に、守りたかったんだ。


 ぼくなりのやり方で。


 それが、正しさからひどく遠いやり方だったとしても。




     ◆◆◆◆◆


 


 鮮血が、ほとばしる。




 悲鳴が響き渡るなか、クローイの体がぐらりと(かし)いで仰向けに倒れる。


 その間も、病的なほど真っ白な肌はあってはならない色に染まっていく。



 赤。赤。赤。



 彼女の血の色はこの世の何よりも赤かった。あまりの美しさに鳥肌が立ち、めまいを覚えるほどだった。


 倒れたクローイがほっそりとした腕を持ち上げ、その血塗られた手で蒼穹(そうきゅう)を力なくつかもうとする。


 切り裂かれた首からはゴボリと血があふれる。無数の(あぶく)と共に。


 それは彼女の首筋を、身にまとう水色のドレスを濡らし、地面へと吸い込まれていく。


 血は、彼女の命そのものだ。


 それが無情にも肉体から流れ出て、大地へと還っていく。



 その光景はまるで絵画の巨匠の手によって一幅の絵画におさめられた悲劇の一幕のようでもあった。



 クローイは恋に狂って自ら命を落とす高貴な姫君だ。


 無垢で純粋で誰よりも汚れなき心を持っていたがために、辛い運命に耐えられなかった。


「クローイ!」


 ぼくは彼女の元へとつまずきそうになりながら走り寄る。


 気が狂いそうなほど必死なのに、もう一人の自分が頭のどこかでひどく冷静に眺めているのを感じていた。


 ぼくは心の中で叫ぶ。


 ――違う。違う。違う。こんなことを望んだわけじゃない。


 もう一人の冷静な自分が言う。


 ――おまえが何を望んだかは関係ない。おまえの取った行動の結果がこれだ。満足か?


 ――ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!


 ――ふざけてなどいないさ。ほうら、もうじきクローイは死ぬ。おまえへの想いを抱いたまま死ぬんだ。これで彼女は永遠におまえのものになる。


 ――やめろ! そんなことは望んでいない!


「クローイ!」


 病人のように()せてしまった体を抱き上げる。あまりの軽さに血の気が引く。


「なぜ! なぜこんなことをしたんだ! どうして!」


 ――ああ、クローイ。クローイ。


 誓って言う。こんな結末は望んでいなかった。


 もう信じてはくれないかもしれない。


 それでもぼくは、君を、愛していた。


 だからこそ許せなかったのだ。一方的に拒絶され、懇願も虚しく捨てられ、強い憎しみを覚えた。


 苦しめてやりたかった。傷つけてしまいたかった。


 その一方で、どんな手を使ってでも守ってやりたかった。


 ――守りたかったんだ、クローイ。ぼくは。


 君の心をばらばらに引き裂いて、ぼくという存在を永遠に刻みつけて――それでも守りたかった。


 君を愛さない連中から。害するやつらから。


 ぼくは、この手で、君を幸せにしてあげたかった。


 なぜなら君は、ぼくと同じだったから。


 出会ったときから、ぼくと同じ(かげ)をその身にまとっていたから。






 母は、ぼくを産んで亡くなった。


 母を愛していた父は、最愛の女性の命を奪ったぼくを許さず、憎んだ。



 ぼくは両親の愛を知らずに育った。



 愛してくれたのは赤の他人――乳母と子守の二人だけだった。


 だが、その二人も役目を終えるといなくなってしまった。


 ある日、突然。ぼくには何も告げずに。


 二人がいなくなったあと、やってきたのは男性家庭教師だった。彼はぼくに愛を与えるために雇われたのではなく、上流社会の人間に必要な教養と礼儀を叩き込むために存在していた。


 彼は厳しかった。そして無駄を嫌った。話すときでさえ余計なことは一切口にしなかった。


 笑顔を見せることはなく、その目は氷のように冷ややかで、唇を引き結んでいるのが常だった。


 彼はぼくを厳格に管理し、生活習慣や食事の内容にまで口を出した。読んでいい本も彼が決めた。


 ぼくは優秀な生徒ではなかったため、よく鞭で手の平を打たれた。手の平が裂け、血がにじみ出ようと、彼が表情を変えることはなかった。


 父がそんな男性家庭教師のやり方に干渉することはなかった。


 そもそも父はぼくと関わろうとはせず、存在を徹底的に無視することで心の均衡を保っているようだった。


 名前を、呼ばれたことはあっただろうか。父に。


 おまえ、と呼ばれていたことは覚えている。今もそうだ。


 使用人の前では〈アレ〉と呼ばれていた。


 豊かな髭に覆われた口から、ウィリアム、という音が発せられた瞬間を、ぼくは知らない。


 寄宿学校に入る年、父に後妻ができた。


 その一年後、二人の間に娘が生まれた。さらに二年後には男女の双子が生まれ、気がつくと生まれ育った家のどこにもぼくの居場所はなくなっていた。


 寄宿学校には夏と冬に長期休暇があったが、ぼくはそのどちらも家に戻らなかった。


 見かねた友人が「僕の家に来ないか」と誘ってくれたので、そちらにお邪魔していた。


 友人子爵夫妻はぼくを歓迎してくれた。ぼくは彼らと出会って、世の中には子どもを宝物のように愛する親がいることを知ったのだった。


 寄宿学校を出たあとは大学に進み、法律の勉強をした。


 卒業後は弁護士の資格を取り、知り合いに紹介された弁護士事務所で働いた。住まいは事務所の近くの家の二階を間借りした。


 地主階級(ジェントリ)の長男でありながら働くことに対し、父は何も言わなかった。家名に泥を塗るような真似はするなよ、とは言われた。


 大した資産も持たない地主階級なぞに家名も何もあるものか、と思ったが。


 仕事は生き甲斐だった。


 仕事だけが生き甲斐だった。


 ぼくにはそれしかなかった。だからがむしゃらに働いた。


 息抜きに酒を飲んだり、女とも付き合ってみたが、仕事ほどぼくを満たしはしなかった。趣味を持とうとしたこともあったが、どれもだめだった。


 ぼくの人生は、まるで何かに追われているかのようだった。


 止まったら追いつかれる。追いつかれたらつかまる。


 つかまったら――おそろしいことになる。



 何に? 



 わからない。


 わからないからこそ恐ろしく、ひたすら走り続けるしかなかった。




 一体、何がぼくを追いかけていたのか。


 今ならその正体がわかる。



 不安だ。



 理由のない不安。曖昧(あいまい)とした、漠然(ばくぜん)とした、言葉では言い表せない不安。


 ぼくは両親の愛を知らなかった。それどころか、父には憎まれてすらいた。


 そのせいなのか、心に穴が開いていた。


 真っ暗な、底なしの穴。永遠にふさがらない穴。


 不安は常にそこからにじみ出ていた。ぼくをとらえ、底なしの穴へ――狂気へとひきずりこむために。


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