この血潮はあなたへの愛の証明
私はウィリアムに手紙を書いた。どうか思いとどまってほしい、と。
返事はすぐに来た。
そこには〈君がぼくを捨てたからだ〉と書いてあった。
〈最初は君への腹いせもあった。けれど、ジュリエットと親しくするうちに彼女の美点に気づいていった。今ではこう思っているんだ。欠けたもの同士で生きるより、どちらかが満たされている方が、幸せになれる確率は高いのかもしれないと〉
手紙を読んだ私はジュリエットの元に行き、ウィリアムとの婚約を解消してほしいと頼んだ。
あなたは魅力的なのだから、ウィリアムではなくともいいはずだ。社交の場でもっと条件のいい結婚相手を見つけられるはずだ。
「誕生日の贈り物、あなたにあげていたでしょう? あなたがほしがったものはなんでも渡していたでしょう? だからお願い。ウィリアムと別れて。他の人を選んで」
「何よそれ。馬鹿にしているの?」
ジュリエットは天使のように美しい顔を悪魔のように歪めて怒った。
「私とウィルは愛し合っているのよ! それを引き裂こうとするなんて最低ね!」
「……知っているのよ。あなたが私を階段から突き落としたこと」
ひゅっという音はジュリエットの喉から聞こえた。
彼女は顔から一切の表情を消し、不自然なほど抑揚のない声で言った。
「知らないわ。そんなの。やってない。お姉さまが勝手に落ちたんでしょう」
「いいえ、あなただった。私は見た」
「……っ、だったらなんなのよ! 脅そうってわけ!? 馬鹿馬鹿しい! 誰もお姉さまの言うことなんて信じないわよ! お父様もお母様も、おじ様方もおば様方も、みんな私を愛しているんだから! 私の味方なんだから!」
「ジュリエット」
「うるさい! もう出て行って!」
ジュリエットはソファーに置かれていたクッションを投げつけてきた。
すべてのクッションを投げ終えてしまうと、今度は近くにあった花瓶を生けてあった花ごと手に取ったので、私は怪我をする前に部屋を出るしかなかった。
翌日、両親に呼ばれた。
告げられたのは、ジュリエットとウィリアムの式が終わったら修道院に入ってもらう、という言葉だった。
「ジュリエットから聞きましたよ。まったく、情けない。あなたにはほとほと愛想が尽きました。もうこの家には置いておけません」
父は母の隣で黙っていた。一応私を見てはいたが、興味がないという顔をしていた。
私は二人に問いかけた。
なぜですか、と。
どうして修道院に入らねばならないのか、という意味の問いではない。
「なぜ私には辛く当たるのですか。私はジュリエットと比べてそんなにも劣っていましたか? 愛情のひとかけらも与えてもらえないほど価値のない存在でしたか?」
二人とも目を見開いて固まっていた。
母は何か言おうとしていたが、口は開いたものの、適切な言葉が出てこないようだった。
私は目を閉じ、両手をきつく握りしめた。
「こんな人生なら、生まれてこない方がましだった」
◆◆◆◆
月日はあっという間に過ぎていき、ウィリアムとジュリエットはよく晴れた美しい日に正式な夫婦になった。
結婚式の後の披露宴は庭で行われた。
私はその様子を、自分の部屋から窓からぼんやりと眺めていた。
両親からは結婚式にも披露宴にも出席するなと言われていた。理由は、何をしでかすかわからないから、だそうだ。
『こんな人生なら、生まれてこない方がましだった』
私がぶつけたその言葉は、想定していた以上に二人を怒らせてしまったらしい。
ウィリアムの姿はすぐに見つかった。彼はジュリエットと並んで新郎新婦のテーブルに着いていた。
彼の黒い頭を見た瞬間、私は左胸を押さえずにはいられなかった。
痛い。苦しい。うまく息ができない。
――ウィリアム。ウィリアム。ウィリアム。
私は今もウィリアムを愛していた。絶望的なまでに愛していた。
不幸になってほしくなかった。
手の届かないところに行ってしまっても笑っていてほしかった。
だって彼は、はじめて私を見てくれた人だったから。綺麗だと言ってくれた人だったから。愛していると言ってくれた人だったから。
――まだ間に合うかもしれない。
白いショールを肩にかけ、その下に引き出しから取り出したペーパーナイフを隠して部屋を出る。
玄関ホールを出ると初夏のまばゆい光に目を射抜かれ、私は思わず額に手をかざした。
見慣れているはずの庭は、別の世界に迷い込んだようににぎやかだった。
色とりどりのドレス。そこに混ざる黒の礼装。
そこかしこで笑い声が響いていて、楽団が奏でる明るい音楽が人々をさらに陽気にさせている。テーブルにはたたくさんの料理が並べられ、シャンパングラスを載せたお盆を持った給仕が人々の間を縫うように行き交う。
私は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
これからしようとしていることを考えたら足がすくんで当然なのに、心は不思議なくらい落ち着いていて、むしろ清々しいくらいだった。
私も――異常者なのかもしれない。
あの家族と血が繋がっているのだからおかしくはない。
そもそもこんな方法、正常な人間なら思いつきもしないだろう。
着飾った人々の間を進んでいく。音を立てず、息をひそめて。
誰も私を見咎めない。両親も招待客と談笑していて気づかない。
新郎新婦の元へは、お祝いを言いに来る人が途切れたところを見計らって近づいた。
二人とも、テーブルの前に立った私を見るなり真昼に幽霊が現れたような表情になった。
ウィリアムは完全に硬直し、ジュリエットはあんぐり口を開け、なぜここにいるの、と苛立ちを隠さない眼差しを向けきた。
「一体何しに……!」
私は無言でショールを地面に落とす。
ジュリエットはさっと血の気を失った。手のなかにある銀色に気づいたのだろう。
いつの間にかあたりは水を打ったように静かになっていた。
「私の言葉を覚えている? ウィリアム」
私はペーパーナイフを両手で握りしめ、左耳の下に当てがった。
銀色の刃先はひんやりとしていて、その冷たさと感触に背筋が粟立つ。
恐怖は感じなかった。私の心はどこまでも凪いでいた。
「どんなことをしてでもあなたを守る。そう言ったわ。――今からそれを証明してみせる」
力を入れると、ぶつり、と皮膚が破れる感触が金属から伝わって来た。
私はさらに力を込めて刃先を肉に食い込ませ、反対側の耳の下に向かって弧を描くように、ためらうことなく首を切り裂く。
痛みはなかった。ただ熱かった。
鮮烈な〈赤〉が、血潮が、私の首から噴き出す。
それはテーブルに張られた真っ白なクロスに、料理に、グラスに、雨のように降りかかり、新郎新婦の美麗な衣装をも汚した。
一瞬の静寂の後、つんざくような悲鳴が響き渡った。
一つ。二つ。三つ。たくさん。
体がぐらりと傾いて天を仰ぎ、そのままの状態で倒れていく。
地面にぶつかった衝撃で目の前が暗くなるが、視界はすぐに明瞭になった。
――ああ、なんて綺麗なのだろう。
空をこれほどまでに美しいと感じたのはいつぶりだろう。
思えば、私の世界は長い間灰色だった。ウィリアムと出会って鮮やかに色づいたけれど、彼が去ってしまってからはまた灰色に戻っていた。
けれども。今は。綺麗。とても。ああ。
鉛のように重くなった手をゆっくり持ち上げる。
赤い。私の手も真っ赤に染まっている。
赤。赤。赤。
これ以上ないくらい鮮やかな色。
目を閉じる。開く。
視界が少しずつ白くぼやけていく。
息をするたびに首からゴボゴボと妙な音がして、熱い液体が首筋を伝い落ち、地面へと流れていった。
「クローイ!」
誰かが私の名前を呼んで、横たわっていた地面から抱き上げてくれた。
地面は冷たくて、私の体も冷えていくばかりだったから、ぬくもりをわけてもらえるのはありがたかった。
「なぜ! なぜこんなことをしたんだ! どうして!」
白くぼやけていく視界に、かすれてひび割れた声で問いかける人の姿は映らない。
けれども、私はこの声を知っていた。
――この声は、ウィリアムだ。
私が愛した人。守ろうとした人。妹の夫になってしまった人。
わあああっ、と身を裂くような悲鳴が上がる。
「すまない! 許してくれ! ぼくはただ、君のそばにいたいだけだったんだ! どんな形でもいいから君の近くにいたかったんだ! そうすればあの家族から君を守れるかもしれないから……! 手紙に書いたことだって本心じゃない! 君を傷つけたかった! 君に苦しんでほしかった! 怒りでもいい! 憎しみでもいい! どんな感情でもいいから君の心にぼくという存在を刻みつけたかった!」
ゴボリ。ゴボリ。ゴボリ。
首の裂け目から血が噴き出て、考える力を奪っていく。
――ごめんなさい、ウィリアム。
あなたが何を言っているのか、よくわからないの。
けれど、あなたが好きだった。大好きだった。愛していた。あなたと出会えてよかった。
できることなら、あなたと共に生きたかった。
「クローイ! ああ! ぼくは……ぼくは君を本当に愛していたんだ! 心から愛していたんだ!」
――でもね、ウィリアム。
愛しているからこそ、あなたを不幸にするわけにはいかなかったの。
あなたを手放すことで、この狂った家族から遠ざけるしかなかったの。
「許してくれクローイ! ぼくのせいだ! 何もかもぼくのせいだ! ぼくが君を追い詰めた! ぼくが……!」
――ねえ、ウィリアム。
どうか許して。
こんな方法しか思いつかなかった愚かな私を。
死ぬことで祝宴を台無しにし、今度こそあなたを解放しようとした私を。
そしてどうか、時々でいいから思い出して。私のことを。
そうすればこの決意も、あなたへの想いも、少しは報われるはずだから。
「いやあ! お姉さま! なんで! どうして!」
「なんてこと! なんてことなの! ああ!」
「医者だ! 医者を呼べ! 早く!」
あれはジュリエットとお母様、お父様。三人とも、どんな顔をしているのだろう。
きっと怒っているはずだ。
このことはあっという間に広まる。両親があらゆる手を使ってもみ消そうとするだろうが、ここにいる人たちが広めてしまう。
妹に婚約者を奪われた姉が、悲観するあまり彼らの披露宴の最中に命を絶った、と。
この家の評判は地に落ちるだろう。
上流社会の人々にも相手にされなくなるだろう。
――ああ、ウィリアム。あなたも……。
ごめんなさい。ごめんなさい。もっと良い方法が思いつかなくて。
ゴボリ。ゴボリ。
血があふれる。喉から、口から、鼻から。
ゴボリ。
息ができない。苦しい。
もう何も見えない。
寒い。
「ウィリ……アム……」
「クローイ! 駄目だ逝くな! 目を開けてくれ! クローイ!」
まぶたの重さにこれ以上抗えなかった。私はとろりと目を閉じた。
暗闇に身をゆだねた私はようやく欠けることのない心を手に入れ、静寂に満ちた世界に魂ごと溶けていった。
〈了〉