崩れゆく
強い衝撃を背中に感じたかと思うと、目の前に緋色の絨毯が迫り、私の体は音を立てて転がり落ちていった。
目の前が真っ暗になり――わたしは六日後に目を覚ました。
体中が熱の伴う痛みを訴えていて、特にわき腹と左足はひどかった。それもそのはずで、肋骨が数本と左足首が折れていたのだ。
私は真っ先にウィリアムに会いたいと思った。
家族は血が繋がっているだけの他人だった。この世で私の味方はただ一人、ウィリアムだけだった。彼だけにそばにいてほしかった。
その訴えは、母によって却下されてしまった。
「婚約者でも夫でもない男性にそばにいてほしいだなんて、貴族の娘が言っていいことではありません。恥を知りなさい」
意味がわからなかった。
ウィリアムは私の婚約者だ。結婚相手だ。
そばにいる権利が――いてほしいと願う権利があるはずだ。
動揺するあまり唇を震わせる私を見下ろし、母は嘆息する。
「可哀そうに。頭を打っておかしくなってしまったのね。あの人を婚約者だと思い込んでいるなんて」
ぞわり、と鳥肌が立った。
母が、見知らぬ他人に見えた。とてもおそろしい、関わってはいけない存在。
「違う。違うわ! 思い込みなんかじゃない! ウィリアムは私の婚約者よ! おかしいのはお母様だわ!」
「落ち着きなさい、クローイ。落ち着いて」
「ウィリアムを呼んで! 今すぐに! おかしいと言うのなら彼の口から直接聞いて!」
「いい加減になさい! あなたとウィリアムは婚約なんてしていない! そんな事実なんてないのよ!」
私は何度もウィリアムを呼んでほしい懇願したが、頭がおかしくなったと憐れまれるばかりで、願いはついに聞き入れてはもらえなかった。
こちらから会いに行こうにも、足が折れていてはベッドから離れることさえままならない。
私はウィリアムが会いに来てくれるのを待った。ひたすら待った。
階段から落ちたと知れば、すぐに駆け付けてくれるはずだった。
しかし、ウィリアムは現れなかった。どんなに待っても姿を見せてくれなかった。
やがて私は自分の正気を疑うようになっていった。
私とウィリアムは本当に婚約していたのだろうか?
母の言うことが事実で、私の記憶が間違っているのではないだろうか?
両親がウィリアムを追い返していたことを知ったのは、足の骨折が治って、一人で歩けるようなったころだ。
精神の錯乱を疑われ、部屋から出してもらえなくなった私の元に、髪を乱したウィリアムが飛び込んできた。
彼は両親と使用人たちの制止を振り切って会いに来てくれたのだった。
「クローイ!」
「ウィリアム!」
私たちは抱き合い、幾度となく口づけを交わした。
彼の体温が、匂いが、体の感触が、ただひたすらに愛おしかった。
「ねえ、ウィリアム。あなたは私の婚約者よね?」
「ああ、そうだ。君の婚約者だ。来るのが遅くなって済まない。何度も訪ねてはいたんだが、君の両親に追い返されていたんだ。娘は会える状態ではない、と」
「そうだったのね。ああ、ウィリアム。どれほどあなたに会いたかったか。どれほどあなたにそばにいてほしかったか」
「すまない、クローイ。本当にすまない」
「謝らないで。あなたのせいではないもの。それに、ようやく会えた。あなたを抱きしめることができた」
手と手を絡め、互いの名前を呼び合う。
脳裏に記憶の断片が閃いたのは、もう一度ウィリアムを抱きしめた直後だった。
階段から落ち、仰向けに横たわる私。
薄れゆく意識のなか視線で階段の先をたどっていくと、ジュリエットが片手で手すりをつかんで立っていて――。
笑っていたのだ。あのとき。ジュリエットは。
満足そうに。可憐に。
他には誰もいなかった。ジュリエットだけだった。
――私を階段から突き落としたのは、ジュリエットだったのだ。
ぞっとした私は急いでウィリアムから離れた。
様子がおかしいことに気づいた彼に呼ばれるが、恐怖のあまり顔を上げられない。
目的は――何?
ウィリアムだ。あの娘はどんなことをしてでもウィリアムを手に入れるつもりでいる。
おそらく母も、いや、両親ともども加担している。だから婚約の事実などないと言い、ウィリアムを追い返し続けた。
――異常だ。
ジュリエットも両親も。狂っている。どうかしている。
こんな家にウィリアムを近づけさせてはならない。
これ以上、ウィリアムとあの異常者たちを関わらせてはならない。
ウィリアムを愛しているなら、私がとるべき行動はただ一つ。
「聞いて、ウィリアム」
「うん。なんだい?」
「婚約を、解消するわ」
顔を上げてそう言うと、ウィリアムは不可解なものを前にしたような表情になった。
「なに、を……」
「ウィリアム。この家の人間とかかわっては駄目。関わったら不幸になる。人生を狂わされてしまう」
「クローイ」
「あなたはこの家の遺産相続人だから、まったく関わらないというのは無理でしょう。だからせめて、可能な限り代理人を寄越すようにして。特にジュリエットとは……彼女とは何があっても結婚しないで。あの娘は手に入れたものにすぐ飽きる。でも、ただでは手放さないの。壊してから手放す。私のものもたくさん壊された。あなたも同じ目に遭うかもしれない」
「待ってくれ、クローイ。いきなりそんなことを言われても納得できない。意味が……わからない」
「そうでしょうね。気持ちはわかるわ。でも、取り返しがつかなくなってからでは遅いの。私はあなたを守りたい。どんなことをしてでも。――たとえあなたを傷つけることになっても」
ジュリエットに階段から突き落とされたことと、両親が彼女の味方であることは黙っておくつもりだった。
教えればウィリアムは私を守るためになんとしてでも結婚しようとするだろう。
それでは意味がないのだ。
黒い瞳を見つめる。私とよく似た色なのに、彼の瞳はとても綺麗だった。泣きたくなるくらい綺麗で、胸が締めつけられた。
「だから、あなたとは結婚しない。話はこれで終わりよ。さようなら、ウィリアム」
私は父の元へ行き、感情のない声でウィリアムとの婚約は自分の勘違いだったと告げた。
父は驚いて目を見張りながらも、そうか、とだけ言った。
部屋に戻った私は床に座り込み、話し合おうとするウィリアムの必死な顔と、また来る、と吐き捨てるように言って去っていく彼の背中を思い出し、嗚咽をこらえながら涙した。
衝撃的な光景を目にしてしまったのは、それから三か月後のことだった
ジュリエットとウィリアムが腕を組んで玄関ホールを歩いていたのだ。
彼らは今しがた外から戻って来たようで、正面階段に立ちすくむ私にすぐに気づいた。
「ごきげんよう、お姉さま。今日は気分がよろしいのかしら?」
ウィリアムと別れて以来、私はろくに食事をとらなくなり、本も読まずベッドに臥せっていることが多くなっていた。
今日はたまたま気分がよかったので、外の空気を吸いに行こうとしていたのだ。
私は視線を横にずらし、二人を見ないようにした。
すっかりやつれて醜くなってしまった私をどんな目でウィリアムが見ているのか――知りたくなかった。
「そうそう。お姉さまにはまだ言っていなかったわね。わたしたち、婚約したの。再来月には式を挙げるのよ。これでウィルもわたしたち家族の一員になるわ」
わたしはハッとなって視線を二人に戻した。
ウィリアムは――ああ、あのときのウィリアムの眼差しを、私は今でも忘れることができない。
彼はぞっとするほど昏い目でこちらを見ていた。奈落の底をのぞきこむとはこういうことなのか、と思わされるような目で。
そこには強い怒りもにじんでいた。
私は血の気を失わずにはいられなかった。
話し合うため何度も訪ねて来てくれた彼に一度も会おうとしなかったのだ。当然の反応といえよう。
――でも、なぜ。どうして。
ジュリエットだけは駄目だと言ったのに。その理由も説明したのに。
「どうして……どうしてこんな……」
私の口からこぼれたのは絶望的な声だった。
ウィリアムは昏い目を私に当てたまま言った。
「愛する人のそばにいたいと思うのは当然だろう?」
彼の隣に立つジュリエットが、まあ、と顔に手を当て、頬を染める。
そんなジュリエットに、ウィリアムは先ほどとは打って変わった、慈しむような眼差しを向けていて――。
痛みが、胸を貫いた。
息が詰まるほど鋭い痛みだった。
それなのに私は死ねなかった。
愛する人と生きる道は断たれたのだ。いっそ、死んでしまえればよかったのに。