人がこれを愛とは呼ばずとも
式の間は、隣にいる花嫁をクローイだと思い込むことで乗り切った。
披露宴の間はずっとクローイのことを考えていた。
彼女は子爵家の一員にもかかわらず、式にも宴にも出席していなかった。子爵夫人いわく、数日前から体調をくずしていて人前に出られる状態ではないという。
おそらくそれは嘘で、クローイ自身が出席を拒否したのだろう。
彼女は見たくないのだ。
ぼくとジュリエットが並んで立つ姿を。
幸せそうに微笑み合う光景を。
今もぼくを愛しているから。
傷つくのが、恐いから。
クローイの部屋を見上げたが、そこに人影はなかった。
ぼくは彼女がほんの一瞬でいいから窓の前に立ってくれるのを願った。
「そうそう。あのね、ウィル。お姉さまのことなのだけれど」
邪魔をするようにジュリエットが声をかけてきたので、ぼくは作った笑顔を彼女に向ける。
「なんだい?」
「近いうち、修道院に入れられるそうよ。お父さまとお母さまがね、とうとう愛想を尽かしてしまったの。それで修道院行が決定。わたしたち、お姉さまに邪魔されることなく結婚生活が送れるんだわ」
どういうことなのか問い詰めようとしたが、招待客の一組である若い夫婦が近づいて来ため、中断するしかなかった。
彼らが去っていくと、さらに二組の夫婦がお祝いを言いにやって来たため、ぼくは少しずつ焦燥と苛立ちを隠せなっていく。
――クローイが修道院に入れられる?
子爵夫妻め、よくもそんなふざけた真似を。
それが本当ならこの結婚に意味はない。今すぐ無効にしてもらう。なかったことにしてもらう。
クローイが修道院に入れられる日はいつだ。秘密裏に調べて準備しなければ。
その日になったら修道院の前で待ち伏せして、馬車から出てきたところを強引にさらって、隣の国に逃げ込んですぐに結婚式を挙げてしまえば――。
今度こそ彼女はぼくのものだ。
つかまらないよう、遠くへ逃げよう。
クローイも喜んでくれるはずだ。
彼女はぼくを愛しているのだから。
ぼくたちに必要なのは、お互いの存在なのだから。
気がつくと最後の一組が立ち去っていて、ジュリエットが怪訝な顔でこちらを見ていた。
「ウィル。どうしたの? 様子が変よ」
「ぼくは……」
言いかけたぼくはハッと口を閉じる。
着飾った人々の間からこの世のものならざる何かが現れ、目の間に立ったからだ。
それは淡いラベンダー色のドレスに身を包み、白のショールを肩にかけた黒髪の女性だった。
今にも消えてしまいそうなほど儚く、ぞっとするほど美しい人だった。
名前を呼ぶことすらできず凍りついていると、ジュリエットが声を荒げる。
「一体何しに……!」
ショールが、音もなく地面に落ちる。
白い手に握られたペーパーナイフがあらわになり、陽光を受けて鈍く輝く。
いつの間にかあたりは水を打ったように静かになっていた。
「私の言葉を覚えている? ウィリアム」
穏やかに言って、クローイは左耳の下にペーパーナイフの先端を食い込ませた。
「どんなことをしてでもあなたを守る。そう言ったわ。――今からそれを証明してみせる」
一瞬だった。
クローイは左耳の下から反対側の耳にかけて、自身の首をためらうことなく切り裂いた。
鮮血が、ほとばしる。
それは目の前のテーブルに、花に、料理に、グラスに、雨のように降りそそいだ。
ぼくとジュリエットの婚礼衣装も鮮やかに染められていった。
悲鳴が響き渡るなか、クローイの体がぐらりと傾いで仰向けに倒れる。
その間も、病的なほど真っ白な肌はあってはならない色に染まっていく。
赤。赤。赤。
彼女の血の色はこの世の何よりも赤かった。あまりの美しさに鳥肌が立ち、めまいを覚えるほどだった。
倒れたクローイがほっそりとした腕を持ち上げ、その血塗られた手で蒼穹を力なくつかもうとする。
切り裂かれた首からはゴボリと血があふれる。無数の泡と共に。
それは彼女の首筋を、身にまとう水色のドレスを濡らし、地面へと吸い込まれていく。
血は、彼女の命そのものだ。
それが無情にも肉体から流れ出て、大地へと還っていく。
その光景はまるで絵画の巨匠の手によって一幅の絵画におさめられた悲劇の一幕のようでもあった。
クローイは恋に狂って自ら命を落とす高貴な姫君だ。
無垢で純粋で誰よりも汚れなき心を持っていたがために、辛い運命に耐えられなかった。
「クローイ!」
ぼくは彼女の元へとつまずきそうになりながら走り寄る。
気が狂いそうなほど必死なのに、もう一人の自分が頭のどこかでひどく冷静に眺めているのを感じていた。
ぼくは心の中で叫ぶ。
――違う。違う。違う。こんなことを望んだわけじゃない。
もう一人の冷静な自分が言う。
――おまえが何を望んだかは関係ない。おまえの取った行動の結果がこれだ。満足か?
――ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!
――ふざけてなどいないさ。ほうら、もうじきクローイは死ぬ。おまえへの想いを抱いたまま死ぬんだ。これで彼女は永遠におまえのものになる。
――やめろ! そんなことは望んでいない!
「クローイ!」
病人のように痩せてしまった体を抱き上げる。あまりの軽さに血の気が引く。
「なぜ! なぜこんなことをしたんだ! どうして!」
クローイは薄く目を開けてぼくを見ていた。しかし、その目は焦点が合っていなかった。
「なぜ! なぜこんなことをしたんだ! どうして!」
あと少しだった。
あと少しでぼくたちはお互いを手に入れられるはずだった。
それなのに。ああ。ぼくが。ぼくが。
ぼくだ。
ぼくが、間違えた。
ぼくが、過ちを犯した。
ぼくが君をこんな目に遭わせてしまった。
獣の咆哮に似た叫び声が上がる。
少し遅れて、その声を放ったのが自分だと気づく。
「すまない! 許してくれ! ぼくはただ、君のそばにいたいだけだったんだ! どんな形でもいいから君の近くにいたかったんだ! そうすればあの家族から君を守れるかもしれないから……! 手紙に書いたことだって本心じゃない! 君を傷つけたかった! 君に苦しんでほしかった! 怒りでもいい! 憎しみでもいい! どんな感情でもいいから君の心にぼくという存在を刻みつけたかった!」
ゴボリ。ゴボリ。ゴボリ。
切り裂かれた首から血があふれ出す。
ぼくはそこに手を押しあて、流れ出る血を少しでも減らそうとする。
頼む。止まってくれ。止まってくれ!
「クローイ! ああ! ぼくは……ぼくは君を本当に愛していたんだ! 心から愛していたんだ!」
他に、何を言えばいい。
何を言えばクローイの命を繋ぎとめられる?
あふれ出る血を止められる?
「許してくれクローイ! ぼくのせいだ! 何もかもぼくのせいだ! ぼくが君を追い詰めた! ぼくが……!」
細い体をいっそう強くかき抱き、額に頬を寄せる。
つんざくような悲鳴がすぐ近くで響き渡る。
「お姉さま! なんで! どうして!」
「なんてこと! なんてことなの! ああ!」
「医者だ! 医者を呼べ! 早く!」
ゴボリ。ゴボリ。
血は止まらずあふれ続けた。喉からも、口からも、鼻からも。
ゴボリ。
クローイのまぶたが、少しずつ閉ざされていく。
「ウィリ……アム……」
「クローイ! 駄目だ逝くな! 目を開けてくれ! クローイ!」
懇願も虚しく、まぶたは完全に閉ざされた。
抱きしめていた体がずしりと重くなり、ぼくはクローイが苦痛とは無縁の場所に旅立ったことを悟る。
逝ってしまった。
彼女は逝ってしまったのだ。
ぼくを置き去りにして。
母のように。
乳母のように。
子守のように。
ぼくを愛してくれた人たちはみんな、ぼくの前からいなくなってしまった。
クローイを抱きしめてうなだれていると、地面に転がるペーパーナイフが目についた。
ぼくは血に染まったそれを拾い上げ、握りしめる。
追いかけなければ、と思った。
追いかけて、謝らなければ。許しを請わなくては。
「ひどい! ひどいわ! こんなのひどい! 最低! わたしたちの結婚式をこんなやり方で台無しにして!」
わめきながら地団太を踏んでいるのはジュリエットだった。
子爵夫人は――亡くなった娘には目もくれず、ジュリエットを抱きしめていた。
「終わりだわ、わたくしたち。明日には国中の噂になっているでしょう。こんな……こんな醜聞、どこの社交界にも受け入れてもらえなくなる。こんなことになるならあんな娘、産まなければよかった」
子爵は亡くなった娘に近寄ろうともせず、二人のそばで頭を抱えていた。
「まったく。なんということだ。招待客たちになんと説明すればいいんだ。とにかく、クローイを別の場所に移さなくては。人目につかない場所に」
やはり異常者たちだ、とぼくは思った。
クローイが死んだのはぼくのせいだけではない。この連中がクローイにしてきたことの積み重ねが、彼女に死という手段を選ばせた。
ぼくはクローイを守れなかった。
傷つけるだけで終わってしまった。
ここから立ち去る前に、その償いを、しなければ。
クローイの体を地面にそっと横たえる。
立ち上がり、ペーパーナイフを握り直し、ジュリエットに歩み寄る。
「ウィル……」
彼女は慰めを求めてぼくに手を伸ばそうとし、天使のような顔を引きつらせた。
「えっ? ま、待って、ウィリアム」
ぼくは振り上げた手を何度も何度もジュリエットの左胸に打ちつけた。
ペーパーナイフの先端は彼女のやわらかな肌を容赦なく穿ち、血をあふれさせたが、その色はクローイのように美しくなかった。
途中、血ですべってペーパーナイフが飛んでしまったので、急いで拾い直し、腹にも突き立てる。
「やめろ!」
止めようとした子爵の喉は、真横に切り裂いた。
何が起きたのか理解していない子爵夫人には、その頬に一生消えないであろう深い傷を与えておいた。
こんなことが復讐になるかはわからなかったが、何もしないよりはましだと思った。
不思議なことに、ぼくを取り押さえようとする者はいなかった。
誰もが遠巻きにこの凄惨な光景を眺めていた。
ペーパーナイフを握ったまま、クローイのかたわらに膝をつく。
手についた薄汚い血をフロックコートに擦りつけ、綺麗になった指先で穏やかに眠る顔に触れる。
よかったな、と頭の中で誰かが言った。
――これでクローイは永遠におまえのものだ。
ぼくは反論しなかった。
それどころか、水が渇いた地面が吸い込まれるように、素直にその言葉を受け入れていた。
――ああ、そうか。
これで彼女は永遠に僕のものになったのか。誰の手にも渡らないのか。
「ふ、くふ、ははは。あははははは!」
そうだ。ぼくのものだ。ぼくのものだ。
クローイ。
君は僕のものになったんだ。
好きだ。
愛している。
愛している。
愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している愛している。
ぼくはペーパーナイフで自分の喉を切り裂き、クローイの手をとって寄り添うに隣に寝そべった。
とうに魂は離れてしまったはずなのに、彼女の体にはまだぬくもりが残っていた。
抱きしめると服越しにもそれが伝わってきて、嬉しかった。
「すぐに追いかけるよ」
ゴボリ。ゴボリ。
ぼくは血をあふれさせながらクローイの頭を撫でる。
君のいない世界に意味はない。
だから、ぼくも君の元へ行く。
再会したら、抱き合おう。口づけを交わそう。手と手を取り合って、すべてを分かち合おう。
でもその前に、謝らせてくれ。
ぼくの過ちを。
君に辛い思いをさせてしまったことを。
「ぼくらは、永遠に、お互いのものだ」
ゴボリ。
もう一度血をあふれさせ、ぼくは自分の意志で目を閉じた。
落ちていく先は底なしの暗闇なのに、なぜだかとても、居心地がよかった。
〈了〉
最後までお付き合いいただきありがとうございました。