対話
玄関の前でもまだ躊躇いがあった。
(襲ってくるようなことがあったらどうしよう。)
正気の相手ではないのだ。ポケットのスタンガンを確認する手が汗ばんでいることを感じる。
でも、ここまで来たら引き返せない。意を決して玄関チャイムを押した。
ドア越しに遠くバタバタと音がして、ハーイという返事とともに、ドアが開けられた。男は、バスローブ姿だった。
バスローブ。
「あの、隣の佐藤と言いますけど。ちょっと声のほうが。なんていうか。」
本人を目の前にすると、やっぱり強く言えない。
「えっ、何のことですか?」男は、顎に手をあて考え込む表情をしている。
(そっちのパターンか。)
どうやら、すんなりと解決しない道へと進むようだ。面倒なことになった。奥歯で苦虫を噛み潰した。
「いや、高橋さん、ここ数週間、夜とか、休みの日とか、大きな声出してないですか?」
「数週間も?ずっとですか?」
表情は分からないな、と言っている。
(このバスローブ!)
っていうか、なんでバスローブ?風呂上がりに床に大声で叫ぶ儀式でも行ってるの?安眠への導入剤代わり?明日への活力?どちらにしろ、狂気のナイトルーティンだ。
◇
(なんだこのお隣さん。わざわざ夜に難癖を付けに来たのか。)
伏し目がちな女性を前にして、高橋は思った。
何度か挨拶を交わした程度の付き合いだが、いつも低い声でボソッと応える印象だ。
(ただ、少し前から始めたことでいうと。)そこでハッと気付く。
「ああ!異世界転移ですね!」
◇
一瞬、時が止まった。
(私は今、本物を目の前にしている。)
心の中では、思い切った選択の後悔と自責の念がグチャグチャに混じり合っている。
佐藤の絶句をよそに、高橋は続けて言った。
「頑張ってるんですけどね。なかなかあと一歩が進めなくて。
でも、声出ちゃってたか。すみません、ご迷惑おかけして。」
(出ちゃってた?漏れ出す声の大きさじゃないよ!)
心臓から恐怖が漏れ出すようだ。小刻みに震えが止まらない。
「、、気をつけてくださいね。」
一刻も早く、狂気のバスローブ男の目の前から立ち去り、自分の部屋に逃げ帰りたかった。
引っ越しも検討するべきかもしれない。
◇
玄関を開けると、上の階で男女の話し声が聞こえてきた。
階段を上がると、バスローブの男性と、コートを着た女性が向かい合い、ちょうど話しを終えたタイミングのようだ。気懸かりなのは、うつむいた女性が小さく震えていることだが。
「どうかしましたか?下の階の野垣ですが。」
こちらに向けられた女性の恐怖に引きつった顔は、一瞬、安堵の表情に変わった。しかし、すぐにその表情は警告に切り替わり、頭は小さく横に振られた。関わらないで、と言うように。
「こんばんは。」男の方は呑気に挨拶した。
「ちょっと、うるさくしちゃってたみたいで。野垣さんは、何か御用ですか?」
(女性の様子は気になるが、今の私には優先すべきことがある。)
「つかぬことをお聞きしたいのですが、今、部屋の中で何かされていませんでしたか?例えば、頭に何か装置を着けて。」
言い終わるや否や、男は明らかに動揺を見せた。可能性は高い。
「そう、例えば、違う世界へ行くための儀式とかね。」
野垣の眼光が鋭く光る。
◇
野垣が階下から現れたとき安堵した。軽く後ろに流したロマンスグレーの髪、落ち着いた色味のジャケット、理性と知識を称えた表情。一目で信頼できる人だと感じた。だからこそ、善良な野垣を、目の前の高橋と関わるべきではない、巻き込みたくないと思ったのだ。
しかし、状況は一変した。野垣も高橋サイドの人間だったのだ。
異世界を口にする世代の違う狂人ふたりに、逃げ道を塞がれているのだ。
(挟まれた。)
小さな希望は、深い闇の底へ落ちていった。