階下
久々に部屋の電気をつけると、物と生活感のない部屋が現れた。代わり映えのしない光景だ。
私は、そのほとんどを研究室で働いている。いや、暮らしていると言った方が適切かもしれない。
溜まった郵便物に素早く目を通し、くたびれたボストンバッグの中の持ち帰った荷物を入れ替える。帰宅した際の決まり事を淡々とこなしていく。いつもと変わらない決まった行動。
ただひとつ違うのは、以前は上の階からこのような異音は聞こえなかった。
今、私の頭上には、上階の住人の祈りにも似た叫びが浴びせられている。明らかにこちらに向けられている。いや、これはエールなのか。わからない。そもそも床に大声を発する状況が想像できない。狂気。純度の高い狂気。呪詛の可能性もある。
本能の警戒ランプが赤く点灯する。ダメだ、このまま浴び続けると精神に異常をきたす。すぐに部屋を出なければ。
玄関に向かおうとしたそのとき、かつて経験したことのない違和感、漠然とした空間の異変を感じた。目視では確認できないが、何かが確実に起こりつつある感覚。
そして、その予感は現実となった。しかし、私は目の当たりにしていることを説明できない。なぜなら、実際に目の前の空間が割れた経験などないからだ。目の錯覚という気もするが、はっきりと空中に存在する、こぶし大くらいのソレに焦点が合う。ブラックホールはその周囲に甚大な影響をもたらすというが、部屋の中は張り詰めた緊張感と静寂に包まれている。上階からの叫びを除いて。
無意識に記憶のページが、突風に吹かれたように音を立ててめくれる。
丸山先生。
かつての恩師は天才だった。いや、天才が歪み捻れて、万人の手の届かない境地に突き進んでいたのだと思う。ボサボサの白髪に、ズレた眼鏡、極端な猫背の身体を皺くちゃの服で無造作に覆っていた。ただ、研究、論文の不備に関する指摘は、伝説の辻斬りのように、正確に、無慈悲に行われた。
そんな恩師の研究が、意識と時間を主体とした現次元からの脱却だったらしい。らしいというのは、理解できる者がいなかったからだ。他者に成果の共有できない研究は当然評価されず、その地位に固執しなかったこともあり、先生はいつも鼻つまみ者として扱われていた。本人は全く意に介していない様子だったが。
交わした会話の記憶も朧げだが、一度だけ逆鱗に触れたことを鮮明に覚えている。訪ねた研究室には人の気配がなく、持参した書類を片手に、時間を持て余すように周囲を眺めた。分厚い暗幕の隙間から差し込む光が、宙に漂うホコリを際立たせる。乱雑に配置された机の上の、積み上げられた本、ファイル、書類、未完成の機械、部品、工具、殴り書きのメモ、筆記具に陰影をつける。正直、呼吸することが躊躇われるくらいの乱雑さだ。
そんな中、物を周囲に寄せ、明らかにスペースを確保して置かれる機械に目が止まった。まだ未完成のようだが、基盤と、頭に装着する装置の組み合わせとわかる。近付き、その複雑に絡み合う配線を追うともなしに眺める。
(これは一体どういう装置だろう。)
そのとき、外から引きずるようなサンダルの足音が聞こえて、扉が開いた。
先生は、私の姿を確認し、その機械の側にいることを見るや否や、暗がりの中にも関わらず、顔がみるみるうちに紅潮していくのが分かった。
「近付くな!」
ズンズンと私と機械を置く机の間に割り込み再び怒鳴る。「離れろ!」
突然のことに私は、血の気が引き、身を硬直させた。
「いえ、ただ見て、」
「関係ない! いいか、忘れろ! 忘れるんだ!」
その獣のように血走った目が未だに脳裏に焼き付いている。
その後、先生は研究室を去った。一説には追い出されたという噂もあったが、真実は分からない。ただ、その噂には続きがあった。次元を超える装置を完成させたと。そしてその名は、
「丸山式次元跳躍装置。」
呟くように言葉を発すると、私は、次元の歪みの前に、崩れるように座り込んだ。