歩道橋から落ちたら
「スライムこそが至高にして最強。それを証明してあげます! 神様! 私はスライムになりたいです!」
「なんだと! だったら俺はドラゴンこそが最強だと証明してやる! 神様! 俺はドラゴンになりたい!」
張り合うように願い出る男女の声が真っ白な世界に響く。
叶世海里はそんな二人を目に留めながら、この真っ白な世界に来てしまう直前に起こった出来事を思い返す。
その出来事は、海里が友人との待ち合わせに遅れそうになり、待ち合わせ場所へと急ぎ足で向かっていたその道中にて起こった。
道中にあった歩道橋を上っていたところ、丁度降りてきていた女性が、なんと足を踏み外して海里のほうへと落ちてきたのである。
咄嗟に海里は女性の体を受け止めようとしたものの……。
しかし受け止めきれず。
その結果、諸共に階段を転がり落ちてしまい。
そして気付けばこの真っ白な世界に来ていたのだ。
(まさか、あれで二人とも死んでしまうとは……)
海里はあまりに突然の最期だったと心中で思う。
今日もまた平穏な日々が続いていくと信じて疑っていなかった海里は、自分が死んだという実感が薄かった。
もっとも、実際のところ海里はまだ死んでいないので、実感が薄くても何もおかしいなことではないのだが……。
(父さんと母さんには悪いことをした)
そんなことは露とも知らず、死んだと思い込んでいる海里は、両親に先立ってしまったことに罪悪感を覚えていた。
(きっとひどく悲しむに違いない)
海里の頭には悲しみに暮れる両親の姿がありありと想像できた。
四年前に姉の美沙が交通事故で亡くなったときもそうだったのだ。そのときのことをはっきりと覚えている海里は、沈痛な面持ちになる。
美沙の死の悲しみからようやく立ち直れそうなところまできていた両親が、海里の死を知ったらどうなるかと、そればかりを考えてしまう。
(だからこそ……)
そしてだからこそ、海里は願いの使い道をもう決めている。
(願いを使って姉さんを生き返らせる!)
そう。海里は願いによって姉の美沙を生き返らせようとしていたのだ!
一方で、そんな風に海里が決意を固めている間にも「私は……」「俺は……」と、他の者たちが次々に願いを口にしており。
「俺は美少女になりたい! だから超常のカエルラってアニメに登場する二十重イツキのような容姿と能力をください!」
丁度また一人、誰かがそんな願い事を口にしていた。
(問題は……。現実世界に作用する願いが叶えられるのかどうかだが……)
海里はそのやり取りを目に留めながら、そんな懸念を抱く。
ここまでずっと異世界転生後に願いが叶えられる前提で、願いを口にする者ばかりが続き、海里のように現実世界を顧みた願いがなかったからだ。
だから海里は自分の願いが聞き入れられるのかと、少しの不安を覚えていた。
ただ、そんな不安もそこから更に何人かの願いが聞き届けられ、残り三人を残すのみとなったタイミングで、解消されることとなる。
海里を含めて残った三人が目線で順番を譲り合い。
「ええっと……。パソコンを破壊して欲しいです。絶対に中身のデータが復元できないよう、徹底的にお願いします」
その結果、恥ずかしそうに願いを口にしたのが、雄大だったからだ。
「パソコンを破壊ね。オッケー。了解したよ」
そしてその内容はどうあれ、明らかに現実世界に作用するとわかる願いを、神様が了承したことで、海里の懸念は十二分に晴れ。
「それで、後は二人だけだけど……」
「あっ、それじゃあお先に。あのえっと、両親を幸せにして欲しいです」
更に加えて、海里が再び目線で先を譲った女性の願いもまた、現実世界に作用するものだったこともあって、海里はほっと胸を撫で下した。
「うーん。もう少し具体的にお願い」
「ええっと……」
そうして神様に具体的にと注文を付けられた女性が「ええっと」と話し始め、女性が思う両親の幸せを語り終えると、ついに海里の番が回ってくる。
「それじゃあ次が最後だね」
各々が好きなタイミングで願い出る中で、様子見するように順番を譲っていた海里は、こうして最後のトリを務めることとなったのだ。
「さあ。君の願いは何かな?」
そう尋ねてくる神様を前に、海里はごくりと唾を飲み込み口を開く。
「……姉さんを生き返らせて欲しい」
そうして海里が口にした願いは……。
「オッケー。それぐらいおやすい御用だよ!」
それまでと同じようにスムーズに聞き届けられた。
「ふー」
無事に願いが聞き入れられ、小さく安堵の息を吐く海里。
「さて。じゃあ、これで全員の願いを聞き終わりました!」
そんな海里の傍らで、すべての願いを聞き終えた神様が、大きな声を出して全員の注目を集める。
「いよいよか……」
すると誰かが小さくそんな言葉をつぶやき。
(これで異世界に転生か……)
そのつぶやきを耳にした海里もまた異世界転生に備えて身構える。
「なのでこれで事前説明会は終わりです!」
ただ残念ながらこのまま異世界転生とは……。
「それじゃあ。君たちが死んだ暁には異世界に転生してもらうから、そのつもりでちゃんと準備とかしといてね!」
ならないのである。
「へっ?」
次の瞬間、誰かがもらした驚きの声を最後に、海里の世界が切り替わった。
***
そして気が付けば海里は歩道橋の下で女性の下敷きとなって倒れていた。
「うっ……」
じんと右腕に痛みが走り、海里はうめく。
「いつつ……」
そんな海里の上では、女性もまた痛みを訴えながら上体を起こしている。
「えっ? あれ?」
そして海里の上に馬乗りの状態となった女性は、何やら戸惑いの声をもらしながらきょろきょろと辺りを見渡し始めた。
この女性、近島優香もまた海里と同じく神様に呼び出されていた者の一人であったため、異世界転生していないことに驚いていたのだ。
(ここは……。どういうことだ? 転生するんじゃなかったのか?)
もちろん、首だけを動かして周囲を確認した海里も同じように驚いている。
(いや、そういえば最後に神様は「死んだ暁には」って……)
ただ、海里はすぐに神様の言葉を思い出し。
(つまりまだ死んでいなかったってことか)
ついに死んでいなかったという事実に気が付いた。
(いや……。そもそもアレは本当に現実に起こったことだったのか?)
更に続けて、海里は起こった出来事を疑い始める。
こうして見慣れた日常の風景の中に戻ってくると、途端に先ほどまでの出来事が嘘くさく感じられたのだ。
(神様だとか、異世界転生だとか……)
そんなものが本当に存在するのかと、海里の中で疑念が膨らんでいく。
(……ありえない、よな。どうやら、夢でも見ていたらしい)
そうしてほどなくして出た結論がこれだった。
歩道橋の階段を転がり落ちたときの衝撃で一瞬意識が飛んで、その間に白昼夢でも見たのだろうと海里は考えたのだ。
それは神様だの異世界転生だのという不可思議が現実に存在したと考えるよりも、よっぽど説得力があり、らしい推測だった。
「あの。とりあえず、どいてもらえますか?」
だから海里もその推測に納得し、そうして未だに海里に馬乗りになったままでいる優香に対して、どくように促した。
「あっ。す、すみません!」
するとその声を聞いた優香が慌てて立ち上がる。優香はここでようやく海里を下敷きにしていることを思い出したのだ。
「すみません。ちょっと混乱してしまって……あっ、いやそれより! 巻き込んでしまって申し訳ありません!」
立ち上がるなり、ぺこぺこと何度も頭を下げた優香。
「いえ、大丈夫ですから。それよりもお怪我はありませんか?」
海里は立ち上がりながら、そんな優香に怪我はないかと尋ね。
「あっ、はい。おかげさまで怪我はしていないようです」
おかげさまでと、そう優香が答えたことで、ほっと安堵する。
(それならよかった)
実際、落ちる瞬間に海里が抱きしめるように庇ったおかげで、優香はこれといった怪我もしていない。
「か――そちらこそ大丈夫でしたか?」
そんな優香が、海里のほうこそ大丈夫かと尋ね返す。
尚、このとき優香は一瞬「叶世さんこそ」と海里の名前を呼びそうになっていたが、しかしすぐに言い換えていた。
というのも、優香もまた海里と同じく、神様だの異世界転生だのといった不可思議な出来事を、夢だったのだと判断したからであり。
だからこそ、夢の中で聞いた名前が合っているはずがないと考え、真っ白な世界で聞いた海里の名前を呼ばないようにしたのである。
「ええはい。大きな怪我はなさそうです」
そして海里はそんな優香の行動に気付かずに、怪我の具合を診ていた。
(右腕が痛むくらいで、大きな怪我はなさそうだ)
すると海里もまた、幸いなことに大きな怪我をしていなかったが……。
「それは良かった……って! 腫れてるじゃないですか!」
ただ、海里が唯一強く痛みを感じた右袖を捲ってみると、思いのほか腫れており、それを見た優香が騒ぎ始める。
「だ、大丈夫ですか? ええっと。そうだ! すぐ近くに馴染みの喫茶店があるので、そこに行きましょう。そこなら手当ができます!」
巻き込んだ自覚が大いにある優香は、申し訳なさでいっぱいになりながら、慌てて手当ができる場所への移動を勧める。
「ああいえ、そこまでしてもらわなくても大丈夫ですから」
しかし、海里はそんな優香の申し出をやんわりと断った。
(急がないと、待ち合わせに間に合わない)
手当をしてもらうほどの怪我ではないと考えていたこととに加え、なにより待ち合わせの時間が迫っていたからこその行動である。
「いやでも腫れてますし、手当はしたほうがいいですよ」
たが一方の優香も、怪我をさせてしまった手前、簡単には引き下がらない。
「だから行きましょう!」
「いえあの。この後予定があって急ぐので」
とはいえ、時間が押しているのもまた事実であり、そこに加えてわざわざ手当をしてもらうのも悪いと思っている海里もまた譲らず。
「なので申し出はありがたいのですが、本当に大丈夫です」
海里は有無を言わせぬ態度でさっさとその場を立ち去ろうとした。
「待ってください! ならせめてこちらを」
ただそれでも優香は、ならせめてと、怪我をしていないほうの腕を掴んで海里を引き止め、そしてポケットから取り出した名刺を押し付ける。
「これは?」
「もし何かあったら連絡してください。精一杯のことをしますので」
やっぱり怪我をさせてしまった手前、そのまま返すわけにはいかず、だから万が一のために優香は連絡先を渡そうとしたのだ。
「なるほど。わかりました。問題ないとは思いますが、もし何かあればそのときは連絡します」
まず連絡することはないだろうと思いながら、受け取った名刺を見る海里。
(近島優香じゃなくて森下ユウ、か……。やはり夢だったな)
そして記されていた森下ユウという名前を見て、海里はやはり神様だの異世界転生だのが、すべて夢だったのだと確信した。
優香と同じように海里もまた優香の名前を真っ白な世界の中で聞いており、その名前が名刺に記されたものと一致しなかったからだ。
もしここで名前が一致していれば、海里もそこから夢だと断じた結論に疑念を抱き、次の予定が押したとしても優香と話をしただろう。
「それでは急ぐので。これで失礼します」
だが残念ながら、そうはならずに海里は足早にその場を立ち去る。
「はい。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」
ちなみに、名前が一致しなかった理由は、名刺にはぺこりと頭を下げた優香の、作家としてのペンネームが記されていたせいだったのだが……。
そのことを海里が知るのはもう少し先の話だった。