前編
最寄りの駅から徒歩十分。
県庁の敷地から道路一本挟んだ場所に建つ、プレハブの事務所がある。
事務所の看板にはこう書いてある。
『県民の命と安全を守るための何でも相談できる事務所』
略して「何相」。
分かりやすいが、ベタである。
事務所には、所長兼事務職員が一人いる。
電話相談がメインだが、時折、直接訪ねてくる人もいる。
よって事務所での接客も、所長の業務の一つである。
所長の石田優至は五十代だが、年齢よりはだいぶ若く見える男性だ。
前職は警察関係とも、教員だったとも言われている。
柔和な表情で、お悩み相談の電話を受けているところなどは、確かに学校の先生のようだ。
ただ、急を要する事例に遭遇すると、眼光が増す。
その稀な、春雷のような石田の視線を小池が見たのは、桜が散った後のことだった。
◇噂◇
小池蒼汰は警察事務職員である。
ドラマの刑事に憧れていたが、体力には自信がなく事務職を選んだ。
所属は県警情報分析課。新人の小池に与えられたのは、県民から寄せられる情報の真偽確認、である。
「よく分からない情報の確認だったら、石さんに聞け」
着任してすぐ、先輩の職員に言われた。
そして本日、『よく分からない情報』を一つ抱え、小池は初めて「何相」に出向く。
一見チャラそう。
中身もチャラい、今風の小池だが、まあ、それなりに緊張していた。
相手は自分の父よりも年上らしい、デキるタイプの男なのだ。
こういう時は、笑いを取る!
そういう発想自体、学生気分が抜けていない小池である。
ともかく決意して、彼は「何相」のドアを開けた。
「はじめまして! 都知事と同じ名前の小池でえす!」
石田はデスクから顔を上げる。
やだ、イケオジ!
柔らかそうな髪には、年齢相応の白髪が少々混じっているが、青年の趣すら感じられる清潔な顔立ち。
石さん、なんて呼ばれているから、てっきり髪の薄い、石部金吉だと小池は思っていた。
「この県の知事の名前、君は知ってますか?」
唐突に石田が訊く。
「く、クロイワさん?」
「それは神奈川」
「も、モリタさん?」
「それは前の千葉県知事」
「OH! NOOOO!」
「あ、当たり」
目尻を少し下げ、石田は手を差し出す。
「所長の石田です。はじめまして、小池さん」
小池も慌てて、石田と握手。
ついでに手土産を渡す。
「おやおや手ぶらで来てください。お仕事ですから」
そう言いながらも相好を崩す石田であった。
「小池さんは、情報分析課でしたね。何か分析不能な情報でも入りましたか?」
石田は小池にお茶を出す。
問われた小池は、名刺を出していないことに気付く。
なぜ、こんなペーペーの所属まで知っているのだろう。
しかも丁寧な話し方。
緊張が和らいだ小池は、その情報とやらを話し始めた。
「実はこのところ、南区の公園で、枝垂桜の下に、夜な夜な女の幽霊が現れるという噂が、何回もSNSに上がってまして……」
「ほお?」
「幽霊はともかく、そんな噂が立つ裏に、何か事件の臭いがする、と」
「ああ、警務課の課長さんが言ったのですね。『女の幽霊』がポイントでしょう」
くすくすと石田は笑う。
少年のような笑顔である。
つられて小池も笑った。
「それで、石さ、石田さんに聞け、と言われました。美味しいですね、このお茶。マスカットティーですか?」
「いいえ、杜仲茶です。小池さん、資料はお持ちですか?」
「あ、はい!」
小池は資料の入った再利用封筒を石田に渡す。
「小池さん」
「はい!」
「これからわたし、資料を読みますので、あなたは『杜仲茶』を五回連続言えるように、練習しててください」
と
杜仲茶?
五回?
石田は無言で資料を読みふける。
小池は真面目に「とちゅうちゃ」を繰り返した。
「ちょちゅうしゃ。違う。としゅうちゃ。じゃない……」
数分後。
石田は読んでいた資料を、テーブルの上でトントンと揃えた。
「なるほど」
杜仲茶のタタリか、小池はとうとう舌を噛んだ。
「にゃにか、分かりましたか?」
石田は伏し目がちに頷いた。
やはり
イケオジだ。
「時系列だと、こういうことですね」
枝垂桜がぽつぽつと、開花を始めた三月の中旬。
深夜になると、南区の公園付近では、時折木枯らしよりも悲しい声が響くようになる。
季節柄、それは風の音だろうと思われていた。
枝垂桜が五分咲きになると、公園は夜、桜のライトアップを行う。
二十三時でライトは消えるのだが、不思議と深夜二時過ぎに、再度点灯される。
すると。
丑三つ時のライトは辺りを真っ赤な色で染めるのだ。
その赤いライトの中に、浮かび上がる人影。
およそ此の世の者とは思えない、白く儚げな女性。
そして聞こえてくる、木枯らしのような音。
いつしか、枝垂桜の元に、現れる幽霊の噂が広がっていった。
「では小池さん、この中で、事実と噂、識別できますか?」
小池は悩みながら、資料に赤ペンで丸を付ける。
「僕が思うに、これらは事実ではないかと思います」
小池が丸を付けたのは「木枯らしよりも悲しい声」「再度点灯」そして「浮かび上がる人影」である。
「そうですね、わたしもほぼ同意です。強いて言えば、『現れる幽霊』も事実でしょう。ただし現れるのは、幽霊でないかもしれませんが」
石田は自分で「現れる」に丸を付けた。
「五分咲きの頃とは、三月下旬ですね。南区周辺で、その時期に行方不明の届け出はなかったでしょうか?」
「はい! 調べてあります。あ、調べるように、課長に指示されました!」
「その不明者の中に、桜と関係するような人はいましたか?」
「はい。 え、なぜ知ってるんですか?」
「杜仲茶のご利益ですかね。ふふっ」
小池は思わず、杜仲茶を飲み干した。
「勿論冗談です。わたしも別口で依頼があったので、少し調べていましたから」
事務所のドアをノックする音が聞えた。
「ああ、依頼主さんが来たようですね。小池さん、あなたも同席してください」
◇姉妹◇
石田は立って、ドアを開ける。
そこには、白い肌の上に射干玉の髪を垂らす、妙齢の女性が立っていた。
「お電話でご相談しました、香山でございます」
石田は慣れた所作で、香山という女性を接客用の椅子に誘う。
「ご相談は、お姉さまのことでしたね?」
石田が尋ねると、香山は睫毛を伏せて首を縦に振った。
香山家には、紅美と紫乃という姉妹がいる。
元々大きな地主の家であるため、どちらかが婿を取り跡を継ぐ。
姉の紅美は、お見合いをして結婚を決めた。
お相手は勤務医の今井である。
挙式は三月に決まり、ちらほらと桜がほころび始めた頃。
いきなり、紅美は姿を消した。
式で着るはずだった、打掛を切り裂いて。
「お姉さま、香山紅美様の失踪に、心当たりはありますか?」
「いいえ。女性として、一番幸せな時ですから。……でも。
姉は、妹の贔屓目ではなく、大変美人でした。婚約した今井さんだけでなく、お付き合いのあった方は、何人もいた様子です。 なので、何か事件に巻き込まれたのではないかと、両親は心配しています」
香山紫乃は、バッグから写真を出す。
「姉です」
真紅のドレスを着た、香山紅美が写っていた。
確かに、大輪のバラのような、ゴージャスな美人である。
「そしてこちらが、姉が付き合いのあった方の連絡先です」
石田はそのメモ書きを手に取ると、小池に言う。
「小池さん、香山さんにお茶とケーキを出して差し上げてください。わたし、ちょっと調べてみますので」
「お茶は杜仲茶ですか?」
「いえ、ダージリンを」
小池の手土産は、美味しいと評判のケーキだった。
小池は香山紫乃の目の前で箱を開く。
「ここはイチゴのショートケーキが有名なんですが、どれが良いですか?」
香山紫乃はじっとケーキを眺めた後に、遠慮がちに、チーズケーキを指差した。
「香山さん、お姉さまの知り合いの方々に会ってみます。一両日中にその結果をお知らせいたしますね」
香山紫乃は頷く。
黒髪が揺れ、紫乃の頬は白いままだ。白いというより、蒼い肌である。
姉妹と言っても、あまり似ていないと小池は思った。
「では、よろしくお願いいたします」
帰り支度を整えた紫乃は頭を下げる。
「ああ、香山さん」
不意に石田が声をかけた。
「桜って、バラ科の花なんですね」
その一言に初めて、香山紫乃の表情が動いた。
続く
誤字報告助かります。
次回、真相究明解決編