純黒の氷
「さて、提案があるのだけれど」
視線が分厚い鉄扉へと向く。先程の追っ手が通って来た扉が半開きの状態で放置されていた。再び追ってが来る可能性もあるが、詩音はこれを好機と見た。
「あそこから内部に至り、もしも大麻が栽培されていれば焼き払う。卑猥な光が漏れ出ていたから間違いなく黒だけれどね」
「卑猥かどうかはともかく、その後はどうするつもりですか?」
「大麻を焼き払うことで政府にドカーンと痛手を負わせる。そして華麗に逃亡しちゃおう。下を見たでしょ? あんな人数を相手にするなんて冗談じゃない」
適当などんぶり勘定でも数百は下らない。地上で蠢く数え切れない敵の数を見、詩音は自身を抱き締めて身震いをした。
「気持ちは解りますが、恐らくそんなに上手くはいきませんよ。私達が屋上へ至ったことは地上の者達には知られている。建物内部で鉢合わせるのが関の山です」
「と、とにかく!! 雨に濡れて気持ち悪いから早く中に入ろ?」
言うや否や、そそくさと鉄扉を潜る詩音。雨に濡れた髪を掻き分けた來奈は小さく肩を落とすと後に続く。
「全く……それが本音でしょう」
「雨は嫌いだけれど水泳は得意だよ? 何と詩音ちゃん、潜水で十分間も息を止めることが出来ちゃいます」
「確かに凄いですが戦いには役立ちませんよ」
内部へと続く長い鉄製の階段。手すりには油を含んだ粘り気のある埃が積もっており、触れてしまった詩音が「最悪」と項垂れた。正方形の外周を囲う形で、足場のような網目状の通路が続く。地上までの距離は約五十メートルほど。目視出来る地上では、目的の大麻が所狭しとピンク色の光に晒されていた。
「見付けたのはいいものの、これどうやって降りるの?」
「向こうに昇降機がありますよ」
指差された先には錆び付いた昇降機。数え切れないコードが地上と繋がっており、鼻を突く灰色の蒸気を吹き出しながら辛うじて稼働していた。
「煙出てるし何か怖くない?」
「さっきの追っ手もこれで昇って来たでしょうし、普通に使用する分には問題ないかと」
考え込み唸る詩音は昇降機の階数表示が一階から登って来ていることに気付く。考えられるのは敵との鉢合わせの未来。詩音は「だったら壊しちゃえ」と楽しげに吐き捨てると同時に、露出した無数のコードを湾曲したブーツの刃で蹴り抜いた。凄まじい切れ味で裂かれたコードの断面より派手な花火さながら火花が迸り、並んで立つ二人に降り掛かった。
「ちょっと!? はあ!? 馬鹿ですか!? 意味解んないんですけど!!」
火の粉を腕で振り払う來奈。一際大きく吹き出した蒸気が宙に弾け、けたたましい異常音を発した昇降機は即座に地へと落ちる。高所から叩き付けられた乗車部分は無惨に大破し、内部に乗っていたであろう者達の血液が隙間より零れ出した。
「ほら、何人か撃破したよ」
「ほんと馬鹿ですか? 撃破云々は置いといて……私達、どうやって降りるんです?」
「これさあ、この民間企業の人間のフリしたら何とかならないかな?」
「正体が割れているのに?」
「物は試しでしょ?」
軽快に紡ぎながら來奈の腰に手を回した詩音は、そのまま軽々と抱えると膝を大きく曲げる。瞬間、來奈の本能が警鐘を鳴らす。暑くないのにも関わらず、額には大量の冷や汗が浮かんでいた。
「ちょっと……? 何考えてるんです……?」
「降りる方法だよ。此処からジャンプしよっか」
「はあ!? ジャンプってこの高さから!? 有り得──」
心の準備時間など無く、有無を言わさずの跳躍。屈んでいた身体が地面に反発して力強く持ち上がる。空気抵抗で乱れる二人の髪が視界を遮り雑に靡いた。
「詩音ちゃんジャンプ行っくよー!!」
「✕#ゞ∧─∮!!」
曖昧になる感覚。心臓を鷲掴みにされたような浮遊感。高く飛び上がった詩音は心底楽しげな表情で重力の洗礼を受ける。皮膚の水分が蒸発してカラカラになり、血液の循環が逆回転するような歪な感覚だった。來奈においては固く目を瞑っており、五十メートルもの落下に心から嘆いていた。
「もう……馬鹿!!」
幸か不幸か着地は華麗に決まる。靴底に魔力を集めた詩音は、來奈への衝撃を緩和する為にふわりと地に足を付けた。降り立ったのは大量に犇めく大麻の中央。落ちて来た際の風圧で、綺麗な緑色の葉が会釈するように可愛げに揺れた。
「ね? 大丈夫だったでしょ?」
「意味解んないんですけど!! 思いっきり囲まれてますよ!!」
「あらら」
二人を取り囲む無数の殺意。四方の入口より内部に至った外の者達が、袋の鼠を追い詰める如くジリジリと詰め寄る。見渡す限り逃げ場は無い。先程と違うのは、全ての者達が例外無くガスマスクを装着していることだった。そんな不可思議な状況下、詩音は得意げな表情で髪を掻き上げた。
「私達ここの社員だよ? 上からの命令で、政府に献上する大麻の様子を見に来ただけ。光周期のコントロールも問題無さそうだし、今日のところは引き上げようかな」
何食わぬ顔で歩む詩音。「ほら行くよ助手」と來奈の腕が掴まれた。ほぼ同時に進行方向の床に突き刺さった弾丸。地に埋まった弾丸は白煙を燻らせながら役目を終えた。
「餓鬼共が。ついさっき、政府から御丁寧に顔写真を含むデータ提供があったんだよ。お前達二人を殺せばたんまりと懸賞金が出るそうだ」
男の発言を耳にした詩音の表情が変わる。眉を顰めながら顎に手を当て、何かを思考するような難しい顔をしていた。
「あの吉瀬という若い男……存外侮れませんね。まさか賞金首にされるとは。ここは殺るしかありませんね」
ナイフを抜くと同時に乱射された機銃。空間を穿つ弾丸が高速で迫る。即座に身を伏せて躱した二人は、ジャングルのように密集する大麻に紛れながら大きく後退する。
「ああ、もう鬱陶しい」
僅かな苛立ちと共に立ち上がった詩音。射撃場さながら格好の的であり、撃ち抜けば高得点の的に辺りの者達の注意が一斉に向いた。喉元にまで迫る殺意。銃口が様々な方向から向けられる中、詩音は発砲されるよりも早く行動を起こす。
「四咲さん!! 屈んで下さい蜂の巣にされますよ!!」
「大丈夫。此処は私に任せて」
ショートブーツの靴底で軽く地面が叩かれた。それを合図として、二人を中心とする円形に激烈な魔力反応が起こる。まるで空間が切り替わったように下降する温度。軽快な音を立てて地面から突き上がった鋭利な氷が周囲一帯を尽く蹂躙した。心臓を穿たれ即死する者、喉元を抉られ白目を剥く者、四肢を貫かれ戦意を喪失させる者。様々な形の死が混じり合って場は混沌とする。この状況を齎したのは純黒の氷。闇と形容しても差し支えのない黒が、景色の中で不釣り合いな美しさを晒していた。