空白の一年
「で、どうして付いて来たの? あんたを残して行くつもりだったのだけれど」
「その割には、随分と簡単に家の中に入れてくれましたね」
湾岸沿いの倉庫から車で数十分。詩音の住む部屋へと至った二人は雨に濡れた衣服を着替え、テーブルを挟んだソファに向かい合って座る。炊かれたお香の煙が天井付近に居座っており、少し甘ったるい匂いが充満していた。
「にしても、お世辞にも綺麗だとは言えませんね」
「さすがお目が高い。そう、私は片付けがとても苦手なの」
「威張ることじゃないでしょう」
革張りの黒いソファには、脱ぎ散らかされた衣服やデニムがしわくちゃになって散乱していた。それらを避けて遠慮がちに座りながら周囲を見渡す來奈。広さはそこそこ、物件としては高級な方に部類される。それが余計にもどかしかった。
「良い部屋でしょ?」
「ちゃんと掃除すれば、の話ですが。このままでは宝の持ち腐れですよ?」
「來奈姫の毒舌、癖になっちゃう」
「……この変態」
切れているのに放置された照明、ミュートのまま点けっ放しのテレビ、挙句の果てにはベッド外に蹴り出されたままの毛布。枕に関してもベッドのど真ん中に鎮座しており、どこに目をやっても気が休まらないというのが來奈の率直な感想だった。
「招き入れてくれたのは感謝します。ですがこれではちょっと……」
「後で片付けるね」
「苦手なんでしょう?」
「じゃあ來奈が片付けて」
閃いたと言わんばかりに言の葉が弾む。呆れからか額に手を当てて首を左右に振る來奈。地獄の空気の中「まあそれはともかく」と詩音が場を仕切り直した。
「聞かせてくれる? あんたがどうして、私に接触して来たのか」
「簡単な話です。レイスの持つバッジに十字傷を付けているというあからさまな敵対行為。反政府であることを目に見えて掲げていたからです」
「掲げれば即座に目を付けられ、消されるのが関の山だからね」
小さく頷いた來奈は座る位置を器用に変えて、隣に積み上がる脱ぎ散らかされた衣服へと近付く。
「そんな状況下で生きている貴女はきっと強いのだと。政府一強の現代で、反政府を掲げる者など馬鹿かジャンキーなので」
「後半は聞かなかったことにするけれど、來奈はどうして他に仲間を集めなかったの? 一人では勝ち目が無いのは明白なのに。もしかして馬鹿かジャンキーなの?」
「後半は聞かなかったことにします。今この国では、反政府を掲げた瞬間から手のひらを返す者達ばかり。不満を口にする者は居ても、いざ政府を目の前にすれば従順な犬となる」
「この国も昔は日本だとか呼ばれて栄えたらしいけれど、人は愚かにも過ちを繰り返す。遥か昔に根付いていた独裁体制の回帰だもんね。でもむしろそれが普通だよ。長い物には巻かれろって言うでしょ? そんな馬鹿な思想を掲げなければ、何事も無く普通に生きていられるのだから」
ソファに散乱する衣服を一枚ずつ畳みながら話を聞く來奈。小さな相槌を打ち、畳んだ衣服を丁寧に積み重ねてゆく。積み木さながら時折倒れそうになる衣服を押さえつつ、器用で丁寧な作業は続いた。
「そういえば來奈。一つ気になることがあるのだけれど」
「何ですか?」と手を止めずに惰性での返事。ソファには脱ぎ捨てられた下着までもが混ざっており、生活のだらしなさが露呈していた。
「促進剤で化け物に変えられたのは義理の両親だと言っていた件について」
衣服を畳む手が止まる。静寂を幾らか緩和するのは、弾丸の如く窓を叩く驟雨。そんな雨を背景に、二人の視線が静かに交わった。
「話したくないのなら無理にとは言わないよ。知りたいと願うのは私の我儘だから」
「……いえ。共に過ごす以上、いずれ話さなければなりませんから。それが早いか遅いかというだけ」
大きく深呼吸をした來奈は冷静になると口を開く。
「私、十三歳から十四歳の途中まで記憶が無いんです。約一年間、そこだけが抜け落ちたように何も思い出せない。片親ですが血の繋がった母も居ましたし、学校にも通っていたのに、そこだけ記憶が抜け落ちているんです。そしてもう一つ。私はその空白の一年に左目を失明しています」
怪訝そうな表情を浮かべる詩音。疑っている訳でないことは明白で、何かを思考しているのか小さく唸っていた。
「十四歳の途中で記憶が戻った時、私は知らない街の中で一人佇んでいました。服は何も着ておらず、蹲って泣いたのを憶えています。自分が何処に住んでいたのか、自分の身に何が起こったのか、記憶が曖昧になって混在して、それすらも思い出せませんでした」
「そんな時、義理の両親に拾われたと?」
「その通りです。家に招いて下さり、我が子のように可愛がってくれました。事情を話しても疑わず、詮索せず、優しく接してくれました。それから約四年後……先程話した通り促進剤の件で、私は義理の両親を殺めています。これが私の過去です」
まだ幼く華奢な少女には不釣合い過ぎる凄惨な過去。想いを寄せて共に追体験するように黙って聞いていた詩音は、胸を突き刺す痛みに悲痛な表情を浮かべていた。
「本当の母親はまだ生きているかもしれないの?」
「言った通り何も覚えていません」
「会いたいって思わないの?」
「思いますよ……産みの親ですから当然でしょう」
弱々しい声で紡いだ來奈は小さく息を吐いて心を鎮める。過去を曝け出し僅かに心が軽くなるも、浮かぶ表情には僅かに影が落ちた。