何もかもを捨てて
雨に晒された街が灰色に染まっている。景色も、音も、遠くから聞こえる喧騒も。
落下直前に衝撃を和らげた來奈は、自ら下敷きになることで詩音の安全を確保した。無造作に投げ出された二人。全身は泥水に塗れ、傷跡から漏れる血液が細い糸のように地を流れた。
「詩音……詩音……!!」
掠れる声で必死に名を呼ぶも、閉ざされた目が開くことはない。來奈にとって見慣れたはずの水色の瞳が、今は何処か遠くにあるような気がした。徐々に霞み始めた視界の中、車のライトや街灯の光がぼんやりと映る。薄汚れた高架下の左右には、空き家であろう建物が幾つも並んでいる。外壁は至るところが剥がれ落ち、朽ちた屋根の瓦までもが散乱していた。二人が落下した場所は幸いにも静かで、人の行き交う大通りからは外れていた。
「ねえ、詩音。私まだ……死にたくないです。だって……貴女に伝えたいことがあります。だから詩音も……生きて下さい」
ずっと堪えていたものが込み上げる。感情の抑制は効かなくなり、箍の外れた本能が急激に膨張した。冷たい雨に紛れて、涙が目尻を伝って地に落ちる。
──まだ声は出る。
小さく唸りながら力を振り絞る來奈は、理性やプライドの何もかもを捨てて弱々しい声で紡ぐ。
「誰か……助けて……」
反政府を謳い続けて生きて来た。そして殺り合った末の負傷。そんな状況下で口にされたのは、皮肉にも助けを乞う言葉だった。何もしなければこのまま共倒れ。なら少しでも可能性のある方へと賭ける。それが來奈にとっての最期の手段だった。此処は帝例特区。ましてや顔も知られている。それでも來奈は、親友の為に己が誇りを踏み躙った。
「お願いします……誰か……助けて下さい……親友を……失いたくありません……」
啜り泣く來奈は詩音の手を取る。反応は無くとも、決して離さまいと握り続けた。ふいに、足音が耳に届く。水溜まりを踏みながら近付いてくる足音に、來奈は希望と絶望が入り交じった歪な感情を抱いた。
「誰か居るのかしら?」
「此処に居ます。助けて……下さい……お願いします」
周囲に視線を配りながら現れたのは、少しだけ歳上であろう美しい女性だった。手入れが行き届いている艶やかな髪が風に揺れる。身に付けられた黄色い花のコサージュが、黒い髪に心地の良いアクセントを添えていた。
女性は傘を持ったまま屈み込む。敵か否か。尖った思考が胸中で渦巻く。來奈は、静かに女性の出方を待つことしか出来なかった。当然だが、二人とも顔は見られている。無謀な賭けだった。
「一人は昏睡状態。そして君は呼吸が荒い。怪我をしているのかしら?」
心配そうに覗き込む女性に違和感を感じ取る。
「そっちで倒れている方も女の子かしら?」
「そうですが……もしかして目が見えていませんか……?」
「よく解ったわね。去年、事故に遭っちゃって」
視線を落とし、身に付けられた月のネックレスを握る女性。引き込まれそうな茶色い瞳が鈍く煌めいた。
「軽い治癒魔法なら使えるから、とりあえず応急処置をしておくわ」
「能力者なんですか?」
「一応ね。能力上、戦闘はからっきしだけれど」
來奈と詩音に手を翳した女性は、目を瞑ると静かに息を吐く。淡い翡翠色の魔力が徐々に滲み始め、それは腕を伝って二人へと至った。
「凄い……これが治癒魔法ですか」
目が離せないほどの美しい魔力の煌めきだった。人肌に近い温かさの魔力に晒されるうちに呼吸が安定し始める。未だ痛みは残るものの、來奈は随分と楽になった身体に純粋な驚きを示した。
「ふふ、大袈裟ね。それで? 一体何があったの?」
「事情があり話すことが出来ません。助けてもらっておきながら申し訳ありません」
「……そう。別に無理に聞こうだなんて思わないから安心して。でも一つだけ確認。傷の具合からして、誰かに追われていたりする? お友達も損傷が酷いから」
頷くことで肯定した來奈は身体を起こす。政府の追っ手から逃亡を図ったとは、口が裂けても言えなかった。
「もし捕まればどうなるの?」
「……間違いなく殺されるでしょうね」
眉を顰めた女性は「ふーん」と相槌を打って立ち上がる。そのまま何かを思考すると、静かに右手を差し出した。
「何のつもりですか」
急に差し出された手に難しい顔をする來奈。
「おいで、匿ってあげるわ」
「……匿う?」
「傷が治るまで面倒を見てあげるって言ってんの。君も、そっちで眠る彼女もね」
目を細めた來奈は罠を疑う。だがそれは二択に見せ掛けた一択。詩音を救う手段を持ち合わせていない彼女にとって、提示された選択肢を掴み取ることしか出来なかった。
「どうするのかしら? どの道、このままじゃ二人とも助からないと思うけれど。死を選ぶか、最後に誰かを信じてみるか……君が選んで。そのくらい出来るでしょ? 助けを呼んでいたのは、他でもない君自身なんだから」
棘を孕んだ言葉とは裏腹に柔らかい表情が浮かぶ。光を閉ざした瞳の奥が、僅かに揺らいでいた。
「宜しく……お願いします」
差し出された手を取った來奈。小さく細い手が重なる。女性の手は、雨に打たれてなお温もりを失っていない。
「はい、承りました。早速だけれど、お名前を教えて? さすがに名前も知らない人を家に招くのは怖いから。私は師月 燈。宜しくね」
「黒……白瀬と申します。隣で気を失っているのが二咲です。改めて宜しくお願い致します」
冷や汗をかいた來奈は即座に言い直す。容姿で正体を悟られることはないが、危うく名乗るところだったと焦燥した。「こちらこそ」と微笑んだ燈は來奈を引っ張り上げる。そして詩音の腕を肩に回し、先導するように歩き始めた。
「私はこの子を運ぶから、傘は白ちゃんが持って」
「詩……二咲さんは私が運びます」
「君はまず自分の心配をして。よほど無理をしてきたはずだと思うけれど? 身体の損傷が酷いから」
「こんな傷、大したことありません」
「死にかけてたくせに。この子を護る為に戦ったのかしら?」
口を噤む來奈。僅かに訪れた静寂を裂くように、雨音が存在を主張する。
「別に黙らなくてもいいでしょうに。大事そうに手を握っていたから、そのくらいは解るわよ」
目を逸らす來奈の頬を人差し指でつついた燈は、「素直じゃないわね」と悪戯な笑みを浮かべる。「身体が痛いので触らないで下さい」との切り返しに、バツの悪そうな顔で謝罪を述べた。
「小さくて可愛い割に、案外噛み付くタイプなのね」
「小さいは余計です」
「ごめんなさいね」と、視線を前に戻しながら含み笑いをした燈。身に付けられた黄色い花のコサージュが、雨に触れて花びらを揺らがせた。
燈の家に到着したのは、十五分程度歩いた頃だった。雨に晒されてなお色褪せない白亜の外壁が、灰色の景色に飲まれた街の中で存在感を放つ。二人を部屋に通した燈は汚れた服を着替えさせた後、本格的な治癒魔法を施した。
「この部屋は自由に使っていいから。白ちゃんも咲ちゃんも、一刻も早く身体を治すことだけを考えなさい」
詩音の住む家とは違い、しっかりと行き届いた整理整頓。無駄な物どころか、塵一つ無いほどに綺麗な状態で保たれている。壁際には三人眠れそうなくらいのダブルベッドがあり、反対側の大きな窓には、洒落たレースのカーテンが吊られていた。




