難攻不落の最高権力
「驚いたよ。五年前のモルモット風情が、まさかここまでの力を持つに至ったとはね。一体何が君にそうさせるんだい?」
見え透いた問いだった。浮かぶ卑しくも醜悪な表情は過去の傷跡をいとも容易く抉る。食い縛られた歯が、脳内で何度も繰り返される記憶をすり潰した。
「……憎悪ですよ。五年前の実験は悲劇を生んだ。そして、外へ出回った促進剤のせいでたくさんの人が死んだ。義理の両親も促進剤に犯され……私がこの手で殺めました」
指先で硬い地面を引っ掻いた來奈。滲む血が雨に混ざって亀裂のように広がってゆく。彼女はそのまま片膝を立てると、無理矢理に重心を持ち上げて立ち上がった。
「それは災難だったね。本当に申し訳ないと思っているよ。どうやら君は、傍に居てくれる存在には恵まれているらしい。本当のお母さんも立派だったよ」
「立派だった……? 殺した奴が、どの口で母親のことを言っているのです?」
黒い感情が拡がってゆく。研ぎ澄まされた純粋な殺意だけが、小さな身体の中で存在を主張した。
「最後まで泣いていたよ。必要ならば何でも差し出すし、この子より私の命で実験をして下さいと。でもそれでは意味が無かった。老若男女を集めた実験には、君ほどの若い被検体も必要だったからね」
「だからって簡単に殺したのか。そんなことの為だけに……私たち家族の絆を引き裂いたのか」
「愚かな最期だったよ。諦めて帰っていれば死なずに済んだものを。そうだね……言うなれば無駄死にだった」
強く噛み締められた口角より血が流れ落ち、雨で濡れた髪が表情を覆い隠す。音を立てて砕けた理性。その粉々になった欠片が暗い腹の底へと沈んでいった。
「ふざけないで下さい……ふざけるな……尾堂──!!」
獣さながらの咆哮。縺れる足元が己の限界を報せる。使役し過ぎた魔力が祟り、身体はとうに限界を迎えていた。
「君の敗因は戦い方を間違えたことだよ。母親の仇である私を目の前にし、考えも無しに魔力を浪費し過ぎた。最後の魔法には驚いたよ。あれだけの威力だ、使い方を間違えなければ私も危うかったかもしれない」
胴体に刻まれた傷に嫌悪感を示した尾堂は、軽く地面を蹴ると俯く來奈へと刃を向ける。空気抵抗を利用した、視認ですら不可能に近い移動。鋭利な切っ先は寸分違わずに來奈の左胸へと向いていた。だが、驚愕を示したのは尾堂だった。即座に身を翻した來奈。切っ先は狙っていた左胸ではなく左肩を貫く。柔肌に沈みゆく鉛。遠慮がちに滴る血液が刃にじわりと纒わり付いた。
「やっと──」
迸る激痛に表情一つ変わらない。目元は未だ濡れた髪に覆われたまま。そこで尾堂は気付く。自身を囲う領域の大半が機能していないことに。
「──捕まえた」
來奈の口元が大きく歪む。両手に握られたナイフには純白の炎が纏われており、それはやがて腕を伝い、來奈の身体をも蝕み始めた。尾堂の中に湧いた、唐突な死のイメージ。到底認めたくはない恐怖という名の感情。芽生えたそれは即座に育ち、身体の芯を犯すように纒わり付いた。
「尾堂、一つ良いことを教えてあげましょう」
髪の隙間から覗く紺色の瞳は虚ろだった。焦点は合っておらず、だがそれでいて、決して逃さまいと尾堂を映す。
「最期の魔法……故意的に外したんですよ。下手くそな、吹き飛ばされる演技までしてね。それとも……役者顔負けでしたかあ?」
歪んだ口元より、心の底から嘲るような不気味な笑い声が漏れ出る。普段からは想像もつかない変わり様に、尾堂の鼓動が嫌に跳ね上がった。
「私はずっと観察していました。最初に炎で囲んだ時、貴方の領域が僅かに揺らいだのを見逃さなかった。だから試しました。その揺らぎが本当に、私の炎によって齎されたものなのかを」
「……何が言いたい」
「観察していることを悟られる訳にはいきません。だから敢えて、貴方を殺すと見せ掛けた大掛かりな魔法を使役したのです。あれだけの規模を誇る魔法が、まさか領域の観察の為だけに使役されたなどと、さすがの貴方も考えないでしょう」
「たったそれだけの為に、膨大な魔力を無駄にしたというのか」
「空気に含まれるのは大半が炭素ですが、もちろん酸素も含まれます。結果は読み通り……私の炎で酸素が不足し、貴方の能力は大幅に弱体した。どうやら私の能力とは相性が悪いみたいですね。現にほら? 私は今、自身を燃やすことで、ほぼ不自由なく身体を可動させることが出来る」
純白の炎を宿した身体は自由を主張する。貫かれた左肩の傷口が灼熱に晒されて塞がり始めていた。
「終わりです、尾堂。貴方たち政府の時代は此処で潰える。言わば、愚かな歴史の終焉です」
右手に握った三本のナイフが牙を剥く。更に深々と胴体を裂かれた尾堂。同時に、來奈の肩に沈んだ刀が引き抜かれた。後方へ倒れゆく身体。勝負は決したと思われたが否、寸前で重心を前に戻した尾堂は、気力だけで刀を逆袈裟の要領で振り上げた。
「──ッ!!」
予想外の反撃だった。來奈は身構える間も無く、鈍い煌めきを発する刃をその身に受け入れる。手放された五本のナイフが不快な金属音を奏でた。皮肉にも、ほぼ相討ち。雨に拐われた互いの血液が灰色の地面を赤黒く染めてゆく。両者とも無抵抗に倒れ、來奈は曖昧になり始めた視界を虚空へと流した。雨が嬉々として突き刺さる。何も得られない戦いの結末を嘲笑うように。
「詩音……」
無意識の内に零れ落ちた親友の名に、來奈の口元が微かに緩んだ。傷口は即座に炎で焼かれたものの、受けた損傷は計り知れない。
「私は詩音に、伝えなきゃいけないことがあります。貴女が恥ずかしげもなく私に言った、あの時の答えを。だから……私はまだ死ねません」
唸り声を発しながら立ち上がろうと試みる來奈。喉奥から絞り出される掠れた声が不規則な抑揚を孕んでいた。
「無様だね、黒瀬君。自身の想いが届かなかった気分はどうだい?」
皮肉にも、先に体勢を立て直したのは尾堂だった。立ち上がった尾堂は醜悪に歪む顔で來奈を見下ろす。まるで、地に這い蹲った虫けらを見るような目で。
「君は促進剤の力を以てしても、私を殺めるには至らなかった。解るかい? 君達は敗けたのだよ。これまでにしてきたこと、その全てが無駄だったのだ」
全てを否定する言の葉が突き刺さる。雨の冷たさも相まって、それは心に直に染み入った。熱を帯びる目奥。嘔吐いてしまいそうな感覚が込み上げる。
「私は……」
これまでとこれからの様々な想いが犇めき合う。目尻を伝う涙は様々な想いの終着点。來奈は起き上がることの出来ない悔しさからか唇を震わせており、行き場を失った感情を制することすら叶わずに垂れ流した。
「安心するといい。四咲君もすぐに後を追わせてあげるよ。これで解っただろう? たった二人で政府へと挑むことが、どれほど愚かでどれほど軽率な行動だったか」
尾堂は刀の切っ先を躊躇い無く落とす。狙いは先程貫いた來奈の左肩。焼かれて塞がりかけた傷口が、残酷にも再び抉じ開けられた。迸る激痛。だが來奈は一切の声を発しない。歯を食い縛り、抉り殺すような視線を真っ直ぐに尾堂へと向けていた。
「元はといえば四咲君が元凶だったね。彼女は昔から反政府を掲げて各地で暴れ回っていた。本当に憐れだよ」
「詩音を悪く言うな。私の親友を……馬鹿にするな!!」
喉奥から声を絞り出し立ち上がろうと試みる來奈だが、左肩を貫いている刀の切っ先が地に突き刺さり、身動きが取れずに磔状態となっていた。
「所詮君達は無力だった。どのみち危険な思想を掲げるテロリストだ、全ての国民達からも死を望まれている」
「随分と自分達のやり方に自信がお有りのようですね。国民の全てが政府のやり方に賛同しているとでもお思いですか? 反政府を掲げたが故に暴力で制圧された者、その家族や親友は間違い無く政府を恨んでいると思いますが」
「取るに足らない話だ。巨大な組織を築く以上、足元に小さな蛆くらいは湧くだろう。踏み潰されずに運良く成虫となった蝿だけが、君達のように身勝手な思想を謳う」
「従わない者は蛆や蝿といった害虫扱いですか。さすがは国を治める政府、思想や倫理観など有りやしない」
「口には気を付けた方がいい。状況が理解出来ていない訳ではないだろう?」
來奈の左肩から刀を引き抜いた尾堂は、次いで、スカートが捲れて露出した左太腿へと突き刺す。すんなりと刃を受け入れた色白の肌。傷口から零れる鮮血と共に、身体が小刻みに痙攣していた。
「そんなもの……ですか? 痛くも痒くも……ありま……せんよ。貴方も……もう……長くはないでしょうね」
訥々と紡がれる言の葉。激痛を堪えていることは明白。尾堂においても胴体からの出血が激しく、來奈により切り裂かれた傷跡が猛威を奮っていた。
「残念だが、レイスには急速に傷を癒す治癒能力を持つ者が居る。解るかい? 黒瀬君。これが政府だ、これが組織だ。君達がたった二人で挑んだ難攻不落の最高権力だ」
悔しさを語る歯ぎしり。霞み始めた視界の中、雨音に紛れて一つの足音が木霊する。視線を向けた來奈は、ほぼ同時に皮肉を孕んだ吐息をついた。姿を見せたのは吉瀬であり、髪の隙間から覗く紅蓮の瞳が、薄暗い空の下で色褪せずに煌めいていた。




