氷翼を宿す少女
「促進剤を接種しようが所詮はこの程度。何の驚異にもならない」
口元を歪めた詩音が前傾する。徐々に傾く身体は止まらず、終いには無抵抗のまま倒れ込んだ。
同時に目を見開く尾堂。眼前で倒れた詩音が甲高い音を立てて砕け割れた為だった。それが意味するものは、魔力により造形された偽物であるということ。
「後ろだよ」
形容し難い殺意が押し寄せる。紡がれた言の葉は当然の如く嘘。声は頭上から届き、尾堂は刀を振り上げて迎撃の選択をとる。
急降下の勢いで踵を落とそうと試みた詩音が、寸前で予測不能な軌道を描き離脱する。様子を窺った尾堂の足元が急激な魔力を発した。
地を突き破って迫り上がる無数の氷柱。即座に後方へと飛ぶ尾堂。氷柱は頬を掠め、一筋の血が肌を滑り落ちる。
「小癪な真似を……」
詩音は、既に尾堂の背後を取っていた。翼を使役した移動は付け入る隙を与えない。背後から首元目掛けて振り抜かれた左脚。気付いた尾堂が肩越しに振り返ると同時に速度低下が作用した。
だが、翼を模した刃は接触寸前。どうすることも出来ない尾堂は、強制的に離脱の一手を掴まされる。歪む空間から離れたことにより速度低下から解放された詩音は、再び斬撃を放つ。
「何度やっても同じことだ」
真正面からの斬撃は即座に勢いを失い、先程と同じく真っ二つに裂かれた。口角を吊り上げた詩音。刹那、凍結した雨が全方位より降り注ぐ。
まさに自由自在。翻弄するは、両脚に氷翼を宿す少女。
細い氷の針が尾堂に突き刺さり、勝負は決したと思われたが否。突き刺さり続ける筈の雨でさえも、途中から速度低下による結果が齎された。
流血する尾堂。対する詩音は息一つ乱しておらず、雨で顔に張り付いた黒髪を掻き分けた。
「もしかしてその程度? 吉瀬君や天笠の方が強いんじゃない? ねえ、尾堂総督?」
低俗な挑発と共に不敵な笑みが溢れる。
「その空間の歪み、空気抵抗を操っているんでしょ? いかなる攻撃も範囲内に入ればたちまち勢いを失う。魔法でさえ捻じ曲げてしまうなんて狡いよねえ」
「餓鬼の分際で私の能力に気付くとは」
「でもさあ、あんたの能力には致命的に欠陥がある」
「……欠陥だと?」
「自身が攻撃されたと認識しないと空気抵抗は起こらない。予兆の無い地面からの攻撃には速度低下が適応されず、今の雨だって空気抵抗が掛かるまでに時間を要した」
詩音は「あんたの敗けだよ、尾堂」と吐き捨てると、重心を低く落とした。
「何をするつもりだい?」
「要は、あんたに攻撃したことを認識されなければいい」
詩音の言葉を聞き、僅かに俯いた尾堂が喉を鳴らして笑う。続く笑い声が雨音と混じり、場には不気味な空気が流れた。
「何がおかしいの」
「これは失敬。君があまりにも未熟で、つい笑ってしまったよ」
刀の切っ先が詩音へと向けられる。未だ距離を有する双方。睨み合いが続く中、尾堂は刀の柄から静かに手を離した。
ほぼ同時に目を見開いた詩音。凄まじい速さを宿した刀が飛来する。それは投擲では無い。空気抵抗により押された刀が独りでに牙を剥いた。
即座に身を翻すも避けることは叶わず、刀は詩音の左肩を撃ち抜くように掠めた。
「──ッ!!」
予想外の反撃。舌打ちをする詩音に、既に尾堂が迫っていた。そのまま懐から刃渡りの短い小刀を取り出し、直線距離で心臓目掛けて突き出す。
警鐘を鳴らす本能。
つま先に力を込めて後方への離脱を試みる詩音だが、身体の自由が効かないことに気付く。歪に吊り上がる尾堂の口元。ほぼ肉薄した状態の中、詩音には凄まじい空気抵抗がのしかかっていた。
「初めて見た時から、君とはいずれ殺り合うことになると解っていたからね。この一瞬の為に、私の能力に欠陥があると思わせたのだよ。もちろん、故意的にね」
「下衆野郎……!!」
腹の底から込み上げる笑いを抑制しようともせず、尾堂はただ醜悪な顔を晒してほくそ笑む。
「さよならだ。政府に楯突いた愚かな小娘よ」
小刀の切っ先が皮膚へと食い込む寸前、僅かな隙間に無理やり割り込んだ一人の少女。少女は指の間に挟んだ三本の小型ナイフを駆使し、色白の肌に沈みかけた小刀を弾き飛ばした。
「來……奈……?」
それは詩音の探し人。だが、何故自身を助けたのかと思考が巡る。お構い無しに詩音の腰に手を回した來奈。彼女にも速度低下が例外なく襲い掛かるも、地面から湧き出した純白の炎が尾堂を容易く遠ざけた。
二人は窮地を離脱。そっと下ろされた詩音が、無言のまま來奈を見据える。
「あんたどうして……」
「勘違いしないで下さい。私は尾堂を、政府の連中を、そして貴女を殺す為に此処へ来ました。それに……尾堂には個人的な恨みがあります」
個人的な恨み、という言葉に詩音の視線が落ちた。
「ごめん。母親のこと……聞いたよ」
「そうですか。誰から聞いたのかは知りませんが、そういうことですので」
「そうですかってそれだけなの? 母親が殺されたんだよ? 私だったら泣いちゃうと思う」
「泣く? そんな無駄なことをしている時間はありません」
吐き捨てた來奈の目元が充血して腫れている。泣いていたのは一目瞭然。気付かないフリをする詩音は「そっか」と優しく紡いだ。
「黒瀬君が四咲君を殺す? それはどういうことだい?」
興味を示す尾堂。「さあ? どうしてでしょうね」と煽った來奈は戦闘の意思を見せた。
逃げ場を潰すように湧き上がった純白の炎が周囲を囲う。同時に、尾堂周辺の空間が僅かに乱れた。