四面楚歌
時刻は昼過ぎ、皮肉にも雨は止まない。
帝例特区の宿泊施設で一夜を明かした詩音は、自身の最期の日になるかもしれないと覚悟を決める。薄暗い空の下でありながら色褪せない眼光。前だけを見据える彼女は、迷うこと無く歩みを進めていた。
至ったのは、帝例政庁の前庭にあたる処刑広場。帝例電鉄を脱線させた際に大規模な戦闘が起き、そして、レイスに対して降伏という苦い経験を踏んだ場所だった。
あれから僅か二日、脱線した帝例電鉄は既に処理されている。地面は激しく損傷して捲れ上がった箇所や、來奈の炎により焼け焦げた箇所など、戦闘の残酷さを物語っていた。
「さすが、隠蔽工作だけは早いね」
だがそれも、最早過去の傷跡。水溜まりだらけの地面を力強く踏み締めた詩音は、小さく息を吐き出すと前を見据える。
「いきなり劣勢、か……」
事態は最悪、四面楚歌だった。詩音が戻って来ると読んでいた尾堂の命令により、レイスは待ちの攻勢を取った。
「自ら命を捨てに来たか、四咲 詩音」
雁首を揃えた数百人。襟元には誇りを示す白銀のバッジ。さしていた傘を丁寧に畳んだ詩音は、濡れることを厭わず手のひらを地に張り付けた。
「そうかもね。でも私の首には先約があるから……悪いけれどあんた等には渡せない」
手中に魔力が収束する。併せて短い地鳴りが響き渡り、詩音の背後に巨大な津波を彷彿させる氷の波が湧き上がった。水とは違い景色を削りながら猛進する氷波が眼前の者達を蹂躙せんと牙を向く。
規格外の初撃。
轟音と振動だけが辺りを支配する。左目から血の涙を流した詩音は氷塊を追い掛けて駆け上がると、両足に翼を宿し待ち受ける者達を見下ろした。
氷波が尽く命を飲み込んでゆく。高さと幅を兼ね備えた質量の暴力に、最早逃げ場など存在しない。飲み込まれた者達は角張った氷片に全身を貫かれ、艶やかな純黒を鮮血の赤で濁した。
あまりの呆気無さに疑問が湧く。氷波を崩し翼の浮力で地に降り立った詩音は、静けさに蝕まれた周囲を見渡した。
「誰……?」
唐突に感じた気配。来訪した一人の男は傘もささず、詩音を賞賛するように手を打ち鳴らした。
「さすがだよ四咲君、この短期間で随分と強くなったようだね。まさか、敵である我々が開発した促進剤を利用するとは驚いたよ」
男は、詩音が零す血の涙に嘲りの視線を向ける。
「悍ましいでしょ? 私と來奈は、あんた等のせいで大切な人を亡くした。この血はね……政府に捧ぐ復讐の涙」
白髪頭で口周りに髭を生やした四十代後半と思われる男。詩音がその男を見違える筈がなかった。
「それにしても、まさかあんたから出て来るとはねえ……尾堂 総督?」
「どうせ私に用があるのだろう? 直々に出向いてやろうかと思ってね」
携えた刀の頭に手を置く尾堂。詩音は小さな動作一つ見逃さない。
「へえ? 話が早くて助かるよ。あんたどころか全員殺すけれどね」
「下らない争いはそろそろ終わりにしないかい? 世間にも大きく知られた君達は、どの道もう潮時だろう」
「じゃあ素直に死ねば? あんた等が全員自害すれば戦いは終わるけれど。ねえ、素敵な考えだと思わない? そうすれば政府一強の独裁体制は終わりを迎え、この国は新たな歴史を築く」
「君は本当に愚かだよ。一人で何が出来る? 一人で何が変えられる? 我々は国の平和の為、命を懸けながら組織として動いているんだ」
「この期に及んでまだ平和なんて言葉を口にするの? 來奈の母親を殺した外道が……!!」
「なるほど、第三研究棟で偽りの真実を見て来た訳か。黒瀬の母親は、平和の為の実験を邪魔したんだ。殺されて当然だとは思わないかい?」
「ふざけんなよ……尾堂──ッ!!」
翼を駆使した詩音は一直線に距離を埋める。狙うは肉薄。だが尾堂に近付くと同時に、以前と同じ不可解な速度低下が起こった。
本来ならば既に振り抜かれていた筈の右脚が、まるでスローモーションのように速度を失う。刀を抜いた尾堂は攻勢に出ると思われたが否、何かに気付くと即座に後方へと飛んだ。
刹那、足元より犇めき合った氷柱が突き上がる。辛うじて躱した尾堂。浮かぶ表情が険しさを帯びた。
「ちゃんと憶えてるよ。足元からの攻撃にだけ速度低下が発生しなかったこと」
「ほう、ただの馬鹿では無いらしい」
「今の私になら視えるよ? あんたの周囲の二メートル程度だけ、球体状に空間が歪んでいる」
詩音には確かに視えていた。尾堂を囲い、まるで障壁のように展開する空間の歪みが。
「促進剤に感化されて、潜在的な魔力量が増幅したのだろう。だが、まさか視認が出来るようになった程度で私と対等とでも言いたいのかい?」
「対等? 笑わせないで。私は政府の連中を一方的に蹂躙する為に此処へ来た。あんた等なんかさあ……私一人で十分だよ」
表情を変えた空気。急激に跳ね上がる魔力濃度に反比例し、周囲の温度が著しく下降した。肌を撫でていた風は止み、降り頻る雨は地に落ちる前に氷粒へと変わる。
詩音の両足に宿る、翼を模した刃が羽を開閉させる。羽ばたく度に地を這って拡がる零度の波紋。純黒の魔力を纏った詩音は顎を引き、射抜くような鋭い眼光を見せた。
「ねえ、私と殺ぼっか!!」
言うや否や、右脚を振り抜いた詩音。具現化したのは三日月を象った純黒の斬撃。速さと零度を兼ね備えた斬撃は、初速のままブレながら牙を剥く。
だが、尾堂は一歩も動かない。
尾堂を囲う歪んだ空間に到達した斬撃が、不可解な速度低下に蝕まれた。その速さは、子供の平均的な歩行速度程度。振り抜かれた刀が斬撃を真っ二つに両断した。
歪んだ空間を抜けた斬撃は本来の速度を取り戻す。勢いを衰えさせぬまま尾堂の左右を撃ち抜くように通過し、著しく軌道を変えては薄暗い空に飲み込まれた。
開けた前方の景色。既に詩音の姿は無い。
「あんたさあ、随分と狡い能力だねえ」
声の出処は、尾堂の右側面。至近距離で両腕を突き出した詩音は魔力を解き放つ。爆発を彷彿とさせるような、水に満たされた球体が破裂するような、激烈な威力だった。
衝撃により見えなくなった互いの姿。そのぶん反動は凄まじい。詩音は、身体がくの字に折れ曲がる程の反動を、両足の翼で軽やかに宙返りをすることで往なしてみせた。
「肉弾戦では圧倒的に不利だと理解したからこそ、魔法での戦い方に切り替えた。君にしてはよく考えた方だ」
何もかも無傷。傷どころか、外套には汚れ一つ付着していない。口周りの髭を撫でた尾堂は、ゴミでも見るような視線を向けた。