その手で、その意志で、その心で
「雨はさ、嫌なことがあってもさ、全部洗い流してくれるような気がするんだ。家の中から見ていれば心を鎮めてくれる、外で打たれればその冷たさに生を実感出来る」
遠い目をする海音を案じるように、詩音は悲しげな顔をする。
「……過去に何があったの?」
「普通、いきなりそれを聞くか? こういう場合のメインディッシュだろ?」
「ごめんね、好きなものから先に食べるタイプなの。ショートケーキは苺から、シュークリームは穴を開けてちゅーちゅーと中のクリームを吸っちゃうタイプ」
「……あんたらしいな」
「後半は冗談のつもりだったんだけれど」
鼻で笑った海音が表情を緩める。宛も無く歩き、二人が見付けたのは大きな公園だった。雨のため人は皆無。海音は足を踏み入れると、吊り具が錆びてしまったブランコに腰掛けた。
「母親を早くに亡くしてさ。いくつだったかな……たぶん六歳の時」
「海音……」
「それからは父親に育てられた。お母さんっ子だった私はグレちゃってさ……学校すらろくに行きもせず、毎日のように遊び回ってた。麻薬に手を出したのは十二歳の頃だった」
相槌を打ちながら隣のブランコに腰掛けた詩音。海音は既に漕いでおり、前後に揺り返す度に金具の軋む音が鳴る。
「父親は経営者だった。でも経営状況は芳しくなく、会社はいつ潰れてもおかしくないって言われてた。朝から晩まで働いて、日に日に疲弊していく父親を見るのは辛いものがあった」
「きっと、あんたを護る為に頑張ってくれていたんだよ」
「それは解ってたんだ。だからあたしは、遊び回るのをやめて父親と向き合うことにした。それでも麻薬だけはやめられなかった。一度覚えた快楽を簡単に忘れることは出来なかった。隠れて使う内に、あたし……おかしくなっちゃってさ。家の中で父親が死んでいるのに気付くまで三日もかかったんだ。何度も近くを通った筈なのに、何度も見ていた筈なのに」
「え……? どうして亡くなったの?」
「自殺だったよ」
短い声を漏らす詩音。驚愕が吐息を通じて溢れ出した。
「自殺ってあんたを残して……?」
「ちょうど五年前、父親の会社が政府により目を付けられた。経営難に加え、立地の良い広い土地……買い叩くには格好の的だ。もちろん事実は隠蔽された。支払われたタダ同然のお金は、今まで支えてきてくれた従業員に全て渡したと言ってた。これから二人で頑張ろうなって励ましてくれた。でも、心を病んだのだろうな……それっきりだった」
過去を思い返しているのか、夜の中でも色褪せない漆黒の瞳が淀む。明滅する公園内の街灯が、不規則に点いては消えてを繰り返していた。
「あたしが麻薬に溺れていなければ、父親の自殺を止められたかもしれない。それは解ってるんだ。でもあたしはさ……父親から居場所を奪った政府を赦せないんだ」
ブランコを漕ぐのをやめた海音。顔に張り付いた髪が表情を覆い隠す。
「麻薬に溺れたのは確かに悪いこと。けれど、まだ子供だったあんたの境遇を考えれば……気持ちは痛い程に解る。胸が引き裂かれそうな想いの中、怖くて、逃げ出したくて、でも本当は戦わなくちゃいけなくて……辛かったよね」
「あたし狂ってるからさ。政府に父親を奪われておきながら、政府様様だなんて馬鹿なことを吐かして、この間の治験にだって参加しようとしていただろ? 結局その金で麻薬を買うつもりだったし、あたしは快楽に取り憑かれた化け物だよ」
「違う、あんたは化け物なんかじゃない」
「どうしてそう言える」
「子供の頃に麻薬に溺れたのは逃げじゃなく、辛い現実から目を背ける為の手段に過ぎなかった。でもね? 海音。大人になった今、これまでと同じように麻薬に手を染め続けるのなら、それは本当に逃げていることになる。それこそ、あんたの言う通り快楽に取り憑かれた化け物になる。でもあんたは私の目の前で麻薬を拒んだ。その手で、その意志で、その心で」
髪に覆われた顔が、僅かだが上を向いた。
「四咲……あたし……」
「海音は前を向こうとしてる。ううん、もう前を向いている。後は……あんたが決めること」
「そうだな」と震えた声で紡ぐと共に、雨と涙で濡れる目元を拭った海音。そのまま何度か繰り返された深い呼吸が、感情の荒れ狂う胸中を鎮めた。
「ありがとな。少し、心が軽くなったような気がする」
「ううん、私は何もしてないよ。海音が自分の力で前を向いたの。自分の脚で踏み出したの。もしもお礼を言うのなら來奈にじゃないかな? 麻薬を拒絶する切っ掛けとなった言葉をくれたから」
「そういえば」と前置いた詩音は、ブランコを僅かに漕いで惰性に身を任せる。明滅していた街灯は何とか持ち直し、今やはっきりと点灯して夜を照らしていた。
「お父さんの会社って、政府に買い取られてどうなったの? 何かの事業を展開したりしたのかな?」
「解らない。セキュリティが頑丈過ぎて、敷地内に入ることすら叶わなかった」
「会社名とか解る? もしかしたらこっちで調べられるかも」
「確か……『R.company』だったかな。Rは、竜胆の頭文字から取ったらしい。適当過ぎて笑っちゃうだろ?」
「え……?」
確実に聞いたことがあると思考が巡る。ブランコを止めた詩音は頭の中で記憶を遡った。深く考え込んでいたのか、「どうした四咲」と目の前で手を振られて漸く意識が回帰する。
「あーるかんぱにー?」
それは來奈と訪れた場所。違法麻薬の原料である葉が栽培されていた民間企業。入口のシャッターに同じ名前が刻まれていたことを思い出した詩音は、気まずそうに視線を落とした。
「何か知っているのか?」
話すべきか否か、小さな葛藤が湧く。黙り込んだ詩音。今だけは、沈黙を緩和する雨が有り難かった。
「……知らないと言えば嘘になる」
「だろうな。顔に知っていますと書いてある。あんたは隠しごとに向いてないな」
「ううん、知っているどころか実際に行ってきたよ」
海音の瞳の奥が興味と不安に揺らぐ。「聞きたい?」と委ねられた選択に、彼女は黙ったまま頷いた。
「社内で、促進剤の原料である葉が栽培されていた。政府が会社を買い取った後、何処か別の組織に委託してね」
「そんなことの為に……あたしたち家族は引き裂かれたのか」
腹の底にへばり付いたドス黒いものが、上へ上へと込み上げる。それは鞘を無くした感情だった。
「私も謝らないといけない」
「……謝る?」
「あーるかんぱにーの中で栽培されていた葉を焼き払い、戦闘で至る所を破壊しちゃったから……ごめん」
「謝る必要なんて無い、寧ろ清々したよ。奴等に利用されるくらいなら燃えて消えてしまった方がいい。お父さんの生きた証は……私の心の中に在るから」
ブランコの鎖を握る細腕が小刻みに震えている。強く結ばれた口元は怒りを代弁しており、それを誤魔化す為か、海音は煙草を咥えると静かに火を灯した。
「雨なのにやめといたら? ほら、言ってるそばから火が消えちゃったじゃん」
濡れてしまい萎れた煙草。それを足元に捨てた海音は再びブランコを漕ぎ始めた。
「傘はあるのに、結局二人ともずぶ濡れだな」
「たまにはいいんじゃない? こういう風に、本能のまま時間に身を委ねてもさ」
「……そうだな」
心を鎮め、海音は小さく笑う。だが表情とは裏腹に、政府への憎しみは確実に芽を出していた。
「促進剤の葉は焼いたから、恐らくもう大規模な流出が起こることは無いと思う。レイスの連中も随時接種を進めているから、政府の手元にある分で最後だと願いたいよ」
「船で接種した分は大丈夫だったのか? あの時、拒絶反応が出てただろ」
「正直、結構苦しかった。でももう大丈夫だよ。身体には馴染んだし……実際にレイスとの戦闘でも役に立った」
「無事で良かったよ。それで? 残りのパクった分は?」
「……まだ持ってる」
「気になってたんだ。自分に接種したのに、何故予備の分も回収した?」
「大半は海に捨てて処分したよね」
「だからだよ。全て処分すれば良かっただろ」
目を逸らす詩音。「特に理由は無いよ」と無機質な声で紡がれた。
「もう一度、自分に接種するだなんて馬鹿なことは考えるなよ」
見透かしていると言わんばかりに漆黒の瞳が圧を放つ。ブランコの揺れが同時に止まる。錆びた金具の軋む音が、やけに大きく響いた。
「まさか、そんなことする訳ないじゃん。一度でさえあの拒絶反応だよ? 冗談抜きで死んじゃうよ」
「過剰接種は命を蝕む。麻薬に手を出してしまった私が一番よく解ってる。得体の知れない促進剤となれば尚更だ」
「大丈夫だよ、ちゃんと解ってるから」
「……まあ、あんたもそこまで馬鹿じゃないか」
大きく伸びをした海音が可愛げな唸り声を発する。中性的な顔立ちをする彼女の横顔に、詩音は素直に美しいという感情を抱いた。
「そういえば黒瀬は一緒じゃないのか?」
「來奈は……うん」
「あんたと会うのは今日で三度目だけど、今までは全部一緒に居ただろ。何かあったのか?」
「ううん、大丈夫だから」
面倒臭そうにため息をついた海音は、立ち上がると詩音の前に立つ。
「あのさあ……四咲。あたしにだけ話をさせて、まさかのあんたは黙りか?」
見下ろす瞳と見上げる瞳。「ごめん……」と漏らした詩音は、泥濘んだ地面へと視線を落とす。そして何一つ包み隠さず、來奈と離れるに至った経緯を紡いだ。「ふーん」と相槌を打ちながら空を仰ぐ海音は、顔面に突き刺さる雨に辟易しながらも何度か瞬きをする。
「それで? 五年前の映像では、本当に黒瀬があんたの両親を殺していたのか?」
「私は見ていないよ。來奈がそう言っていたし、それに何より……自身の親が死ぬところなんて見たくない」
「まあ、ご最もだわな。でも、自分の目で真実を確かめる為に、命の危険を冒してまで第三研究棟に乗り込んだんじゃないのか?」
「來奈が嘘をついているとでも言いたいの?」
「別にそういう訳じゃない。両親を殺したと嘘をついて何のメリットがある。共に戦った仲間に刃を向けるのなら、全てを知り、そして背負った上で戦え。あたしが言いたいのはそれだけだ」
傘をさした海音は、片手で煙草を咥えると火を灯す。満足気に吐き出された紫煙が、宙でしばらく居座っては虚空へと消え行った。
「……逃げていたのは私の方か」
小さな独白は雨音に掻き消された。
「けれど、第三研究棟にはもう戻れない。恐らくレイスの増援が来ている筈だし、自殺行為も甚だしい」
「知る機会はいつか必ず来る。それまでに殺り合わなくて済むよう、黒瀬と出会わないことを願え」
「ううん」
儚げな顔で首を振った詩音は続ける。
「会いに行くの、來奈に」
「……帝例政庁か」
「……うん。恐らく來奈は、母親の仇である尾堂を殺しに向かう筈。もちろん確証は無いから憶測だけれどね」
詩音は胸の前で両手を合わせて抱く。迷いの鎖を断ち切るように、静かに力が込められた。
「帝例政庁はレイスの本拠地だ。間違い無く死ぬぞ」
「五年前の真実を知るという目的は叶えた。実際にこの目で見られた訳じゃないけれど、ある程度の全容は見えてきた。知れば知るほど政府への憎しみが増すばかりでさ、私もう……止まれそうにないよ」
「促進剤の開発さえ行われなければ、黒瀬が被検体となることも……あんたの両親が殺されることも無かった」
その言葉は詩音の胸中を的確に代弁する。足元に落ちた視線。ブーツの靴先が、泥濘んだ砂利に塗れて汚れていた。
「私は政府が憎い、両親を殺した來奈が憎い。もちろん來奈が悪くないのは解ってるの。でも……」
「人はそう簡単に人を赦せない。でも、もしも赦せたのなら……いや、何でもない」
「あたしはそろそろ行くよ」と踵を返した海音に視線が向く。
「うん。ありがとね」
「お互い様だろ」
「誰かに話を聞いてもらうのって、こんなにも心が軽くなるんだね。海音はこれからどうするの?」
「しばらくは、薬の禁断症状に耐えながら大人しくしておくさ。六年も麻薬にどっぷりだったんだ、想像を絶する苦しさだろうな」
「じゃあ、私達同い年なんだ。麻薬に溺れたのは十二歳の頃って言ってたもんね」
「あんたよりは大人のつもりだけどな」
「何それ、そんなことないもん!!」
鼻で笑った海音。その表情は柔らかく、本来の人としての笑顔を取り戻す。彼女はそのまま「これはあんたにやるよ」と詩音に傘を押し付け、肩越しに手を振って公園を後にした。
忘却していた筈の雨音が回帰する。詩音はブランコに腰掛けたまま手のひらに視線を落とし、無意味に何度か開閉させてみせた。
──私のこの手で、一体何が出来るのだろうか。
何故だかそんな想いが湧く。迷走しそうな思考を遮るように、頭が左右に振られた。
立ち上がり、海音から受け取った傘をさす。既に全身びしょ濡れだが、胸の中には海音の温かさが残っていた。
「私も行かなきゃ。例えこの身が果てようとも、今の私に……失うものなど何も無いから」
自身に言い聞かせるような独白。濡れた前髪を手櫛で梳くと、詩音もまた、その場を後にした。