大切だった存在は今、憎むべき存在へと変わる
「ね? 詩音ちゃん最強でしょ?」
笑みが浮かぶも、激痛に耐えているのか痛々しい。無言で詩音を抱き締めた來奈は、肩口に頭を預けると身体を震わせた。
「……貴女を信じて良かった」
「私も貴女に信じてもらえて良かった」
來奈は顔を上げない。背に手を回した詩音は、優しく擦ると親友の温もりに身を浸す。耳元で繰り返される啜り泣く声、そして荒れた呼吸で上下する背中が痛々しかった。
「五年前の真実には辿り着けた?」
「……はい。当時の記録が映像として残されていました」
「そ。それで?」
一瞬、脈打った來奈の身体。答えたくないと物語るように身体が熱を帯びる。抱擁から逃れて立ち上がった來奈は、冷たい表情で詩音を見下ろした。
「詩音とは此処でお別れです。死んで下さい」
──来る。
警鐘を鳴らす本能。
急激に跳ね上がった魔力を感じ取った詩音は、未だ激痛の蝕む身体を酷使して立ち上がる。併せて振り抜いた右脚の刃が來奈の小型ナイフと衝突して火花を散らせた。
「と言いたいところですが、そちらが手負いなので日を改めます。これが元仲間としての最後の慈悲です」
無理矢理に力で押し返した來奈はナイフをしまうと背を向ける。
「どういうつもり? 來奈。説明して」
「映像から確認しました。五年前、詩音の両親を殺したのはリクではなく私でした」
振り返らないまま紡ぐ來奈。すぐ近くにある筈の背中に途轍も無い距離を感じた詩音は、首を横に振って雑念を掻き消した。
「昨日二人で話したでしょ? それは覚悟の上だった。私はあんたに刃を向ける気は無い。これからも來奈と共に生きたいから」
「甘過ぎます。私、詩音の過去を聞いた日から、元々貴女を殺すつもりでしたから」
「え……?」
速度を上げた鼓動が内側から胸を叩く。尚も振り返らない來奈は間を置いて続ける。
「言ったでしょう? 私は政府の息が掛かった者を皆殺しにすると。貴女の両親は政府の人間でしたよね? 両親が生きていれば貴女も此処で働くつもりだったと、初めて会った日に言っていましたもんね」
「でも私は……!!」
「貴女が何と言おうが、その身には政府の息どころか穢れた血が流れている。私が仲間のフリをして此処へ来たのは自分の過去を知る為です。私は貴女を利用したに過ぎない。次に会った時は敵ですよ? それでは……さようなら」
名残を感じさせない冷たい声色と共に踵を返す來奈。軋む身体を酷使した詩音が立ち上がろうと試みるも、投擲された一本のナイフが地面に突き刺さり、それ以上の行動を制した。
「追って来るのなら殺しますよ。無傷の私と手負いの貴女、どちらに分があるかなど言わなくても解りますよね? これからも政府と戦うのであれば、此処で死ぬのは得策ではないと思いますが」
「來奈……何処へ行くの?」
「……すべき事が出来ました」
「何をするの……?」
「貴女には関係ありません」
去り行く背中を追おうと試みるも、身体が言う事を聞かずに脚が止まる。詩音は眼前に突き刺さったナイフを拾い上げると、これまでの來奈の温もりを噛み締めるように胸に抱いた。
五年前の真実を知る為に戦った詩音。齎された結末は、唯一の親友が自身の両親を殺していたという無情なもの。來奈と離れてしまえば、そして敵対してしまえば、政府を恨む彼女と共に戦うという目的も失う。
──答えを知ることが出来たのなら、私が生きてきた理由は此処で終わるのか。
詩音は歯を食い縛ると腹の底から込み上げる感情に身を浸す。それはやがて喉奥から目頭へと突き上がり、いつしか涙となって瞳から零れ落ちた。
「そんなのって無いよ……こんな結末……酷いよ……一緒に帰ろうって約束したよね」
無機質な天井を見上げる。自分が凄くちっぽけな気がした。至った結末を恨んだ詩音は嘆き、慟哭し、黒い感情を高鳴らせてゆく。
「ねえ、來奈……私……私……あんたが居なきゃ寂しいよ……」
一歩間違えば負の螺旋に飲み込まれてしまいそうな感情の瀬戸際を、彼女は何も持たずに裸足で歩いていた。
立ち上がれと本能が語る。殺せと理性が囁く。過去の精算を行なえと心が哭く。
仲間であり親友でもある黒瀬 來奈。否、仲間であり親友でもあった黒瀬 來奈。
「だったらもう……殺しても仕方ないよね。私の両親を殺した敵なんだから……仕方ないよね」
大切だった存在は今、憎むべき存在へと変わる。此処で死ぬ訳にはいかない。詩音は掠れた叫び声をあげて無理矢理に立ち上がる。
「來……奈……」
縺れる脚やブレる視界など気にも留めず、壁を支えに歩いてゆく。彼女の選択は一度退いて体勢を立て直すこと。胸の内に宿る黒い感情だけが身体を突き動かした。
辿って来た通路を戻り、凍結させた入口のゲートを潜り、そして外へ。雨は未だ止んでおらず、夜と錯覚する程の闇が辺りを覆う。
外は静まり返っており、音を奏でているのは降り頻る雨のみ。傷付いた身体を穿つ雨が絶え間なく視界を跨ぐ。濡れた髪を掻き分けた詩音は、視界の悪さに辟易しながらも前だけを見据えていた。
「え……?」
何かに気付いた詩音は歩みを止める。敷地内へ侵入する際に潜った電子シャッターが固く閉ざされていた。來奈の魔力を以てしても、焼け跡一つ残らなかった無機質な灰色。相変わらず光の線は明滅を繰り返しており、明白な拒絶を示している事は明らかだった。
どう対応すべきかと短い思考。だが張り巡らされた思考の糸は即座に断ち切られる。水溜まりを踏み抜く湿った足音が、至る方向から響いた為だった。
周囲の建物から姿を見せた数十人が押し寄せる。襟元には獅子を象った白銀のバッジ。間違い無くレイスだった。瞬く間に包囲された詩音は立ち止まると、視線だけで周囲の状況を伺った。
まさに四面楚歌。全方位から突き刺さる鋭利な殺意。立ち止まったことにより掻き分けた髪が顔を覆う。表情は見えないが、唯一露出している口元が大きく吊り上がった。
「女ひとり相手に雁首揃えちゃって、もしかしてあんた等……私のことが怖いの?」
低俗な挑発の裏側に潜む虚勢。身体はリクとの戦闘で負った傷を抱えており、凍結しているとはいえ、激しく動けるような状況では無かった。
此処で死ぬかもしれないと、詩音は初めて死を意識する。だがそれでも、吊り上がった口角が是正されることは無かった。
「どういう訳か、黒瀬とは敵対したそうだな」
一人の男が醜悪な表情を浮かべながら言う。
「だから何?」
「お前は黒瀬に騙され、そして捨てられたんだ。反政府を掲げる悪党が迎えるにはお似合いの結末だな」
取るに足らない稚拙な言葉が、何故だが胸に深く突き刺さった。刃物で感情そのものを刺激されたような、神経を針で縫われたような、激烈な心の痛みに遭う。
雨に紛れて涙が零れた。
決して長くは無いが、來奈と過ごした日々が駆け巡った。思い出さないように意識する度、意志とは反して想い出が脳内に羅列する。
「それが來奈の生き方なら……私はもう、何も言わない。どのみち彼女は殺す。この手で、必ず」
まるで自己暗示だった。ぶつぶつと小声で何かを紡ぎ続ける詩音。雨音に掻き消されそうな弱々しい声が延々と続いた。