私はもう迷わない
「これで上の階に行けるね。何か手掛かりが見付かればいいのだけれど」
「そうですね」
肯定しながらも立ち止まった來奈は先導する詩音を呼び止めた。彼女に対して感じた二度の違和感が漸く確信へと変わる。
「どうしたの? 早く行かなきゃ新手が来ちゃうよ?」
「今の相手は間違い無く促進剤を接種していました。処刑広場で殺り合った際は、二人でやっと一人を仕留められたほどの凶悪な力です。その時はまだ、私も促進剤の力に目覚めてはいませんでしたから」
詩音は振り返らない。声を背に受けながらも沈黙を貫いていた。蔓延るのは何の音も無い嫌な静寂。後ろから近付いた來奈は、何も言わずに歩き出そうと試みた詩音の腕を掴んだ。
「単刀直入に聞きます」
動きを制された詩音が立ち止まる。前を向いたままで表情は読めなかった。
「船で竜胆さんを助けて治験を阻止した時、用意されていた促進剤はどうしました?」
僅かな沈黙の後、詩音は口を開く。
「……海音と協力して、海に投げ捨てて破棄したよ。政府に回収されても困るしね」
「破棄したのは全てですか?」
「どうして?」
「質問に答えて下さい」
「そんなこと聞く必要ないじゃん」
「いいから……答えて下さい」
静寂に蝕まれた空間で、小さく息を吐く音だけが聞こえる。詩音は跳ね上がる鼓動を押さえ付けると、振り返らないまま視線を落とした。
その背は語る。答えられないと。
「詩音、貴女はあの船で……自ら促進剤を接種しましたね」
押さえ付けていた筈の鼓動が跳ねた。どう隠し通そうかと思考した詩音は、何かを諦めたように首を小さく横に振る。來奈に嘘はつきたくないと想う、彼女の素直な気持ちからだった。
「……ごめん」
「貴女と竜胆さんが船内から戻って来た時、目立った外傷は無かった。にも関わらず詩音は嘔吐し、暫く動けずにいましたね。船酔いだとか言っていましたが、そんな嘘は通用しませんよ」
「……気付いてたんだ」
「確信を持ったのはその後ですが。頬を抓ろうと手を伸ばした時、左側に対する反応だけが皆無でした。船と第三研究棟の入口での二回、私は故意的に左頬を狙って抓りました。詩音、それがどうしてだか解りますね?」
「私が促進剤を接種したと読んでいたから、左目の視力を確かめる為。失明していれば自ずと左側への反応は疎かとなる」
頷いた來奈は腕を強く引き詩音を振り返らせる。高低差のある両者の視線が交差した。
「理由……話してもらえますね?」
真っ直ぐな眼差し。目を逸らすなと語る視線は多大な悲しみを孕む。観念した詩音は跳ねていた鼓動を鎮めた。
「あんたは私に、足並みを揃えて歩きたいと言ってくれた。私と離れるのが怖いと言ってくれた。それは私も同じ こと。來奈と共にこれからも生きていたいと思った」
「だからって……」
「あんたの足手まといになりたくなかった。海音にはもちろん止められたけれどね」
「促進剤を接種した者は私に任せてくれれば良かったじゃないですか」
「それが嫌だったの。辛いことを何もかも背負わせて耐えられなかった。あんた言ってたよね? “どちらか一方が重荷を背負ってしまえば、それはもう親友とは呼べないと思います”と。私はあんたの仲間であり親友だし、もちろんこれからもそうあり続けるつもりだから」
「でも視力を失うのですよ? 一生暗闇に囚われたまま、左目は二度と光を映さない。その重さが解っていますか?」
「解った上での判断だよ。視える世界は半分になってしまうけれど、私はそれでも……あんたの隣を歩く選択をした。あんたと半分ずつ背負う覚悟をした」
「詩音……」
名を呼んだ來奈は「私の負けです」と悲しげに視線を落とした。相反して満足気に微笑む詩音。そのまま口が開いた状態のエレベーターに乗り込んだ二人は、自動で上昇することに驚きつつも政府の手のひらで踊る。
「私達……もう人じゃないのかな」
「見る人から見ればただの化け物でしょうね。ですが、それを決めるのは私達の心の在り方次第では?」
「吉瀬君が言ってたからさ。人で在ることに拘るが故、促進剤の接種はしないと」
「そんなもの言わせておけばいいのです。例え化け物になろうと、この戦いに勝てれば私はそれで構いませんから。その為だけに……生きてきましたから」
数十秒の上昇を続けたエレベーターが到着を告げて揺れる。開けた景色は、拘束具付きのベッドが並ぶ空間だった。カプセルのように丸みを帯びたベッドの数は十。個体を識別する為か数字が振られており、それを囲うように見慣れない機械が並んでいた。
「來奈、此処って……」
壁面最上部には巨大なアーチ状の窓。白衣を纏った研究員達が窓から部屋を見下ろしているが、二人は興味無さげに視線を逸らした。
「はい、間違いありません。私は五年前……此処で促進剤の接種を受けました」
揺り返す記憶が牙を剥く。額を抑えて歯を食い縛った來奈は、到底赦し得ない記憶を押し込める為に低い唸り声を発した。
「來奈、よく聞いて。私はあんたの傍に居る。あんたが苦しい時は寄り添う。だから何も心配しなくていい。私達はいつだって一緒。今までも、そしてこれからも」
來奈の口角が優しげに緩んだ。押し寄せる記憶の奔流が感情を蝕むものの、まるで恐怖など無いと言わんばかりの笑みだった。
「もしも私が一人なら、今この場で間違い無く過去に呑まれていました。いや、この場どころか……此処へ辿り着くことすら叶わなかったでしょう」
凄まじい頭痛と吐き気を無理矢理に制する。穢れた過去など蹂躙すると決めて。
「ですが今、私の隣には詩音が居る。足並みを揃えて歩いてくれる仲間が居る。過去は変えられなくとも、未来を生きる自分自身は変えられる」
前を向いた來奈。瞳に迷いは無い。彼女は今、目を逸らしたい過去と真正面から向かい合う。
「ありがとう、詩音。私はもう迷わない。私はもう……何も恐れない」
強い意志を秘めた紺色の瞳が光を宿す。真っ直ぐにぶつけられた想いに対し、詩音は照れ臭そうに微笑んだ。「あんたなら大丈夫」と素直な気持ちを添えて。
そんな緩やかな時間を裂いたのは、向かい側の電子扉が開いた際に発せられた無機質な音だった。来訪する第三者。見覚えのある姿に、來奈が先に反応を示す。
「リク、やはり追って来ましたか」
「話を聞いてたがよォ、未来を生きる自分自身は変えられる? 綺麗事も大概にしろ」
「綺麗事ではありません。私はもう振り返らない」
「自分だけが苦しんで来たみたいな言い方だなァ。お前が命を奪ってきた数え切れない者達にも家族が居た」
「またその話ですか? 私が同情するとでも?」
「お前が前へと歩む度、奪われた者達の恨みや憎しみが背を追って来る。過去からは逃れられない。振り返らないのは、決して贖えない過去から目を逸らしているだけだ」
「贖うつもりなどありませんが? 過去の亡霊など取るに足らない。貴方達を皆殺しにするまで……私は政府を赦さない」
「黒瀬よォ、復讐は何も生まない。本当は解っているのだろう?」
「復讐なんて自分の為だけに果たすもの。その先なんて知りません。私はね? リク。政府が地を這い蹲って無様に死ぬ光景が見たいのです。とても絶景でしょうね」
浮かぶ恍惚の表情。奥深くに潜む狂気が見え隠れする。
「悲しみを識るお前だけは、政府側に居るべき者だと思っていたがなァ。俺達のような悲しい過去を持つ者を、これ以上増やす訳にはいかないだろう? その為には、この国に平和を齎す必要がある」
「まさか? 悲しみを識るからこそ牙を剥いているのですよ。それに平和などに興味はありません。どうしてもと言うのなら貴方達を殺して、政府の居ない平和な国を望みましょう」
太腿に手を這わせた來奈。レッグシースから抜き取られた六本のナイフが鈍い煌めきを発した。
「御託や能書きはその辺にしていただけますか? どうせ私達は解り合えませんよ、殺し合うことでしか」
「最期の交渉も決裂かァ。仕方無い、此処で消えろ黒瀬ェ!!」
カランビットナイフを取り出したリクは、グリップエンドのリングに指を差し込み華麗に旋回させる。得物を手中に収め地を蹴る瞬間、耳を劈くような甲高い音が場に響き渡った。
音の出処は壁面の最上部。アーチ状の窓が純黒の氷により凍結したかと思えば、間を置かず亀裂が走り破砕した。落ちる破片が雨の如く地を叩いては砕け散る。その中に混ざる鮮血が、上に居た研究員達が巻き込まれた事を物語っていた。
「詩音……?」
「來奈、あんたはあの部屋に向かって五年前の手掛かりを探して。実験を直接見下ろしていた場所だから当時の映像くらいは残っていると思う。さすがに、此処まで攻め込まれるなんて思ってもいないだろうからねえ」
詩音はそう言うと壁面に向けて手を翳す。集まり始めた魔力達が各々に役割を全うし、純黒の氷による階段が形成された。
「詩音、駄目です!! リクは強い……此処は私が!!」
「私を信じてくれるのなら早く行って」
二択に見せ掛けた一択。背に舌が這ったと錯覚する程の寒気だった。來奈は想う。こんなにも冷たい目をする詩音は見たことが無いと。尚も早く行けと語る目に、來奈は「絶対に死なないで下さい」と言い残して階段を駆け登った。