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相反する白と黒  作者: 葵(あおい)
激動の帝例特区
34/57

これからも宜しくね

「これは……注射器……?」


 ハンカチの下に隠されていたのは複数本の注射器であり、中身は闇さながらドス黒い液体で満たされている。「まさか、ね」と自身に言い聞かせた來奈は目を逸らし沈黙すること数分。やはり本能には抗えず、彼女は注射器へと手を伸ばした。


「可愛い詩音ちゃんがお花摘みから戻ったよ。ん? どうかした?」


「い、いえ……何でもありません」


 注射器に触れる直前で引かれた行き場を無くした手。來奈は場を取り繕うように不自然なピースをし、即席で作った不器用な笑みを浮かべた。頭にはてなマークを浮かべた詩音は「そっか」と囁くと、そのまま大きく伸びをして可愛らしい声を発した。それから洗濯を終えて順番に入浴を済ませた二人は、何を言う訳でもなく向かい合って座る。テーブルに頬杖をつく詩音と、膝の上に手を置いて座る來奈。ふいに、双方の視線が交わった。僅かな沈黙の(のち)、意を決した來奈が口を開く。


「詩音、お話があります」


 発せられたのは、よく通る落ち着き払った声だった。


「どうしたの? 改まって」


「……真剣な話です」


 真剣な話という言葉を聞き、詩音は頬杖をやめて姿勢を正す。胸中を整理しながら唾を飲み込んだ來奈。その際、喉の鳴る音がやけに大きく響いた。


「何かあったの?」


「そういう訳ではありませんが、一つ提案があります」


「……提案?」


「第三研究棟へ行くのはやめませんか?」


 間の抜けた声をあげた詩音が純粋な驚きを示す。綺麗な水色をした瞳が、その先を急かすように強く揺らいだ。


「政府が隠蔽した五年前の真実。それを知る為に私は今まで戦って来たから……」


「吉瀬から聞きましたよね? 行われていたのは促進剤を用いた人体実験でした。それが全ての答えですよ。私の首のチョーカーは被検体であった証拠、間違いありません」


「あのね、恐らくそれだけじゃないの。私の両親が何故死んだのか……答えをまだ見付けていないから。それに、來奈の母親に関する情報も見付かるかもしれないよ? あんたを十三歳まで育ててくれた母親は、まだ生きているかもしれないでしょ?」


「……そんなもの見付かる訳ないです」


「産みの親に会いたいって言ってたじゃん。もしも見付からなければ尾堂(びどう)に直接聞けばいい。レイスの総督となれば何か知っているかもしれないし、帝例政庁に一緒に乗り込んであげるからさ」


 目を逸らした來奈はテーブルの下で太腿に手を這わせる。悟られないようレッグシースから一本のナイフを抜き取ると、唐突に立ち上がり詩音の喉元へと突き付けた。


「行かないで下さい、詩音」


 まさに任意ではなく強制。明白に強くなった語気が心の荒みを物語る。反応すらしなかった詩音の視線が切っ先へと向いたかと思えば、そのまま真正面の來奈へと静かに流れた。


「一体何のつもり? 一緒に真実を確かめに行こうって言ったはずだよね」


「……解ってます」


「私と足並みを揃えて歩きたいって言ってくれたよね」


「……解ってます」


 首筋に感じる無機質な冷たさ。少しでも動けば喉元が裂かれることなど明白。そんな状況下でありながら、詩音は優しい微笑みを浮かべた。


「らしくないね、來奈。あんたが私に刃を向けるなんて」


「貴女は首を縦に振るだけでいい。第三研究棟へは行かないで下さい」


「何があったの? 私はあんたの敵じゃない」


 諭すような口調で紡いだ詩音。突き付けられたナイフは僅かに震えており、本心でないことは容易く窺える。來奈の視線は落ち、何かを言い淀んでいるのか唇が強く結ばれた。


「……解ってます」


「だったら酷いことしないで? 刺さったら死んじゃうよ?」


「仲間だからこそ刃を向けています」


 覚悟とは裏腹に腕の震えが強さを増す。定まらなくなった切っ先を是正するように、もう一方の手が手首に添えられた。


「話してよ、來奈。あんたは考えも無しにこんなことをする子じゃない」


 突き付けられたナイフを包むように握り込んだ詩音。僅かに傷付いた手のひらより血が滴る。細い指の間を掻い潜って垂れた血液が、バジャマに落ちて赤黒いシミを刻んだ。


「……怖いんです」


 秒針の音にさえ掻き消されてしまいそうなほどに弱々しい声だった。淀んだ瞳の奥には様々な感情が見え隠れしており、それを制そうと、來奈は必死で呼吸を整えていた。 


「怖い?」


「真実を知ってしまうことが」


「そんなの私だって怖いよ。過去に何があったのかを知る以上、それなりの覚悟は必要だから」


「そうじゃありません。真実を知ってしまえば私達はもう……今の関係ではいられなくなるかもしれません」


 ナイフを引いた來奈は真っ直ぐに詩音を正視し、以前の会話を思い起こす。脳内で徐々に繋がり始める真実のパズルが、皮肉にも彼女の心を掻き乱した。


「貴女は復讐の為、大好きだった両親を殺めた者を探していましたね」


「前に話した通りだよ。今だってそれは変わらない。憎しみだけが……毎日のように私の心を犯すの」


 荒れる感情を制するように、膝の上に置かれた手が強く握られる。傷ついた手のひらから滴る血液は止まっておらず、細く色白の脚を伝って地へと吸い込まれた。


「死体には切り裂かれたような傷痕があった。そう言っていましたよね」


「うん。調べて得た情報だけれど間違いはないと思う。この前言った通り、私が実際に見た訳じゃないよ」


「誰がやったと思います?」


「……解んないよ。解んないから探しているの」


 わざとらしく否定をする詩音を見て「よく考えて下さい」と吐き捨てた來奈が続ける。


「五年前、第三研究棟では促進剤による人体実験が行われた。被検体は十人、そして生き残ったのは七番の私と(リク)の二人。化け物と化した八人は、待機していたレイスにより即座に殺され、残った私とリクが自我を失い暴れ回った」


「何が言いたいの」


「……気付いてるくせに」


 無意識に身構えてしまうほどの冷たい声色だった。來奈の瞳は温度を失くし、光すらも消え失せている。彼女は身体の奥底で渦巻く黒い感情を確かに認識し、得体の知れない何かに身を任せては言葉を絞り出した。


「貴女の両親を殺したのは私の可能性だって有──」


「……言わないで!!」


 テーブルを強く叩き立ち上がる詩音。唐突に弾けた音に來奈の身体が一瞬脈打つ。悲しみをぶつけ合うように、互いの視線が音も無く交差した。


「それ以上は……言わないで」


 詩音は瞳を淀ませながらゆっくりと首を横に振る。諭すように、懇願するように、心の底から滲み出た想いだった。


「私だって本当は解ってるよ。私の両親を殺したのは(リク)か來奈のどちらか。そう言いたいんでしょ? 六の話から判断すれば必然的にそうなるもんね。でもね? 真実を自分の目で確かめるまでは、憶測だとしてもそんなこと考えたくないよ」


「なら真実を知ってなお私がその当事者だったとしたら……貴女はどうするつもりですか? 私と殺り合いますか? 私を殺しますか?」


「あんたに刃なんて向けられないよ」


「復讐の為に五年間もたった一人で戦って来て、その対象が私だったら刃を向けられない? 考えが根本から甘いんですよ。それがどこの誰だろうが両親の仇は仇でしょう。今まで苦しんで来た自分を真っ向から否定するつもりですか?」


「來奈は私を大切な仲間だと言ってくれた。もちろん私もあんたを大切に想ってる」


「だからどうしました? それが理由で刃を向けられないとでも?」


「だったらあんたは、共に戦ってくれた仲間に刃を向けられるの?」


「当然でしょう。自分の大切な者を奪った存在を赦せる訳がない」


「そっか……案外冷たいね」


 棘を孕んだ言葉が來奈の胸に突き刺さる。僅かに浮かんだ悲しげな表情は、悟られる前に即座に是正された。外の天候は芳しくないようで、少し開いたカーテンの隙間を横殴りの雨が(しき)りに横切っている。窓ガラスに張り付いた水滴が、涙さながら下方へと垂れていった。


海音(かいね)が麻薬を使ったことに対して、現実に抗わずに逃げるのかと説教していたけれど、來奈だって真実から目を逸らして逃げようとしているよね。第三研究棟へ向かうのを恐れているのがその証拠だよ」


 突如として瞬いた稲光。間を置かずに雷鳴が迸り、近くに落雷が起こったことは明白だった。そんな蒼白い光を背に、來奈は込み上げる言葉を押し殺しているのか、静かに下を向いて唇を震わせていた。


「言いたいことがあるのならはっきり言いなよ。あんたにとって私は、真正面からぶつかる価値すらない存在なの?」


「違う……!! そんなんじゃありません」


「だったら何か言ってよ。私わかんないよ」


「私は……ただ……」


 落ちていた視線が前を向く。詩音と目を合わせた來奈は儚げな顔で微笑んだ。


「詩音と離れるのが怖かった」


「來奈……?」


「さっき言いましたよね? 真実を知ってしまえば、私達は今の関係ではいられなくなるかもしれませんと。貴女の言う通り、私は真実から目を逸らして逃げようとしていました。もしも私が貴女の両親を殺めていたら、もう詩音の隣を歩くことは出来ない。この状況は裏返り、私は貴女の敵となる……それが怖かった」


 バツの悪そうな顔をした詩音は、來奈の頬に優しく手を添える。巡る思考を冷静にするのは手のひらに伝わる温もり。共に戦って来た仲間の温度。素直に頭を下げた詩音が目をぎゅっと瞑った。


「ごめん……心無いこと言って」


「いいえ、私は冷たいですから」


「ううん、そんなことない。冷たいのは來奈の気持ちも考えずに軽率な発言をした私の方。あんたの気も知らないで……逃げているのは私の方だった」


「これからは、あまり私に深入りしないで下さい。五年前の真実を知った時が……私達の最期かもしれませんから」


「もしもね? もしも私の両親を殺したのが來奈だったとしても……私はあんたに刃を向けることはしない」


「甘いんですよ。復讐は何も生まないと言いますが、心の底で渦巻く黒い感情は負の想いを生み続けます。それは復讐を果たすことでしか取り払えない」


「だったら一生、付き合って生きていくよ」


「その選択は、五年間もたった一人で戦って来た自身を否定することになるのですよ」


「私はあんたの隣に居たい、あんたに隣に居て欲しい。ただそれだけ。そう思うのは私の意志であり、自身の否定にはならない」


「詩音……」


 急激に熱を帯びる目元。腹の底から喉奥を突き抜けた感情が目頭へと至る。潤んだ瞳を隠すように下を向く來奈だが、察した詩音が彼女を強く抱き締めた。


「あれ? 泣いてるの? いつも私の頬を(つね)って泣かせるのに」


「泣いて……ません……」


 軽く揶揄(からか)った詩音は、胸に顔を埋める來奈の頭を優しく撫でる。お風呂上がりのシャンプーの香りがふわりと舞い、綺麗で艶のある髪が指の間を抜けていった。


「ありがとね、來奈。私のこと……そこまで想ってくれて」


「最初に声を掛けた時、詩音は見ず知らずの私を受け入れてくれましたから」


 出会った頃を思い返しながら「これからも宜しくね」と囁いた詩音は、相方が落ち着きを取り戻すまで抱擁を続ける。しばらく胸に顔を埋めていた來奈は、呼吸を整え感情の昂りを鎮めた。

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