大切な仲間ですから
「私としたことが、論破されてしまいました」
儚げな表情で振り返った來奈は驚愕で表情を引き攣らせる。座り込んだ詩音が背を向けて嘔吐しており、何度も咳き込み浅い呼吸を繰り返していた。
「……詩音!! どうしました!?」
隣に屈んだ來奈は反射的に詩音の背を擦る。しなやかな身体は線が細く、手のひらに伝わる感触は華奢で弱々しかった。
「少し船酔いしちゃったみたい」
「私が気付いていないとでも? 帰って来てから明らかに様子がおかしいです。一体中で何があったのですか」
「何も無いよ、説明した通りだから」
胃の中を全てを吐き出してなお吐き気は治まらない。胃液すら垂れ流す詩音は啜り泣きながら苦しみに耐えている。声を発しないように胸元を強く押さえる彼女だが、嗚咽に似た唸り声が痛々しく響いていた。
「お願い見ないで……來奈。人前で吐いちゃって……こんなんじゃ私……お嫁に行けないよね」
來奈は言われた通り見ないよう気を付けながら、後ろから詩音を抱き締める。相も変わらず浅い呼吸が繰り返されており、視認可能なほどに肩が上下に揺れていた。
「大丈夫です。大丈夫ですから。詩音は綺麗ですし、必ずお嫁にも行けます。もしも行けなければその時は……私が貰ってあげます」
何度も背を擦る來奈。介抱の甲斐もあってか、詩音は十分程度で落ち着きを取り戻す。「結婚式はいつ?」と普段通りの調子に戻った彼女は、先程までの嘔吐が嘘とでも言わんばかりに語尾を弾ませていた。
「建前ですよ。女同士なんですから出来る訳がないでしょう」
「この嘘つきチビ!!」
「嘘つきじゃありません。法律に基づいた根拠が有りますから。それで? チビって何ですか?」
背後から右手を伸ばした來奈は頬を抓ろうと試みるも、読んでいたと言わんばかりに手が叩き落とされる。だが、入れ違いで伸びた左手は容易く目的地へと到達した。強く引っ張られ伸びる頬。目をバツにした詩音は涙目になり不服を訴える。
「チビって言ってごめんなさいは?」
「ごめんなさい」
即座に折れた詩音。抓られ過ぎた頬が、チークのようにほんのりとした赤みを発している。ため息をついて呆れた來奈は、言い知れぬ小さな違和感を抱いていた。
「詩音、こっち向いて下さい」
「ん?」
振り返った詩音の口元にパーカーの袖口を当てた來奈。驚いた詩音は「汚いよ?」と身を仰け反らせる。彼女の口周りは、ミートスパゲッティを雑に平らげたような盛大な汚れが付着していた。
「いいえ、汚くありません。貴女は私の……大切な仲間ですから」
「來奈……」
嘔吐物が付着した詩音の口元が優しく拭われる。「ごめんね」と恥ずかしげに俯く詩音に対し、來奈は首を横に振ることで応えた。
「そういえば、竜胆さんはこのまま放っておいてもいいのでしょうか?」
「一度快楽に溺れてしまえば……麻薬はそう簡単にやめられないから」
「麻薬の件もですが、私達に手を貸した以上は今後狙われてしまわないか心配です」
「船内に居たレイスは誰一人として逃がしていないよ。真実を知って目を醒ました者達が告げ口をするとも思えない。それよりも、六だっけ?」
「彼は貴女達の姿を見るや否や撤退しましたよ。さすがに分が悪いと悟ったのでしょう」
報告を聞きながら「そっか」と大きく伸びをした詩音は、空気を大きく吸い込むと襲い来る眠気と対峙する。急激に伸し掛かってくる戦闘による疲労感。重くなった瞼が独りでに落ちようと、あの手この手で画策していた。
「今日は何処かに泊まろっか? 汚れちゃったから洗濯もしたい。もうさすがに動けないよー」
駄々をこねる子供さながら脚をばたつかせる詩音。今回ばかりは同感なのか、潔く肯定した來奈が小さな手を差し出す。戦闘で血濡れた手のひらはある程度拭われているものの、赤い血痕が消えきらずにこびり付いていた。
「顔も割れているのに泊めてくれるでしょうか?」
「ナンセンスな心配だねえ。有名人だってお忍びデートするでしょ? つまりはそういうこと」
「意味が解りません」
手を握り返した詩音が控えめに体重を預けて立ち上がる。確かに繋がれた手。華奢で色白な指同士が絡み合う。一向に手を離そうとしない詩音だが、意図に気付いた來奈が即座に振り払った。
「なになに照れちゃったの?」
「照れる? その程度で? 恋愛に関しては確実に私の方が上手ですが」
「一体どの口が言うの? 世の中お金だって言ってたくせに」
「それとこれとは話が別です。今は恋愛における経験の話です」
「それなら私の方が間違いなく上だよ? 詩音ちゃんモテ過ぎて困っちゃうから。あー、ダメダメ。來奈姫が妬いちゃうから」
「詩音の恋人になる人は本当に苦労するでしょうね。脱いだ服すら畳まない……家事が出来ないと言っているようなものですよ」
「そんなことないもん!! やろうと思えば出来るもん!! あんたこそすぐ手を出すじゃん。來奈のせいで頬っぺ真っ赤なんだから。暴力的な女の子はモテないよ?」
磁石の反発さながら勢い良く顔を背け合う双方。下らない沈黙を濁すように潮風が吹き抜ける。押し寄せる眠気に辟易した二人は車に戻り、宿泊場所を探す為に夜の街を彷徨った。しばらくして辿り着いたのは可もなく不可もないビジネスホテル。部屋をあっさりと確保した二人は、長かった一日の終わりに安堵する。張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、椅子に深く腰掛けた詩音が天井を仰いだ。
「ね? 案外簡単に入れたでしょ?」
「詩音がサングラス、私が俯いてパーカーのフードを被る。明らかに怪しまれていますけどね」
フードを脱いだ來奈が乱れた髪の毛を手櫛で整える。倣って、身に付けたままのサングラスを外した詩音がパチパチと可愛げに瞬きした。
「別に怪しくないよ? 普通の女の子じゃん」
「夜遅くにサングラスなんてどこが普通だか」
「サングラスなんてすっぴんを隠す為に使うでしょ? 出歩く時の必須アイテムだよ」
「隠す必要なんてありませんから」
「何それ、可愛いアピール?」
「可愛いアピールです」
「あっそ」
モノクロに統一されたベッドやクローゼット。いかにも寝る為だけの部屋とでも言わんばかりに簡易的な部屋内には飾り気がなく、それが逆に心を安らがせる。洗面所から二着のパジャマを引っ張って来た來奈は、詩音の向かいに腰掛けると服を脱ぎ始めた。
「ちょっと來奈!?」
「何ですか?」
「何ですかって、まだ心の準備が……そんなに大胆に迫られても私……」
服を脱ぐ手を止め、大口を開けた來奈が「はあ?」と半目に近いジト目を向ける。半裸になってしまった彼女は何一つ気にした様子もなく続ける。
「何を想像しているのです? 私はただ洗濯をする為に着替えただけですが。血やら貴女の嘔吐物やら色々付着しましたから」
「てっきり、詩音ちゃん襲われちゃうのかと。誰にも言えないような、あんなことやこんなことをされちゃうのかと」
「……この変態」
ワンピースタイプのパジャマを纏った來奈。彼女はファッションショーさながら見せ付けるようにくるりと回ってみせるも、裾が地面にまで至ってしまっており、サイズが合っていないことは一目瞭然だった。
「ねえ、あんた身長いくつ?」
「149ですが、何か?」
「パジャマのサイズおかしくない? それ私が着るから新しいの取って来なよ」
「余計なお世話です」
「ベッドが汚れちゃうよ? いいの?」
「……良くないです」
納得した來奈は足早に洗面所へと消える。そそくさと着替えた詩音は、二人分の衣服を抱えると備え付けの洗濯機へと放り込んだ。そこまでは良かったものの、ボタンを押そうとした手が唐突に停止する。
「ねえ、來奈ー!!」
「何ですか?」
洗面所から顔だけを覗かせた來奈が首を傾げる。
「洗濯機の使い方教えて欲しいんだけど」
「……え?」
「家のと違うから解んないよ」
「全く……貴女って人は。そんなんじゃ長期旅行すら行けませんよ?」
「私と來奈の新婚旅行?」
「そんな訳ないでしょう」
小さいパジャマに着替え直した來奈が足早に洗濯機の元へと駆け付ける。そのまま慣れた手付きでボタンを押し、問題なく稼働が始まったことを確認すると疲労を含んだため息をついた。稼働の際、小さな振動と水の注がれる音が静かな部屋内を心地よく満たした。
「ポケットに入っている物はちゃんと出しましたか? とくにティッシュなどは一緒に洗濯すると悲惨な目に遭いますから」
「当たり前じゃん。主婦たるもの、当然の極意だよ」
無い胸を張りながら「ちょっと御手洗」と姿を消す詩音の背に「洗濯物も畳めない人が、何が主婦だか」と鋭い言葉が突き刺さった。テーブルの上に並べられた二人の持ち物。詩音が所持していたものに目を奪われた來奈は視線を釘付けにする。水玉模様のハンカチの下が僅かに膨らんでいる。故意的に隠しているであろう意図に気付きつつも、僅かに鼓動を高鳴らせた來奈がハンカチを捲った。