何か忘れていませんか?
「どうしたァ? まさかもうグロッキーかァ?」
來奈は唸り声を発しながら一思いにナイフを抜く。刃先を追うように吹き出た血液が地面の鉄板を赤黒く染めた。
「お前は俺を腰抜け呼ばわりしたな」
「何か間違いでも?」
左肩を押さえる來奈。眼光は鋭く、戦意は微塵も喪失していない。負った傷は深いようで、指の隙間からは絶えず血が滴り落ちる。そんな痛みに拍車を掛けるように嫌な潮風が吹き抜けた。
「俺が何故、憎い政府に謙ってまで生にしがみ付いたか解るか?」
「我が身可愛さに生き延びたかったからでしょう?」
「馬鹿かァ? 俺が生きている理由は、この国を救いたいと願うからだ」
「……この国を救いたい? 馬鹿は貴方の方ですね。救うどころか、人身売買を試みる政府に手を貸しているじゃないですか」
「未来を見据えた犠牲に過ぎない。この計画が進行すれば国は潤い、より多くの命が救われる。国民の平和こそが政府の提示する未来だ」
「馬鹿馬鹿しい。政府一強の現代において、敷かれているのは独裁体制。人類は何度も何度も過去に過ちを犯してきた。それを繰り返す能無しの政府に最早この国は救えない。反政府を謳えば処刑されるのですよ? 恐怖政治と変わりないでしょう」
「馬鹿馬鹿しいのはお前だァ。全ての国民を救う手段など存在しない。親に捨てられ一人だった俺は、心の拠り所すら見付けられず寂しい想いをして生きてきた。そんな想いをする者がもう二度と現れないよう、誰しもが笑っていられる世の中になるよう、俺は生にしがみ付き政府に手を貸した」
「それはご立派ですね。綺麗事にしてはよく出来ていると思いますよ。でもね? リク。政府の開発した促進剤により親を失った子供も居るのですよ? 心に深い傷を抱え、生きる場所すらも見付けられず、笑っていられる世の中どころか一生を泣いて過ごすことになる。それを見過ごしている時点で……貴方たち政府に平和を語る資格など無い」
「反政府を掲げているだけあって、やはり話は通じないかァ。お前等は平気で人を殺し、平和を妨げる元凶となっている」
「何を今更? 因果応報でしょう。それに、より多くの人を殺しているのは政府ですよ? 気に入らない者を処刑し、平和を語る思想で人々を押さえ付け、結局は恐怖による精神操作に過ぎない。首を縦にしか振らない者達を残し、まさか理想郷でも創るつもりですかあ?」
満面の笑みは皮肉の裏返し。煽り口調で紡がれた言葉は鋭利な棘を隠し持っていた。リングを軸にカランビットナイフを軽快に回したリクは、視線をやらずに感覚だけで正確に握り直す。
「政府は国民の標となり戦っているんだ」
「戦っている? 何と? 反政府や従わない者達とですか? 自ら撒いた火種に随分と手こずっていますね。政府が促進剤など開発しなければ、今ごろ私や詩音もここには居なかった。火種は燻り、やがて大きな炎となる。それはもう……足元まで迫っていますよ?」
「反政府らしい言い分だな。だが忘れるなよ、お前が殺して来た者達にも家族が居たことを」
「知ったことですか。政府の息が掛かった者は死して当然です。臓物をぶちまけようが四肢を捥がれようが興味すら湧きません」
鼻で笑った來奈が吐き捨てる。互いに主張は譲らない。呼吸音が耳に届くほど場は静まり返り、波の音でさえ二人への干渉を拒むように消え去った。
「やはり生かしてはおけないな。国の為に死ぬこと……それがお前等に出来る最期の仕事だァ!!」
声を荒らげて飛び掛かったリク。待っていたと言わんばかりに右手を振り抜いた來奈は、手のひらに付着した血液を目眩し代わりに使役する。真正面から顔面に浴びたリク。だが瞬き一つ行われない。お構い無しに突き出されたナイフが來奈へと届く寸前、地より湧き上がった純白の炎が二人を隔てた。
「ようやく見せやがったかァ。第三研究棟で暴れ回っていたあの時以来だな」
派手に踊り狂う炎は二人を閉じ込めるように展開する。夜闇とは真逆の色をする白が、目を灼くほどの美しさを晒した。
「五年前の記憶はないと言ったでしょう」
「お前が記憶を失ってさえいなければ、少しは俺と渡り合えたかもなァ」
リクの全身が闇のようなドス黒い魔力に蝕まれ、身体の至る箇所が曖昧に歪んでゆく。靄がかり、蠢き、捻れ、ありとあらゆる部位が肥大化と縮小を繰り返す。最早ヒトでないことなど明白。一際不自然に捻じ曲がった身体が、何事もなかったように元の大きさへと回帰した。
「なるほど、不気味な力ですね。どんな能力かは存じませんが、私を五年前のままだと思わない方がいいですよ? 政府への憎しみを糧に……死に物狂いで生き抜いてきましたから」
冷たい声と共に、周囲の炎が緩やかに形を変える。炎は五線譜さながら帯状となり、宙を泳ぎながら両手のナイフへと吸い込まれてゆく。純白が織り成す幻想的な光景だった。一瞬でも見蕩れてしまったリクは、自身への苛立ちからか小さく舌打ちをする。艶やかに煌めくのは純白の炎を纏ったナイフ。感覚を確かめる為に軽く一振りされたナイフが、虚空に白き残光を刻み付けた。
「さあ、始めましょうか。政府陥落への第一歩を」
「国の最高権力に楯突いたことを後悔しろ」
カランビットナイフが手中で華麗に旋回する。口角を吊り上げて地を蹴ったリク。軽快な身のこなしで得物を振り下ろすも、それが目標へと届くことは無い。流れるような動きでナイフを振り抜いた來奈が、擦れ違いざまにリクの胴体を深々と切り裂いた。飛び散るはずだった血液でさえ即座に蒸発。全身に迸った激痛と灼熱が生命活動に警鐘を鳴らす。「相手になりません」と流し目で吐き捨てた來奈の背後で、リクが地に屈した際の音がやけに鮮明に弾けた。
「さて、私はおてんば娘の回収にでも向かいますか」
言葉とは裏腹に踏み出された足が止まる。來奈の耳に届いたのは、暗闇に身を潜めているような静かな呼吸音だった。低い唸り声を発しながら立ち上がるリク。戦闘の意志は未だ消えておらず、射殺すような眼光は來奈を真っ直ぐに捉えていた。
「何処へ行くつもりだ? まだ終わってないだろうがァ」
「まさか……」
來奈の鼓動を高鳴らせたのは、処刑広場でも目の当たりにした歪な光景だった。一切の過程無しで跳ね上がる魔力が、あてがわれているだけで痛みを主張するほどに鋭さを増す。切り裂かれた傷跡を押さえて立ち上がったリクが不敵に笑う。左目から──血の涙が零れた。
「俺は……この国を救う為に生に縋り付いてきたんだ。こんな所で負けられる訳がないだろうがァ!!」
「国なんてとうの昔に穢れています。救いなど何処にも無い。這い蹲って泣いて、そして死に物狂いで足掻かなければ生き残ることすら叶わない」
「未来ある子供達を前にしても、お前は同じことが言えるのか?」
「もちろん、何度だって言えますよ。何なら、政府の息が掛かっていれば女子供だって平気で殺します。私達もそれなりの覚悟で……命を懸けていますから」
「……外道がァ!!」
まさに咆哮。声を張り上げたリクは、重心を前に倒して直線距離で來奈へと向かう。先程とは比較にならない速さだった。弾けるように衝突する双方の得物。だが、明白に圧された來奈が靴底を滑らせて大きく後退する。
──往なし切れない。
即座に判断した來奈は垂直に場を離脱しようと試みるも、眼前に立つリクの姿が曖昧に歪む。刹那、華奢な身体が切り裂かれて派手な血飛沫が宙を舞った。激痛に顔を顰めた一瞬の隙に、來奈の腹部に蹴りが叩き込まれる。内蔵を全て吐き出してしまいそうな不快感。大きく吐血した來奈は、身体を何度も地にぶつけながら、鉄板の上を引き摺られるように転がった。
「呆気ないもんだな、黒瀬よォ」
軽蔑を孕んだ冷たい視線が落ちる。來奈は、たった一撃で致命傷に近い身体の軋みに遭っていた。「嘘でしょ……?」と内心での驚愕。立ち上がろうと試みるも、皮肉にも身体は言うことを聞かない。
「ふふ……ふふふ……」
意思に反して地に這い蹲る來奈。髪が目元を覆い隠しており、露になっている血まみれの口角が大きく歪む。彼女が滑った鉄板には、赤い絵の具が塗りたくられたように血液が付着しており、傷の深さを言わずと物語っていた。
「何がおかしい?」
「いいえ、別に。でも何か忘れていませんか?」
來奈の身体を急激に駆け巡る不快感。全身の血流を犯すように魔力が満ち渡る。火照る身体は僅かに痛みを発し、それはやがて感じたことのない快楽へと昇華した。
「私も過去に促進剤を接種されているのですよ? 記憶がなかったもので認識したのは先程ですが。人って不思議ですよね? 忘れていた頃は何も感じなかったのに、打たれたと認識した途端に身体中を不快感が迸っています」
まるで、糸で繋がれた操り人形だった。奏者の居ない人形劇さながら、引き上げられて無抵抗に起き上がった來奈。左目からは血の涙を零しており、指の腹で拭った彼女はそのまま舌を出して舐め取った。




