違法麻薬
詩音の襟元のバッジと同じ物を身に付けた者達が複数人おり、戦闘の最中なのか各々に武器を手に犇めき合っている。短い感覚で飛び交う号令や怒号のようなものが事の重大さを代弁していた。
「あれは、政府直属掃討部隊レイスの連中……!!」
車窓から外を確認し、殺意を包み隠すことなく露にする來奈。その際、首元に身に付けられた錆びた鎖のチョーカーがじゃらりと重い音を奏でる。肩に手を乗せた詩音は「焦らないの」と優しく宥めた。
「あらら、もう変異しちゃってるねえ」
視線の先にはレイスの連中に囲まれるように位置取る一人の青年。だが、身形が人のそれではない。大木のように分厚く変異した真黒の両腕を振り回し、辺りの者達を無差別に薙ぎ払っていた。
「のんびりしている暇は無さそうだね」
凄まじい力に殴り倒された者は内蔵をブチ撒け、血を吹き散らし、凄惨な末路を辿る。人ならざる者。変異していない両脚の細さが、分厚い上半身との対比で歪に映る。定まらない重心を左右に揺らしながら、遠心力に身を任せた腕が振り回され続けていた。
「さて、お仕事の時間だ」
軽快に車から降りた詩音は大きく伸びをする。垣間見える戦闘の意思。隣に並んだ來奈は小さな疑問を抱く。
──どちらに加勢するつもりなのか?
今再び、詩音の襟元で鈍く煌めくバッジが視界に収められた。政府直属掃討部隊レイスに対するアンチテーゼ。その言葉が事実ならば、今この場における戦闘は変異した化け物側に加勢するということ。瞬時に思考を終えた來奈は顎を引いて臨戦態勢を取る。両太腿に這う小さく細い手。スカートを捲り上げ、レッグシースより左右三本ずつ計六本の小型ナイフが抜き放たれた。指の合間にナイフを挟むと同時に地が蹴られ、その速さを代弁するように來奈の居た位置には小さな砂塵が巻き上がった。
「全く……せっかち過ぎるでしょ」
独白と同時に、眼前では既に一人が引き裂かれ生を手放した。背後からの不意打ち。小型ナイフを指に挟み爪のように扱う來奈は身軽かつ華麗に戦場を舞う。
そしてもう一人、喉元を掻っ切られ絶命。
レイスの連中はようやく來奈の存在を認識した。突如とした第三者の来訪に場は響き、その間にも次々と命は散ってゆく。縦横無尽、そして自由自在。風に煽られる髪が、移動した軌跡を辿って名残惜しげに尾を引いた。
「可愛い顔して結構強いじゃん。身体強化の魔法かな?」
余裕綽々、呑気な考察。その前方では無惨に引き裂かれた死体が積み上げられてゆく。昼間でありながら、飛び散る鮮血の赤が異様な艶やかさを晒していた。
「反政府を掲げる者か!?」
「我々に牙を剥く者は殺せ」
中央で暴れる化け物はそっちのけ。ほぼ全ての者の意識が來奈へと向く。たった一人を除いては。
「誰かと思えば貴様か、四咲 詩音」
低めの声を発する男の襟元で煌めく、獅子を象った白銀のバッジ。純正の為か詩音のものとは違い十字傷は刻まれていない。ゆっくりと距離を喰らう男は來奈を横目に、一切の隙を見せないまま詩音の元へと歩み寄った。
「あらら、こんな所でレイスのお偉いさんと出会すなんて。ほんと、ついてないよ」
整えられた真黒の髪より覗く紅蓮の瞳が、対称的な色をした詩音の瞳と衝突する。交差する視線は不可視の火花を散らし、そのまま互いに顎を引き目を細めた。
「……此処へ何をしに来た?」
「別に? 私が何をしようがあんたには関係無い」
詩音の視線が、一瞬だけ男の背後へと逸れる。その僅かな動作を見逃さなかった男は即座に振り返り、迫り来る化け物の姿を捉えた。身体が千切れるほどに捻られた上半身。そのまま勢い任せに振るわれた、大木のように変異した歪な腕が宙を切る。
「邪魔だ化け物」
軌道上から軽々と逃れた男は腰を低く落とし身を捻る。隙の無い居合の構え。何も存在しなかった手中には、まるで最初からそこにあったと言わんばかりに、白い鞘の刀が具現化する。
「貴様は既に用済みだ、消えろ」
刀の存在を認識出来ていないのか、それとも知能が既に無いのか、化け物は真正面から男へと向かう。再び腕が振り上げられた際、男は間合い内に獲物を捉えたのか紅蓮の瞳を煌めかせた。
「これじゃあ、さすがにまずいねえ」
詩音は跳躍の勢いで飛び掛かる。対象は化け物ではなく刀を携えた男。距離が埋まりゆく中、奥で未だ交戦を続ける來奈の姿が視界に入る。僅かに傷を負ってはいるものの、圧倒的優勢に変わりはなかった。だからこそ、意識を眼前の男だけに。宙より逆ムーンサルトの要領で右脚を振り下ろす詩音。ショートブーツの先端と後端から突出した鋭利な刃物が三日月さながら曲線を描く。
「私のパンツを見るチャンスだよ?」
「死ね、下品なんだよ」
「……あっそ!!」
堕ちた三日月は知らぬ間に抜かれた刀と衝突し、互いの手足に衝撃を伝えた。迸る甲高い音の中、二人が衝突する側方より化け物の追撃。薙がれた腕を、身を宙に逃すことで躱す詩音。男もまた後方へと退きやり過ごした。
「化け物を護るつもりか?」
「どんな内容だとしても、私にとって依頼は絶対なの」
「……化け物を護ることが依頼だと?」
「そうだよ。だから絶対に殺させない」
曇天の空はついに痺れを切らし雨を齎す。雨足は早々に強まり、立ち込める霧が視界を曖昧に掻き乱した。戦闘で火照った身体に染み入る冷たい雨。濡れた髪を掻き分けた詩音が一呼吸置いた。
「ねえ、吉瀬君。一つ質問いいかな」
吉瀬と呼ばれた男は先を急くように目を細める。
「約二ヶ月前から、この国の至る所で『促進剤』と呼ばれる違法麻薬が出回っている。けれど出処は不明。その件について何か知ってる?」
「政府直属の我々が知らないはずないだろう」
「促進剤を接種した者はこの人みたいに変異する。見境なく暴れ、意志を無くし、人を殺める為だけに行動するの」
「そんなもの周知の事実だ。だから我々が制圧をしている」
「周知の事実……ねえ。最初の頃に接種したであろう者は人としての原型すら留めていなかったのに、ここ最近はそういった事例は無い。それどころか、日を追う毎に変異は小さくなってゆく」
何かを探るような視線。降り頻る雨の中でさえ研ぎ澄まされた眼光は色褪せない。再び冷戦のように見つめ合った双方だが、先に痺れを切らしたのは詩音だった。
「改良を繰り返した促進剤の実験に人を使っている。例えば、人の耐えられる限界値を探っているとか? 私の目にはそんな風に映っているけれど。拒絶反応を起こして化け物と化せば、それを制圧するだけで何も知らない国民からは信頼を得られる。どうもあんた等に都合が良すぎるんだよねえ」
両者間に訪れる僅かな沈黙の中、レイスを皆殺しにした來奈が詩音の元へと戻る。その際、足元の水溜まりが豪快に跳ねて小気味良い音を奏でた。
「來奈、お願いだから手を出さないで」
左右の手に握られた三本ずつ計六本の小型ナイフ。力が込められた際に僅かに動いた刃先を見、慌てて詩音が釘を刺す。僅かに苛立ちを見せた來奈が不服そうに首を傾げた。
「この人もレイスでしょう? 此処で死んでいただきます」
「来いよチビ」
チビという言葉にむっとする來奈。一触即発の空気が流れるも、即座に詩音が水を差す。両手が目の前で慌ただしく振られ、その甲斐あってか辛うじて衝突は回避された。
「待って來奈。この人と話がしたいの。少しの間だけでいい、変異した青年を引き付けてくれないかな? 申し訳ないけれど絶対に殺さないでね」
「貴女に従う義理はありませんが」
「仲間に入れろという望みを叶えてあげると言ったら?」
眉を顰めて短く唸る來奈。既に答えは出ているのか、思考は瞬時に終わりを迎える。
「……絶対ですよ」
釘を刺すようなジト目を向けて化け物へと突っ込んだ來奈。華麗な身のこなしで翻弄すると、自身に注意を引き付けながら奥へ奥へと誘導する。再び訪れた静寂の中、詩音と吉瀬の視線がかち合った。