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相反する白と黒  作者: 葵(あおい)
激動の帝例特区
29/56

No.VII

「黒瀬、あたしはどうすればいい?」


 瞳に宿った殺意は消えぬまま。自身の手を開閉させた少女は潮風を身に受けて目を細める。惰性で耳にかけられた髪が風に煽られて肩越しに靡いた。


「その前に、貴女の名前を伺っても宜しいですか?」


「……竜胆(りんどう) 海音(かいね)


「りんどうって、お花にありますよね。同じ漢字ですか?」


「そうだけど、何? 下の名前は海の音と書く」


「いいえ、とても綺麗な名前だと思いまして」


 屈託の無い笑みを見せる來奈。海音の頬は僅かに赤みを帯びており、照れているのか小難しい顔をしていた。


「では竜胆(りんどう)さん、貴女にお願いがあります。促進剤の接種が行われている場所へと向かい、この真実を突き付けて来て下さい。皆の目を醒まして欲しいのです」


「……あたし、黒瀬のこと信じてみるよ」


「どうして急に?」


「実はあたしも、促進剤で化け物になった人を見たことがあってね。その時は促進剤の存在どころか、それが政府の仕業だということも知らなかった。でも今の話を聞いて納得した。辻褄が合った」


 儚げに微笑みながら「それに」と続けた海音は少し離れた位置へと視線を向ける。そこでは詩音が船から身を乗り出し、たまに落ちそうになりながらも周囲の状況を探っていた。


「向こうの、名前は確か……四咲だっけ? 今は周囲を警戒しているけれど、あたしに対する敵意や殺意は微塵も感じない」


「あくまで私達の敵は、政府や政府の息が掛かった者ですから」


「ほんと馬鹿だよ、あんた等。相手が誰だか解ってる?」


「……解っていてなお、牙を剥いています」


 予想通りの返答に「そっか」と満足気な相槌。海音は行ってくるよと言わんばかりに踵を返し、肩越しに小さく手を振った。それから詩音に全てを説明した來奈は、海音に話が通じたことが嬉しかったのか表情を緩めた。


「へえ、竜胆(りんどう) 海音(かいね)っていうんだ。名前に音が入っているあたり、少し親近感が湧くねえ」


 甲板の鉄柵に凭れ掛かった詩音が言う。事が上手く運んだのは良いものの、何度か落ちかけた際に乱れたであろう髪はそのまま放置されている。そんな荒れ放題の髪を見た來奈が、口元を可愛げに押さえてくすくすと愉快な声を発した。


「貴女よりはしっかりしていそうですが」


「えっ!? そんなことないもん。私の方がしっかりしてるもん!!」


「さあ、どうだか」


 相変わらずだと言わんばかりに微笑む來奈。だが何かを思い出したのか、唐突に裏返った表情が形容し難い悲しみを孕んだ。


「ねえ、詩音」


 紡がれた言の葉に抑揚は無く、ただ静かに揺り返す波の音だけが場を支配する。マストトップから降り注ぐ光が來奈を照らし、薄汚れた地面には心の闇を顕現するような影が拡がっていた。


「どうして何も聞かないのです……?」


 鉄柵に(もた)れる詩音の眼前で、來奈が俯きながら問い掛ける。固くなった表情は陰っており、落ちた視線が行き場を無くして地を這っていた。


「……何の話?」


(とぼ)けないで下さい、本当は解っているのでしょう? 私は貴女に左目が見えないことを伝えました。そして先ほど吉瀬から得た情報の中に、促進剤の副作用に関する話がありましたね」


「もちろん覚えてるよ。副作用は左目の視力を失うこと」


「なら、どうして私に何も聞かないのですか。どうして私を疑わないのですか。偶然にしてはあまりにも出来過ぎている。私は政府側の人間かもしれないのですよ」


「そんな訳ないじゃん。私はあんたを信じてる。信じているからこそ何も聞かない、それだけの話だよ。それに、失明した際の記憶がないって言ってたよね」


 話を切り上げるように後ろを向いた詩音は、鉄柵から軽く身を乗り出して地上を見下ろす。辺りは底無しの闇を思わせる暗闇。その中で緩やかな波に上下する巨大な船。吹き抜ける潮風も相まって、どこか非日常の空気が流れていた。


「詩音」


 ぽつりと名を呼んだ來奈が、後ろから詩音の右手を控えめに握った。心の温度を示すように両者の手は冷たくなってしまっている。それでもなお、詩音は振り返らない。


「どうしたの? 熱でもあるの?」


「私、促進剤を打たれたんですよね? 私にとっての空白の一年間……十三歳から十四歳の記憶がない間に。促進剤の開発が始まったのはちょうど五年前。辻褄が合いますもんね」


 一瞬、ほんの一瞬、詩音の冷たい指先がぴくりと反応を示した。無意識のそれを肯定と判断した來奈が更に続ける。


「吉瀬から他にも何か聞いていますよね? 例えば……私に関する情報とか」


「さっき話したことが全てだよ。あんたの情報なんて向こうが持っている訳がない。少し考えれば解るでしょ」


「そうですね……少し考えれば解ります」


「そ。じゃあこの話はお(しま)い」


 無理矢理に話を終わらせた詩音の手を引き、足を引っ掛けて床へと転ばせた來奈。彼女はそのまま小さな身体を駆使して馬乗りになると、拘束した上で詩音を見下ろす。


「詩音……?」


 そこで來奈は気付く。詩音の瞳に、今にも零れそうなほど涙が(ひし)めいていることに。「一体何のつもり?」と瞳を隠すように目が逸らされる。汚れた鉄板の上に投げ出された艶やかな黒髪が、荒む心に迸る亀裂のように広がっていた。


「嫌だよ……話したくないよ……」


 堪えても漏れ出る嗚咽(おえつ)。声を押し殺して啜り泣く詩音は目を合わせようとしない。來奈は心が締め付けられる痛みに遭いながらも、感情を抑えたまま優しい表情で問い掛ける。


「何を聞いたのですか?」


「あんたの話だよ、來奈」


「教えて貰えますか?」


「私は吉瀬君の言うことなんて信じてないから。第三研究棟へ行けば、恐らく全てが明らかになるの。だから今は……話したくない」


「いいえ、話してもらいます。話してくれるまでここを退()きません」


 顔を近付けた來奈の髪が詩音の横顔に触れる。繊細な髪から香るのは甘いシャンプーの匂い。ほぼゼロ距離になった互いの息遣いだけが、波音に紛れては何度も揺り返した。


「どうして、そんな意地悪をするの?」


「意地悪なのは貴女ですよ」


 色気を孕んだ艷やかな唇から予想外の言葉が紡がれる。呆気に取られたような声を発する詩音に対し、馬乗りになったままの來奈が小さく微笑んでみせた。


「一緒に真実を確かめに行くって言ったじゃないですか。仲間だって言ったじゃないですか。私は詩音と……足並みを揃えて歩きたいな」


 目を見開く詩音。その際、収まり切らなくなった涙が数滴こぼれ落ちる。涙は錆びた鉄板にシミを形成し、すぐに馴染んでは消えていった。詩音は背けていた顔を正面へと向け、ようやく目を合わせる。しばらく見据え合い、数秒間の沈黙の後、観念したのか重い口が開かれる。


「……來奈の言う通りだよ。あんたは空白の一年の間に促進剤を打たれている。被検体として集められた十人……その内の一人だった」


「なるほど、促進剤を用いた人体実験……それが五年前に第三研究棟で起こった真実ですか」


「ううん、真実とは決め付けないで。これはあくまで吉瀬君の話。判断するのは、自分の目で全てを確かめてからでいい」


 発言と同時に何かを思い出した詩音は、目の前にある來奈の首元に視線をやる。錆びた鎖のチョーカーはまるで呪縛であり、細い喉元を締め付けて鈍い煌めきを晒していた。


「吉瀬君が言ってたの。あんたのチョーカーの裏側に文字が刻まれていると」


「何て書いてあるのです? 外れないので、さすがに裏側となれば自分では確認出来ません」


「七番目の被検体……『No.VII(セブン)』。吉瀬君の話が本当ならね」


 馬乗りをやめた來奈が「確認して下さい」と首元を差し出す。反射的に手を伸ばす詩音。だが、その手は恐れからか震えている。「全く、貴女って人は」と儚く微笑んだ來奈は、詩音の手を支えるように掴み自身の首元へと導いた。手がチョーカーに触れる。無機質な冷たさが肌に伝わった。じゃらりと重い音が鳴り、それがやけに鮮明に静寂を裂く。詩音の胸中に蔓延るのは純粋なる恐れ。吉瀬の話を裏付けてしまうことへの恐怖心。


 それでも彼女は、意を決して裏側を覗き込んだ。




 ──No.VII(セブン)




 確かにそう刻まれていた。刻まれてしまっていた。荒れる呼吸が事実を言わずと代弁し、全てを察した來奈が詩音の背を優しく(さす)った。すぐさま何かを紡ごうとした詩音が制される。來奈の人差し指が、動きかけた詩音の唇に押し当てられた。


「実は私……薄々勘付いていたんです。もちろん理由はあります」


 囁くような優しい声色。詩音にとってそれが何よりも辛かった。だがその先が紡がれることはない。唐突に鋭さを帯びた來奈の視線が、甲板の離れた位置へと向いた。


「詩音」


「大丈夫……気付いてるよ」


 二人だけに向けられた鋭利な敵意が漂い始める。風と共に吹き抜けるのは喉を掻っ切るような計り知れない殺意。空間が裏返ったと誤認するほどに、場の空気が強く張られた弦さながら張り詰めた。

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