ヤク中の少女
「來奈姫、超有能じゃない?」
戦闘を制し車内へと戻ってきた來奈が助手席へと座り直す。無傷の彼女は息一つ乱していない。一難が去り気が抜けたのか、詩音は小さく唸りながらハンドルへと凭れ掛かるように身を預けていた。
「貴女が死ななかったのは運ですよ。男の狙いが外れただけです」
「え、マジ? 脳天真っ二つになるところだったよ? ほら見て」
指差された天井部には刃物が貫いた際の細い穴が空いている。穴からは本来見えるはずのない空が見えてしまっており、追い討ちを掛けるように吹き込んだ風が二人の髪を控えめに靡かせた。
「深く腰掛けていたから助かった。つまり脚が長くてスタイルが良いってことだよね。スタイルも良くて運も良いなんて、私って神様に愛されちゃってる? もしかして神は二物を与えちゃった? ダメダメそんなの、來奈が妬いちゃうから」
誰と会話しているのか手をひらひらと振って頬を赤らめる詩音。突如として開幕した独り言劇場に呆れのジト目が向いた。
「シートの位置が随分と前ですが」
「あのね? 來奈。世の中には知らない方が良いこともあるの」
「どっちが話を振ったんだか」
來奈は自身のプリーツスカートの一部を破ると、上の空になっている詩音の右腕に巻き付ける。先ほど硝子片が突き刺さった右腕は止血され「ごめんね」と紡いだ詩音が申し訳なさそうに会釈をした。
「こちらこそ命を預けていましたから。運転を続けて下さり助かりました。それで、これからどうしますか?」
「うーん、もう夜だしねえ。このまま何処かに隠れて、今夜は車中泊しよっか」
「賞金を懸けられて顔も知られているのに、車中泊とは随分と無防備な提案ですね」
「まあまあ、嫌味を言わないで?」
「嫌味ではなく事実です」
「でも眠いでしょ? さっき欠伸してたじゃん」
痛いところを突かれたと言わんばかりに來奈の視線が明後日の方向へと流れる。煽っておきながら自身も特大の欠伸をかました詩音は「それじゃあ、行こっか」とアクセルに足を乗せるも、ペダルがそれ以上踏み込まれることはなかった。
「どうしました?」
気になった來奈が首を傾げる。当の本人に声は届いていないようで、視線が窓の外へと釘付けになっていた。
「……やけに人が多い」
「何か問題でも? まだ深夜でもありませんし当然かと」
「ううん、よく見て。皆同じ方向に歩いてるの」
不自然な人の流れ。誰一人として違う方角へ歩む者は存在しない。中年から年配にかけての年齢層の者が多く、その誰しもが虚ろな瞳をしながら一心不乱に歩み続けている。流れの中間付近では、二人と歳も近いであろう一人の少女の姿があった。
「確かに妙ですね」
「あの若い子に聞いてみる?」
「馬鹿ですか? 私達顔も割れているんですよ?」
「ニュースを見ない子かもしれないよ?」
「なら逆にニュースを見る子だったら?」
不満げに唸った詩音は運転席まわりを雑に漁り始める。政府の管理が杜撰なのか破棄されたであろう書類も多く、中身が飲み干された空き缶のゴミまで放置されていた。そんな中から、ものの数十秒で何かを見付け出した詩音は自信満々で声を上げる。
「ほら、サングラス発見。これで変装したら大丈夫だよ」
サングラスをかけた詩音は知的を装いフレームをくいっと指で持ち上げる。少し角張ったタイプのサングラスが、水色の瞳を覆い隠して二人の視界を隔てた。
「夜なのにサングラスって怪しくないですか?」
「全然怪しくないよ。それよりも似合う?」
根拠の無い自信。意識だけはモデルなのかドヤ顔が浮かべられる。忖度の無い「似合いませんね」との酷評に拗ねたのか、頬を膨らませた詩音はサングラスを來奈に押し付けた。
「酷い。じゃあ行って来て」
「はいはい、聞いてきますよ。戦闘になっても知りませんからね」
「仕方ないじゃん。似合わないんだから」
「いつまで根に持ってるんだか」
呆れ気味にサングラスをかけた來奈は車外へと出る。「私の方が似合ってるもん」との負け惜しみを背に、ゆっくりと少女の元へと歩みが進められる。更に顔を隠す為かパーカーのフードまで深めに被った來奈は、明らかに怪しい身形となってしまっていた。
「あの……少し宜しいですか?」
たどたどしい声掛けに反応した少女。鼻筋の通った中性的な顔立ちに拍車を掛けるのは、背中まですらりと垂れた金色の髪。手入れはあまりされていないのか、枝毛が様々な方向に跳ねてしまっている。
「ん? あたし?」
呆気にとられたように立ち止まった少女は、夜の中でも色褪せない漆黒の瞳を向ける。左口角付近ではリング状の口ピアスが三個羅列していた。
「はい。聞きたいことがありまして」
「初対面で聞きたいことなんて気になるね。いいよ、言ってみなよ」
完全に向き直った少女が瞳の内に純粋な興味を宿す。敵意は微塵も無く、内心胸を撫で下ろした來奈が小さく会釈することで応えた。
「周囲を見渡す限り全ての人が同じ方向へと歩んでいます。年配の方に紛れて若い方が居たので、歳も近いと思い声を掛けさせていただきました。申し訳ないですが少し事情があり、こちらは名乗ることが出来ません」
「別にあんたが誰だろうが興味無いし」
「……ご最も」
「それで? 前置きなんていいから本題に入りなよ」
言葉とは裏腹に柔らかい声色だった。周囲の者達は立ち止まる二人に興味すら示さず歩み続けている。そんな光景を横目に、話が早いと解釈した來奈が切り出す。
「今、貴女は何処へ向かっているのですか?」
「何だ、そんなことか。教えるけれど、その前にあたしからの質問に答えてもらえるか?」
「……可能な範囲内で宜しければ」
「あんたさあ、どうして夜なのにサングラスをしているの?」
「これは別に……その……」
まさか、初手から聞かれるとは思いもしなかったと冷や汗が流れる。僅かに俯いて思考を巡らせる來奈は、視界が本来の色を取り戻したことに驚いて顔を上げた。
「質問するなら目を見て話しなよ」
サングラスを取った少女が、八重歯を覗かせて大人びた顔で微笑む。女でありながら見蕩れてしまいそうな艶やかな笑顔だった。対し、しくじったと言わんばかりに目を細める來奈。即座にナイフが抜けるようにと太腿には手が添えられた。
「あは、賞金首の子じゃん。確か……黒瀬 來奈だっけ」
「……知った以上、私と此処で殺りますか? 戦闘の意志を示した場合、初動で貴女の首を刎ねます。なので次の発言はよく考えて下さいね? この距離であれば殺すのに一秒も要しませんから」
冷戦さながら交わる視線。互いに一切の動作は無く、まるで相手の出方を窺うような嫌な沈黙が続く。煽るように吹き抜けた風を皮切りに、少女が來奈の背後を指差した。
「あたしに構うより仲間の心配した方がいいんじゃないか? 車で待ってる人、襲われてるけど?」
跳ね上がる鼓動と共に振り返る來奈。だが車には何の変化も無く、静かなアイドリング音だけが響いている。車内のルームランプは点けっぱなしのまま。柔らかい光に照らされているのは、ハンドルに突っ伏して眠りこける詩音の姿だった。
「うっそー」
少女は、來奈が振り返った一瞬の隙に肩に手を置く。「戦いなら死んでたよ」と立てられた人差し指。振り返った來奈の頬が、指先に当たって柔らかく沈んだ。
「メリットも無いし、あんたと揉める気はないよ」
「私を殺せば大量のお金が手に入りますよ?」
「別に要らない。金なら今から貰いに行くつもりだし」
「お金を貰う……? その話、詳しく教えて頂けますか?」
「さっきの質問から先に答えると、あたしは帝例総合病院に向かってる」
「病院? 何か病気を患っているのですか?」
「治験だよ。数日は監禁されるけれど、それだけで一人あたり一千万だって」
「一千万……?」
金額を復唱しながら訝しげな顔をする來奈は、政府の闇が関わっていることを本能で察する。膨大な人数に対して支給される額にしては到底有り得ないものだった。
「何の薬ですか?」
「さあ?」
「さあって……治験なら抗がん剤とか心臓病の薬とか色々あるじゃないですか」
「だからあたしも知らないってば」
「解ってます? 治験って死ぬかもしれないんですよ? もっと自分を大事にしたらどうですか? そんな虫の良い話……にわかに信じられません」
「別にあんたが信じる必要ないだろ。質問には答えたからもういいか?」
嫌な胸騒ぎを覚えた來奈は、去り行く少女を無意識の内に呼び止めていた。そして、フードを脱ぎ堂々と前を向く。周囲を気にも留めず顔を隠すことをやめた來奈。僅かに鋭さを帯びた真っ直ぐな瞳が少女を捉えた。
「まだ何か用? 薬も切れてきてしんどいんだけど」
「……薬?」
「あたしヤク中だから近寄らない方がいいよ? 薬が切れたら何するか解んないし。まあ……あんたからも同じ臭いがぷんぷんするけどね。薬物に身体を蝕まれた哀れな臭いがね」
來奈に身を寄せて匂いを嗅いだ少女は不敵な笑みを浮かべる。同類だねと言わんばかりに瞳の奥が艶やかに揺らぐも、あからさまな嫌悪感を見せた來奈が一歩だけ身を引いた。
「意味が解りません。怒りますよ」
「おー、怖い怖い。んで? 何の用? もう行きたいんだけど」
「その件ですが……ついて行ってもいいですか?」
「やだよ。あんたと居たら、あたしも反政府の汚名を着せられる。金をくれるだなんて政府様様なんだから。それに治験には条件があるから、あんたが来たところで意味は無いよ」
「条件って何ですか? 時間を取らせてすみません。それを聞いたら大人しく去りますから」
周囲に政府の人間がいないか確認した少女は、肯定と共に煙草を咥える。慣れた手付きで点された火が、暗がりの中で蛍のように存在を主張した。
「条件は二つ。身寄りが無いこと、そして帝例特区に住まう者以外であること。もちろん全て調べられるから嘘は通用しない」
「なるほど……教えていただきありがとうございました。最後に一ついいですか?」
何かを察したのか、來奈の瞳が強い淀みを見せる。
「一つだけなら」
「その治験、間違いなく死にますよ。身寄りが無いことが条件っておかしくないですか? それに帝例特区に住んでいない者だけなんて、裏を返せば、死んでも公にならない者を集めているだけとは思いませんか?」
「別にいいんじゃない? 死ぬか一千万か。賭け金は自分の命……最高にヒリつくよ」
肩越しに手を振りながら踵を返した少女。吐息に乗せられた紫煙が虚空に消え入り、僅かに浴びた來奈が煙たさに顔を背ける。去り行く背中に再び呼び掛けるも、少女がそれ以降振り返ることはなかった。