誇りを踏み躙る為
「騒がしいと思ったら君達かー。通勤の邪魔しないでくれる? こっちは連勤で疲れてるんだからさー」
未だ微睡みの淵に居るような間の抜けた声。だが頭がキレることは知っている。二日連続レイスの幹部、しかもよりによって天笠と鉢合わせる運の無さに、詩音は内心嘆息した。
「もう昼前だよ? あんた遅刻してんじゃん。頭大丈夫?」
こめかみを二度叩いて低俗な挑発をする詩音は、以前のような不意打ちを警戒しつつ次なる出方を待つ。「幹部は出勤時間の融通が効くのー」と社会人を嘗めたようなことを吐かした天笠を見、詩音は天井のハッチ部分を見上げた。
「來奈、適当に時間潰してて。天笠はここで仕留める」
狭い車両内では二対一といえどアドバンテージは取れない。解っていたからこそ、來奈は食って掛からずに大人しく身を引く。
「やっほー、ナナちゃん。そんな所に居たら危ないよー? 怪我する前に戻っておいでー」
昇降ハッチから顔を覗かせていた來奈に視線が向く。御丁寧に手まで振られ、反応に困った來奈が助けを求めるように視線を流した。それこそが詩音の狙い。頭がキレる敵に対する先制攻撃。
「あんたの相手は私だよ……天笠 日依!!」
一撃で仕留めんと振り上げられた右脚。鈍く煌めく刃が首を刎ね千切ると思われたが否、「殺意でバレバレだよー」と紡いだ天笠が不敵な笑みで体勢を低くする。対象を見失い空を切る右脚。それだけに留まらず、ポケットに手を入れた天笠が詩音の軸足を蹴り払った。
「わっ!?」
後方に体勢を崩した詩音は、即座に手のひらを地に張り付けて身体を無理矢理に捻る。そのまま予測不能な立て直しで弧を描くように脚を振り抜いた。同時に弾ける甲高い音。ブーツから突出する刃を止めていたのは、天笠の両手に身に付けられたナックルダスターだった。
「あんた狂ってるよ。普通、ポケットからそんな物出てくる?」
「あのさー、咲ちゃんさー、君もブーツから刃を出すなんて意味不明だよねー」
競り合う双方に併せて金属が擦れる不快な音が続く。視線が交差し、両者間には冷戦さながら不可視の火花が迸った。
「何しに来たのー?」
大きく反発した二人は靴底を滑らせながら後退して距離を取る。未だ臨戦態勢の詩音は、小さな動き一つ見逃さまいと神経を尖らせていた。
「見て解るでしょ?」
自身の襟元を指差す詩音。獅子を象った白銀のバッジには、誇りを引き裂くような十字の傷が刻まれている。
「あんた等の誇りを踏み躙りに来たの」
「おー、野蛮だねー」
「で? どうする? 狭い車両内じゃお得意の巨斧も振るえないねえ」
「別にどうもしないよー? 私は時間稼ぎをするだけでいいからさー」
「時間稼ぎ……?」
「咲ちゃんさー。目的は知らないけれど、もう帝例特区からは生きて出られないよー?」
「ねえ、その呼び方やめてくんない? 四咲なんだけど」
吐き出された不満が届く前に大きく揺れる車両。明らかに進行方向が変わり、窓の外の景色が別の方角へと引き摺られるように流れゆく。予想外の事の運びに、詩音の鼓動が嫌に高鳴った。
「ごめんね咲ちゃん。応援要請はとっくに出させてもらったよー」
「へえ? 走行中の車両にまで駆け付ける暇人が居るんだ? 政府直属を謳う割に、レイスも大した仕事しないんだねえ」
「ううんー。帝例電鉄の行き先を変更させてもらったの。さてさて、何処に到着するでしょうかー」
「何処に着こうが構わない。あんた等全員皆殺しだよ」
前方に押し出された腕より純黒の氷柱が突出するも、身を捻り拳を振り抜いた天笠が側面より容易く叩き折る。まさに超反応。尾を引く美しさの余韻。双方の視界内で舞う氷柱の破片が、車窓より差し込む陽の光を受け入れて煌びやかに瞬いた。
「君達の能力、本当に厄介過ぎるよー。白とか黒とか炎とか氷とか勘弁してよー」
そんな幻想も刹那の出来事。破片が地に落ちると同時に両者は各々に思惑を巡らせる。先に動いたのは天笠。投擲された左手のナックルダスターが車窓を粉砕する。張り詰めた糸を断ち切るような粉砕音が短く弾けるも、詩音は注意一つ逸らさなかった。
「また注意を逸らして隙を突くつもり? 残念だけれど同じ手は通用しない、よ!!」
語尾を強く言い放った詩音は、飛散した大きな硝子片を蹴り上げる。狙いは天笠の顔面であり、反射的に目で追ったことを確認すると一気に距離を埋めた。
「さすが、反政府を掲げながら生き延びて来ただけはあるよねー」
「そう? でもあんたは此処で死ね!!」
振り上げると思われた脚を即座に折り曲げた詩音は、軸足を切り替えタイミングをずらした回し蹴りを見舞う。狙いは左脇腹。得物を失った左手での防御は間に合わない。即座に判断した天笠は大きく後方へと飛ぶ。背後には、切り離した車両から飛び移ろうと試みた者達を拒絶した氷壁。瞬間、詩音の表情が大きく歪む。応えるように氷壁から具現化した鎖が、瞬く間に天笠の四肢を拘束した。
「あのさー、咲ちゃんさー、さすがにこれは反則じゃない? 私動けないからもう戦えないよー?」
純黒の美しき氷鎖は強度も兼ね備えており、手足が雑に動かされようとも割れる気配すら見受けられない。最初は暴れる素振りを見せていた天笠だが、すぐに諦めたのか萎れて大人しくなった。
「あんたさあ、ほんと怖いんだよね。何を考えているか解らないし、この状況でも有利に立ったとすら思えない。レイスの中で最も遭遇したくない存在だったよ」
「酷いねー。そんなこと言わなくてもいいじゃん」
「でも会うのはこれで最期。あの世で私達のことでも応援してて? レイスの連中も全員そっちに送ってあげるから」
冷たい表情で紡いだ詩音は何かを思い出し懐に手を忍ばせる。取り出したのは以前拾った写真であり、中指と人差し指で挟んで見せびらかすようにひらひらと提示した。
「ねえ、これ誰? 恋人?」
「何で君が持ってるのー?」
「昨日あんたが落としたんじゃん」
冥土の土産と言わんばかりに天笠の懐に写真が返される。そのまま「じゃあね、さようなら」と後ろ手に手を振った詩音は静かに踵を返した。
「ねえ、待ちなよー。もう少しお話をしようよー」
「待たない。あんたに時間を与えるとどんな反撃が来るか解らないから」
帝例電鉄が大きなカーブに差し掛かる中、車両の連結部分へと至った詩音は幌を切り裂く。彼女は激烈な揺れと遠心力に体幹の強さで耐えながらも、次の車両へと飛び移った。
「何か言い残すことは?」
「覚えてなよ。ばーか」
「気が向いたら覚えておくよ。レイスには狂った馬鹿が居たとね」
車両連結解除。四肢を拘束されたままの天笠の姿が遠ざかる。切り離された車両は瞬く間に取り残され、カーブによる遠心力を殺し切れずに街の中へと脱線した。
「あらら、やり過ぎちゃったかな」
薙ぎ倒された民家や施設が爆発を伴い炎を巻き上げる。一瞬身を灼いたと思われた灼熱も、まるで誤想のように刹那に消えた。日常が非日常へと変わる様をぼうっと眺めていた詩音。炎に蝕まれ赤に染まる景色もまた、瞬く間に後方へと流れた。
「さて、次はおてんば娘の回収だね」
次の車両内は純白の炎に侵されており、見渡す限り生きている者は皆無だった。詩音は「炎は駄目だよって言ったのに」と肩を落として嘆息する。流れるように視線は上へ。昇降ハッチが開いており、此処から車両内へ至ったのかと推測が行われた。
「ということは……外か中どっちに居るんだろう」
以前見た炎とは相反して熱く、揺らめく体躯が惜しげも無く灼熱を撒き散らしている。詩音は咳き込みながらも炎を徐々に凍らせて前へと進んだ。
「わ!? 何!?」
突如として車両が大きく振動し、押し倒されるように尻餅をつく。繰り返される急ブレーキや急加速。「そっか」と何かに気づいた詩音は立ち上がると、未だ続く振動に辟易しながらも最前の運転席へと一気に駆け抜けた。
「遅いですよ四咲さん」
額に汗を滲ませながら運転席につく來奈。忙しなく動く手が、明らかに知識が無いであろう適当な運転を繰り広げる。本来の運転手は外に放り出されて絶命しており、まさにハイジャックそのものだった。