手痛いしっぺ返し
「吉瀬っちが君達のデータを纏めてたよー。大人しくしていれば良かったのにさー」
眠そうに目をこすった女性は何度か瞬きをして二人を交互に見据える。一つ一つの所作は穏やかだが付け入る隙は無く、どこか一点から打ち崩してやろうと画策する詩音が雨も厭わず大きく伸びをした。
「吉瀬君に続いてあんたまで出て来るなんてねえ、天笠 日依」
「初めましてナナちゃん。生憎の雨だけれど雨傘じゃないよ天笠だよー。宜しくねー。こう見えてレイスの幹部だよー」
胸元のバッジを摘んで見せ付ける天笠は、ご紹介に預かったと言わんばかりに間の抜けた声で戯けてみせる。かと思えば不服そうに口元を歪ませた。
「あのさー、咲ちゃんさー、反政府を掲げているだけならまだ可愛かったのに、こんな風に宣戦布告されちゃあ政府としても君達を追わないと行けなくなっちゃうよー? あんまり仕事増やさないでねー? ただでさえ休み無いんだから」
「だったら転職でもすれば? そうすれば私の顔も見なくて済むでしょ。あとその呼び方やめてくんない? 四咲なんだけど」
「ごめんねー、気を付けるねー。それにしても咲ちゃんは無茶を言うねー。まあいいや、手っ取り早く殺して帰ろー」
首を左右に傾げて関節を鳴らした天笠。量の頬をパチパチと打ち鳴らすように叩いた彼女は、こっちの準備は出来たよと言わんばかりに戦闘への意思を見せる。
「來奈、下がってて」
「でも……この人強いですよ」
「厄介なのは、こう見えて頭がキレるんだよね。でも大丈夫。あんただけに働かせる訳にはいかないから。さっきのガスマスクのお礼。あれが無かったらやばかったからさ」
半ば強引に來奈を下がらせた詩音。そのまま降り頻る雨に弄ばれた髪を掻き上げ、顎を引いて臨戦態勢を取る。天笠との視線間で殺意の押し付けが勃発した。
「さあおいで? 殺っか」
周囲の気温が何かに感化されて急激に下降する。併せて雨が次々と凍結し、鋭利な氷柱となりて降り注ぐ。天笠は面倒な先制攻撃に嘆息しつつも、自身に薄らと魔力を纏うことで氷柱を往なしていた。
「珍しい純黒の氷を使うんだってねー。私との戦いでは一度も見せてないのに、吉瀬っちにはさっき見せたんだってー? 私妬いちゃうかもー」
「情報早過ぎ。思春期の中学生かっての。あと卑怯な吉瀬君に伝言。人を麻痺させる電流なんて二度と使うなと伝えておいてくれる?」
「無理だよー? だって君はここで死ぬから」
両腕を空高く掲げる天笠。動作に応えるようにゼロから形成されゆく巨大な得物。長く捻れた柄の先端に、堅牢で分厚い紅き刃が宿る。華奢な身体で扱うにはあまりにも不釣り合い。敢えて呼称するなら巨斧。身長の二倍ほどの長さを有する巨斧は重量も相応で、天笠の足元が大きく陥没して無数の亀裂が迸った。
「うっそ何それ……初めて見た」
「武器って大きい方が強いよねー」
片手で軽々と振り回される巨斧。その刃先が詩音に向くと同時に天笠が地を蹴った。距離を詰める際、一度振り下ろされた巨斧が地面を抉る。
「やっば……!!」
落石でもあったのかと誤認するほどの衝撃に体勢を崩した詩音は、片手を地に付けると即座に体重を上方へと押し上げる。細い両腕を目いっぱい後方へと引いていた天笠は「呆気ないねー!!」と高々に叫びながら巨斧を振り下ろした。
「なんてね」
到底考えられないような体勢から身体をしならせた詩音。その際放たれた蹴りが巨斧の柄部分を正確に蹴り抜いた。ブーツに宿る湾曲した刃が柄をへし折り、真っ二つになった巨斧が凄まじい音を立てながら地を滑る。雑に捲れ上がった地面から巻き起こる瓦礫の奔流。視線を巨斧から天笠へと向けた詩音は、浮かぶ不敵な笑みを目の当たりにし自身の浅はかさを嘆く。
──まさか、最初からへし折られることを想定していた?
瞬間的に巡らされた思考は、腹部に迸った激痛により終わりを告げる。柔らかい腹部に沈む靴底。お返しと言わんばかりに蹴り抜かれた詩音は、雨水に身体を侵されながら地を滑った。短い静寂を裂く雨の音。一瞬遅れて、來奈が事の行く末を把握して驚愕を見せた。
「次はナナちゃんの番だよ。咲ちゃんは弱いから相手にならないねー」
間の抜けた声でありながら感情には愉悦が宿る。心底面倒臭そうに歩み寄る天笠に対し、ナイフを抜き放とうと太腿に手を這わせる來奈。だが彼女は何かに気付いたのか、行動を静止させるとある一点を正視した。
「天笠さん、お帰りの際は足元にお気を付けて」
「えー?」
瞬間、純黒の氷により形成された罠が作動する。言うなればトラバサミを模した仕掛けであり、鋭利な棘を無数に宿した氷が凄まじい勢いで閉じ切った。辛うじて逃れた天笠。だが完全に回避するには至らない。鮫の大口にでも喰らわれたと錯覚するほどに左腕が抉れていた。その一撃が、今この場における勝敗を大きく傾ける。予想外の反撃に僅かに乱れた天笠の魔力。その隙を逃さまいと、凍結した雨が氷柱となりて牙を剥く。抉れた腕から滲み出す血液が雨に混じって糸のように地を流れた。
「雨だと分が悪いねー」
「まさか、ここまでしておいて逃げる気ですか?」
「違うよナナちゃん。逃げるんじゃなくて退くのー」
所謂、戦略的撤退。嘗めて掛かった天笠の受けた、手痛いしっぺ返しだった。後を追おうと神経を尖らせた來奈は即座に行動の選択肢を変更する。手に取ったのは、追撃ではなく詩音を助ける選択だった。
「四咲さん……!! 大丈夫ですか!?」
「ありがとうナナちゃん……」
「はい、心配して損しました。咲ちゃんはしばらく雨水の天然ベッドで寝ていたらどうです? 私は帰りますが」
「そう言わないで? 撤退させたし私の勝ちでしょ?」
詩音の腹部に触れた來奈。蹴り抜かれたものの分厚い氷が張られており、上手い具合に防御したことを察して胸を撫で下ろす。「まあ、そうですね」と妥協を目一杯に含んだ肯定がされた。
「確かに貴女の言う通り、あの天笠という女性は厄介かもしれませんね」
「でしょ? 嫌らしい戦い方をするの」
「あの巨斧、わざと柄の部分を脆く造っていましたね」
「たぶんね。あれだけ巨大なものをへし折れば、誰だって一瞬は武器へと意識が向く。だから、最初からその一瞬を突くつもりだったと仮定するとほんと嫌らしい」
「まあ……体勢を崩したフリをして、地面に手を付いて罠を仕込むのも同じくらい嫌らしいですけれど」
「あらら。最強の作戦だったのに」
無い胸を張り得意気に紡ぐ詩音は、ふと思い出したように腹部を大袈裟に押さえる。目をバツにして、あろうことか脚までバタつかせて子供のように痛がり始めた。
「わーん、蹴られて痛いよ。來奈姫助けてよ。慰めのチューをしてくれたら治るかもしれないからさ」
「防御したくせに。さっき触った時に分厚い氷が張られているのを確認しましたよ」
「防御しなきゃ良かった」
「だとしても慰めのチューとやらはしません」
作戦失敗と言わんばかりに詩音の口が尖った。「大麻は処分しましたし帰りましょうか」と身を寄せる來奈。暫しの相合傘。傘を叩く雨音が小気味の良い音を立てて弾けていた。
「この出来事が政府にとって大打撃となればいいのだけれど」
「少なくとも違法麻薬の製造は止められたでしょう」
「でもそれなりのリスクも負った」
「リスク……?」
「向かって来たとはいえこれだけの一般人を殺し、そして政府への明確な宣戦布告。來奈、あんたなら身を隠せばまだ間に合うかもしれない。これからは今までと比べ物にならないくらい危険な目に遭う……私と行動を共にしない方がいい」
ため息をついた來奈は傘を投げ捨てる。「え!? 濡れちゃうよ!?」と慌てふためく詩音の頬が強く抓られた。ゴムのように伸びた色白の頬が少し赤くなってしまっている。
「貴女も執拗いですね四咲さん」
「ちょっと!? 痛っ!!」
「貴女は何度言ったら理解するのですか? 私の目的は政府の人間を皆殺しにすること。その為には政府に加担する者も全て殺す。政府が私達を追うようになれば、それはむしろ好都合」
「ごめんなさい」
ようやく解放された詩音は泣きべそをかきながら、赤くなってしまった頬を労うように優しくペチペチと叩いてみせた。
「泣かないで下さい。というか私ってほんと信用されていませんね。すぐに切り捨てようとする」
「違うよ。あんたの身に危険が及んで欲しくなかっただけ」
「仲間に入れてくれると言いましたよね? こういった危険を共に乗り越える存在を仲間と呼ぶのでは? 世間からは政府に牙を剥く悪の権化とでも思われるでしょうが、そんなことはどうだっていい。どんな境遇下であれ仲間は仲間でしょう」
正論中の正論を叩き付けられ言葉に詰まる詩音。ぐうの音も出ないとはまさにこのことであり、諦めたように瞑目した詩音は自身の発言を悔やんだ。
「確かにあんたの言う通り。ごめん……私が間違ってた。これからは全て一緒に背負ってもらう。どんなに辛くてもどんなに重くても……一緒に背負ってもらう」
「はい、喜んで」
傘を拾い上げ再びの相合傘。先程と比べ二人の距離が僅かに縮まっていた。降り頻る雨は未だ収まらず視界を遮っているが、何かが落ちていることに気付いた詩音が足を止める。
「これは……?」
落ちていたのは一枚の写真。詩音が拾い上げ、すぐに身を寄せた來奈が横から覗き込む。
「天笠が落として行ったみたいですね」
そこに映っていたのは二人。面影がある小さい頃の天笠と並ぶのは歳が近いであろう少年。二人とも笑顔で映り込んでおり、幸せな過去であったことが窺える写真だった。
「恋人かな?」
「さあ? そう判断するには情報が少な過ぎます」
「どうしようこれ。一応持っておく?」
「お好きにどうぞ」
興味無さげに踵を返した來奈が濡れないように、詩音が即座に後を追う。一本しか無い傘を器用に取り回しながらも、詩音は懐へと写真をしまいこんだ。民間企業での戦いを通して距離を縮めた二人。重い疲労感が双方を苛むも、互いに濡れないように身を寄せ合うと帰路についた。