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エピローグ


 光陰矢の如しという言葉があるが、五十歳を過ぎてから急激に時間が経つのが早く感じるようになった気がする。

 もしかしたらそれは、身体に限界がきた合図だったのかもしれない。


 数年前から、動悸や激しい胸の痛みを感じるようになった。

 そしてついこの間、私は心臓を締め付けられるような圧迫感に襲われて意識を失い緊急搬送される羽目になった。


 どうやらあまり長くは生きられそうにないな。

 そんな感覚を、この時の私は不思議なくらいすんなり受け入れることができた。


 幸運にも、最初の入院の際には特に大事にはいたらなかった。

 しかしそれ以降も、私は頻繁に心臓の発作を起こすこととなった。


 そしてつい先刻、何度目かの発作に襲われたとき、薄れゆく意識のなかで私ははっきりと自分の死期を悟ったのだった。


 まだ還暦を迎えてもいない身としては、無念さを覚えないわけではなかった。

 しかし人生の重要なイベントはほとんどやり終えたようにも思う。

 息子は無事に成長して社会人になっていたし、すでに結婚して幸せな生活をしている。

 孫の顔も拝むことができた。もう思い残すこともないだろう。


 できればもう少し、その幸せを噛みしめていたかったが。


 今、私は春善町内にある外来病院の一室のベッドに横たわっていた。

 横には搬送に付き添ってくれた妻がいる。

 そして、病室の入り口には息を切らせて立ち尽くす息子の健斗がいた。


 今年で健斗は三十五歳になる。

 都内の大学を出て、春善町に戻り、今は町内の小学校で教鞭を取っている。

 日々が忙しいようだが、私の容態を聞いて病室にすっとんできてくれたようだ。


 「おい、大丈夫なのかよっ。親父!」

 「ついさっき意識が戻ったのよ。あまり大声を出さないようにね」


 健斗が妻と声を交わす。両者ともに声がいつもの調子ではなかった。

 二人ももう、私の寿命がそろそろ終わりそうだということに気付いているのだろう。

 そしておそらくは、今日がその時だとも。


 それから私たちは、三人でぼつぼつとたわいのない会話をした。

 あの時は楽しかったよね、とか。

 あの時はこんなことがあったな、とか。


 話題が切り替わるたびに想い出が蘇り、暖かい時間が病室の中を満たした。


 いつのタイミングで致命的な心臓の発作が起こるか分からない。

 そんな状況にも関わらず、私は穏やかな心持ちになっていく。

 一方で、私は家族に対して父親らしいことをちゃんとできていただろうかと、一抹の不安を覚えていた。


 そんな時、健斗が少し考え込むような顔をして、こんな話を切り出した。


 「今このタイミングで話すことかどうか分からないんやけどさ。俺、ずっと親父に聞いてほしかったことがあるんよなあ」

 「……言ってみな」

 「いや、別に大げさな話じゃないんやけどさ」


 改まった顔をして、健斗は少しはにかんだ。


 「ずっと前の話さ。俺がまだ小学五年……いや、四年だったかな。なんか奇妙な夢を見たんよ」

 「夢?」

 「そう、その夢ってのがさ……ううん、なんて言やぁいいかな」


 夢の内容をどう伝えようか迷うそぶりをしてみせた後、健斗は口を開いた。


 「夢の中で俺は水の中に沈んでいるんだ。水中は真っ暗で息苦しくて、しかも自分の体には誰のかも分からないような長い髪の毛が何本も何本もぐるぐると巻きついてんのさ。それがすごく気持ち悪くてさあ」

 「……健斗。こんなときに気持ち悪い夢の話なんて……」


 妻が健斗を諫めて話を止めようとした。

 だが、私はそれを制止した。

 何故かはわからないが、興味が沸いたのだ。


 「そんでな。どうやら水の中では一年くらい時間が経ってたらしいんだ。俺はずっと『この夢はいつ終わるんだろうな』って考えてるんだけど、これがマジで終わんなくてさ。本当に一年くらい待たされたような気分だったんよ。これやべえなって。もしかして俺すでに死んでねえかって思ったな」


 健斗の話は、まるで臨死体験か何かのようだった。

 だが私の記憶が確かなら、健斗が死に瀕したような経験は一度もなかったはずだ。


 「でもさ。その夢が、あるとき、突然終わったんよ」

 「目が覚めたってこと?」

 

 妻がそう尋ねたが、健斗は首を横に振った。

 そして、話を続けた。


 「なんだかよく分かんねえんだけど、助けてくれたんだ。親父が」

 「……俺が?」

 「そうそう。見上げたら遥か遠くの水面から、親父が水中に飛び込んできたんよ。そっから俺の方をじっと見て、こっちに来ようと水の中で苦しそうに必死に手足を動かしてんのさ」

 

 そう言うと健斗はばたばたと水中でもがく真似をした。


 「そしたら俺に絡みついてた髪の毛が今度は親父の方にも絡み始めてよう。しばらく親父はじたばたと藻掻いて、力尽きそうになったんだ。俺はそれをただ眺めながらやべえやべえって思ってたんだけど、気がついたら今度は髪の毛がなぜか燃え始めてさ」

 「……水中にいるはずじゃなかったのか? 酸素がないのに燃えるわけないだろう」

 「まあそうなんだけど、夢の中だし」 

 

 雑な夢だなあと、妻と私は顔を見合わせてくすくすと笑った。


 「そんな感じで、俺の体を縛っていた髪の毛も全部燃え尽きてさ。俺の体はゆっくりと水面の方に浮き上がっていったんだよ。でも、まるで俺の身代わりみたいに、親父は水底に沈んでいって、浮かんでこなかった。そこで、目が覚めたんだ」


 急に話が終わって、健斗は気まずそうに私と妻の顔を交互に見た。


 夢の結末がまるで私の死で終わっている。

 まさに死を待っている今の私に語って聞かせるには、いささか不謹慎な話だった。

 少なくとも妻はそう言いたげな顔をしている。


 あえてその話を今するからには、健斗なりに何か考えがあるのではないか。

 そんな思いから、私は健斗が何かを言い出すのを待った。

 夢の話は終わっても、健斗の話はまだ終わっていない。そう思ったのだ。


 「で、話は変わるんだけど」


 夢の話はどうなったんだ、と口を挟もうとした。

 だが、健斗の続く言葉に、私も妻も言葉を失った。


 「知らないと思うけど、実は俺、中学生のとき、クラスでいじめにあっててさぁ。結構酷めのやつで、割とマジで死のうと思ったこともあるくらいだった」


 耳を疑った。


 私の思い返す限り、家庭の中で息子にそんな素振りは一切なかった。

 気付かなかっただけなのだとしたら、私は父親失格なのではないか。


 そんな衝撃的なことを、健斗はなんでもないことのように言った。

 妻も突然の衝撃で思わず涙ぐみそうになっている。

 

 「でもさ」


 健斗が明るくふるまいながら、言葉を続ける。


 「何度も何度も、もう死んでやると思うんだけど、でもそのたびに思い出すんよ。さっきの夢の話さ。夢の中で俺は親父に救われて、あの息苦しい水中から解放された。親父が自分の身を顧みず俺を助けてくれた。だから俺は生きているんだって……」


 声が一瞬途切れた。

 泣きそうになっているのか。


 「そうは言うが、夢の話なんだろう?」

 「たしかに夢さ。でも俺にとっては現実にも等しい、虚無に満たされた時間だった。あの夢の中の時間ほど、恐怖と苦しみを味わったことはなかったんよ。だからあの地獄のような夢から救ってくれた親父にはずっと感謝しているんだ」


 恥ずかしそうにそう言われると、まあ悪い気はしない。


 「だからさ。俺は思ったんよ。一度は親父に救われた命を、そう簡単に自分で捨てちゃいけないんやなって。だから死にたくなるたびに俺は、あの時の夢のことを思い出して、自分を奮い立たせてきたんだ。だから今、俺はこうして生きている」


 そういうと、健斗はかしこまって真面目な顔をして、言った。


 「ありがとうな。親父からしたら全然身に覚えもないんやろうけど、俺は本気で親父に人生ごと救われたと思ってるんよ。それを伝えたかったんだ」


 そうか。そうだったのか。


 息子のために何かしてあげられたことなんてあまり無いと思っていた。

 不自由な暮らしこそさせなかったつもりだが、ただそれだけの父親だと自分を評価していた。


 でもどうやら知らないうちに、私は息子の心の支えになれていたらしい。

 健斗の夢の中に登場した私に、現実の私から盛大な感謝を送りたい。


 「こちらこそありがとうな、健斗。もう先は長くないが、お前にそう言ってもらえるとなんだかとても肩の荷が下りたみたいな気分だよ」


 素直な気持ちがすっと口から出た。

 妻も健斗も、目元を滲ませている。


 「ありがとう、親父。育ててくれた恩も、救ってくれた恩も……絶対に、忘れんよ」


 その言葉を聞いて、私は晴れやかな気持ちになった。

 私はそっと、目を閉じる。


 「なあ、健斗。今度はお前が、お前の子供を守ってやれよ。分かるな?」


 健斗は鼻をすすりながら頷く。

 お互いに、残された時間の短さを察していたようだった。


 「俺が死んでもずっと遠いところからお前のことを見守っているよ。だから安心しろ。これからもずっと、お前に何があっても、父さんがお前のことを、絶対に……」


 言葉を伝え終えるかどうかというタイミング。

 そこへきて、無情にも時間切れが訪れる。

 心臓が大きく跳ねたかと錯覚するほどの痛みが、突如この胸を貫いたのだ。


 私は大きく目を見開く。

 そしてそのまま呼吸が苦しくなり、急速に意識を失っていった。


 「あなた!」

 「親父! 親父ぃ!」


 間近にいるはずの妻と健斗の叫び声も、どこか遠く感じられる。


 病室のドアががらっと開き、看護師たちが入室してくるのが伝わってくる振動で分かった。

 私は素人だから分からないが、おそらく延命処置でもしようとしているのだろう。


 もういいよ。

 私は十分に満足した。

 最後の最後で、健斗の気持ちが聞けたからなあ。


 「……お父さんは、最後なんて言っていたの? よく聞こえなかったわ」


 部屋の中が看護師たちのざわめきで騒がしくなる中、妻が健斗に涙声で問いかける声が、なぜだかはっきりと聞こえた。

 健斗は声を絞り出すようにして、妻の問いに答えた。


 「……『助けるぞ』って、そう言ったんだ」


 意識が遠くなる中、私は自分の想いがちゃんと伝わったことを知った。

 不思議な充実感に満たされたまま、私の意識は失われた。


~~~


 生と死の間にある、わずかばかりの隙間。

 

 走馬灯のように、これまでの人生が浮かんでは消えていく。

 意識がないのに、自我がある。そんな不思議な感覚。

 かみさまが与えてくれた、最期の瞬間。


 その中で私は、埋もれていた記憶の欠片を見つける。


 ――なるほどなあ。健斗の夢ってのは、これのことだったんだな。


 それは存在しないはずの記憶。

 それはこの世界においては、なかったはずの出来事。

 それは言霊の力が引き起こした、神隠しにまつわる、封印された事件だった。


 私は夢ではなく現実に健斗を救っていた。

 どうやらこの世から抹消されたはずの記憶が、なぜか健斗の中で夢として残っていたということらしい。


 そしてその夢が健斗の人生を何度も救ってくれたのは、もしかしたらあの時私が口にして神隠しを討ち倒した、言霊の力なのかもしれなかった。

 そうじゃないかもしれないけれど、そう思うことに決めた。


 死の感覚がすぐそこまできていた。

 私はそっと、健斗の未来を思った。


 忘れんよ、と健斗は言った。

 助けるぞ、と私は言った。


 人生の最後に、互いに伝え合ったその言葉は、偶然にも韻を踏んでいる。

 だからきっとその言霊は共鳴して、健斗の人生を支える力となるだろう。

 今ならそれを、一点の曇りもなく信じられる。


 やがて辺り一面が真っ白な光に包まれた。

 私の存在が光に飲み込まれ、完全に消滅しようとしていた。


 意識が終わる。

 命が終わる。

 それでも最期に、言葉だけは残すことができた。


 それだけで十分であることを願った。



<了>

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