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後編

#亞#


 佐々木が水中に連れ去られてしまった。


 このまま佐々木は溺れて死ぬのだろうか。

 それとも水底ではなく、異界に引きずり込まれたのだろうか。

 その違いは、私にはよく分からない。


 隠れなければならない。

 頭の中の冷静な部分で、私が私に指令を発する。

 佐々木が言っていたじゃあないか。

 隠れて黙っていれば、神隠しは私を見つけられないと。


 隠れるならば、階段を上がるほかない。

 今いるフロアは全て水没している。

 上のフロアに行けば、いくつかの部屋があったはずだ。

 もしかしたら、隠れやすい場所が見つかるかもしれない。


 そこまで理解していながら、私は一歩もその場を動けなかった。

 頭の中では懸命に逃げようとしているのに、体はまるで凍りついたようにぴくりともしない。

 おい、動けよ。かくれんぼはもう、始まっているんだぞ。

 自分自身に毒づいてみても、無意味だった。


 私はただぼうっとして、静かな水面を眺めていた。

 その位置から視界に入る廃墟内の光景は相変わらず美しいままだった。

 大きな窓枠から入り込む月の光が水の揺らめきに反射する様は、幻想の世界のようだ。


 その現実離れした光景のせいだろうか。

 脳みそはやがて目の前の現実から逃避を始める。


 そうとも。私は実のところ、神隠しとやらの実体をこの目で見たわけではない。

 ボートがどこかに消え、佐々木もおそらく水底に消えた。

 でもそれが神隠しの仕業とは限らないではないか。

 佐々木がもっともらしく語った言霊に関する諸々のせいで、そう思い込まされているだけだ。


 佐々木が消えたのは事故だ。自分で足を踏み外したんだ。

 ボートが消えたのも佐々木の係留ミスのせいだ。

 神隠しなんて存在しないし、押韻の共鳴なんてのもただのこじつけだ。


 だから私はただこのまま何も考えず、泳いでダム湖の入り口に戻ろう。

 そして警察に事情を説明して、佐々木の遺体を探してもらって。

 あとは日常に戻るんだ。妻のいる、いつもの日常に。


 健斗のいない日常に。


 その瞬間。

 私の中で煮え滾るような感情が湧き上がってくるのと。

 水面から大きな波音とともに、なにかが飛び出してきたのは。

 ほぼ同時だったと思う。


 ぐちゃぐちゃに乱れた毛糸の玉か。

 あるいはもつれにもつれて海辺に棄てられた釣り糸か。

 適切な例えが思いつかない、名状しがたい物体が水面にぬらりと現れた。


 水を滴らせながら、その物体はゆっくりとこちらに近づいてくる。

 見たままを言うならば、それは私の身長の二倍ほどもある、巨大な髪の毛の塊だった。


 髪の毛とヘドロがまじりあったそれは、一つの塊に手足にも触手にも見える突起物がくっついた形をしていて、さながら顔のない泥人形のような形態を取っていた。


 人形と例えてみたが、手足の数は人間のそれとはまるで異なる。

 顔も目もないのだが、相手に「見られている」感触が確かに私の中にあった。


 もしここに妻が同行していたら、恐怖のあまり卒倒していたに違いない。

 私もまた、衝撃のあまりしばらく思考が止まってしまっていた。

 神隠しという言葉だけの概念がこの世に形を伴ったら、これほどまでに悍ましいものなのか。


 「あう、えん、おぉ」


 声がした。

 この世のものとも思えない、怖気のする音。


 耳が嫌がる波長が含まれているのではないかと思わせる極端な高音と、腹の底に響いてくるような極端な低音が混ざり合ったような、自然界に存在しない音。

 目の前の化物に口があるとも思えなかったが、その声ははっきりと私の耳に届いた。


 呼ばれている、のか?

 耳にまとわりつくその声に顔をしかめつつ、そんなことを思う。

 神隠しに声をかけられても返事をしてはいけないと、佐々木は言っていた。


 「あ、うえ、んおぉ」


 再び声がした。

 神隠しは私の目の前に来ていた。

 気が付くといつのまにか私の脚に夥しい量の髪の毛が巻きついている。


 すでに私は捕まってしまっているのだと理解した。 

 もうどこかに隠れることも叶わない。


 いや、実のところを言うならば。

 この禍々しい化け物を目にした瞬間から。

 隠れよう、などという気持ちは、私の中から失われていた。


 「あう、えん、お」


 三度目の耳障りな声が、引き金となった。


 私は化物に目掛けて、助走なしの全身全霊で飛び掛かっていた。

 狂気に駆られたわけではない。血迷ったわけでもない。

 心の奥底の感情が、そうさせた。


 このまま逃げ出して無事に家に帰れたとして?

 何事もなく、日常に戻れたとして?

 健斗がいない虚無の日々に自分は耐えられるのか?


 今、目の前にすべての元凶がいるのに?

 

 「あうえんお!」

 「助けるぞっ!! 健斗ぉぉ!!!」


 髪の毛の塊がクッションのように私の体を受け止めた。

 髪にへばり付いたヘドロの臭いが鼻を刺し、思わず吐き気を催す。


 妙案があるわけではない。勝算があるわけではない。

 それでも私は、神隠しに必死にしがみついた。

 殴りつけ、髪の毛を引っ張り、引きちぎる。

 そんな行為を左右の手でがむしゃらに交互に繰り返す。


 すでに恐怖はほとんどなかった。

 確かに相手は見るも悍ましい異形の怪物だ。

 だが一度姿を目にしてしまえば、案外こんなものかと感じるものだ。


 恐怖の根源は未知。

 神隠しが自分から姿を表したことでそれは未知ではなくなり、逆に私は恐怖から解放されていた。

 あるのは子供を奪われた憎しみだけだ。


 こんなやり方で神隠しを討ち倒せるのか、とか。

 討ち倒したところで、それで本当に健斗を取り戻せるのか、とか。

 そんな疑問は頭の片隅に追いやった。佐々木はそこまで教えてくれなかった。


 だが他にやれることも思い当たらない以上、やれることをやるしかない。


 所詮はヘドロと髪の毛の集合体。

 案外と柔く脆いようで、次第に神隠しの体は少しずつ縮んでいく。

 やぶれかぶれの行動だったが、この怪異には物理的な攻撃が明らかに効いていた。

 ならばこのまま押し切るだけだ。


 そのまましばらく私は神隠しにしがみついて水上でもがいていた。

 しかしついに髪の毛の力では支えられなくなったのか、ほどなくして水中に落下した。


 どばしゃん、という大きな波音が一瞬聞こえたが、すぐに遠ざかる。

 私の体は水の底へとゆっくり沈んでいった。


 息が出来ない苦しみと、目に水が入る痛みに耐えながら、私は神隠しを目で追った。

 髪の毛の塊はこちらをゆっくりと追いかけてきている。

 先ほどタックルをぶちかました際に、私に絡みついた髪の毛の量はさらに多くなっていた。


 「……!?」

 

 水中を蛇行するように迫りくる神隠しを見て、私は驚愕した。

 最悪なことに、神隠しの体は初めて見たときよりも一回りほど大きくなっていた。

 さっき引きちぎってやった部分が再びくっついたのか、それとも最初から水中の見えない部分にあれだけの質量が収まっていたのか。

 別個体、なんてことだけはあってほしくない。


 息継ぎのために、一度水面から顔を出すべきか。

 しかし神隠しを振り切って、はたしてそれができるだろうか。

 とはいえ、私の肺活量はすでに限界に近付いている。


 その時。

 水中が急に暗くなった。

 その理由はすぐに分かった。

 いつのまにか水面一帯を夥しい量の髪の毛が覆っている。

 おおかた、私が息継ぎのために一度水面に近づくと読んで、先手の罠を仕掛けたといったところか。


 退路は塞がれた。

 明らかに私を殺す気だ。

 怪異のくせに、やり口が随分と物理的だ。


 このままでは逃げることもできず、私は溺れ死んでしまう。

 すでに私の体はどんどん沈み、水面から遠ざかっている。

 おそらく今、私は発電所跡の一階の位置まで来ているだろう。


 決断しなければ。

 残された時間で、なにができるか。


 水上を見上げても、迫りくる神隠しが目に映るだけ。

 絶望しかない。

 ならば、水底には何がある?


 水中で体をなんとか反転させ、私は真下に視線を向けた。

 ただでさえ夜で暗いうえに、水中を漂う泥や水草のせいで視界が極めて悪い。


 そんななかで、私の目はあるものを捉えていた。

 それは沈んだボートの残骸だった。


 船体やモーター部位に大量の髪の毛が絡まり、船体はねじ切れたように折られている。  

 やはりボートが消えたのも、神隠しの仕業だったのだろう。


 船体にまとわりついた髪の毛には、ボートに積まれていた備品がいくつか絡まっていた。

 操作マニュアル、救命胴衣、その他いろいろなもの。

 それらのなかに私は、「それ」を見つけた。


 その瞬間、閃きがあった。

 それは、酸素を失いつつある脳みそがはじき出した、希望的観測だったのかもしれない。

 しかしこの追いつめられた局面で、私はそれに賭けた。


 水底の終着点へと潜るため、もがくようにして手足を動かした。

 そしてようやく沈没したボートに接近した私は、無我夢中で「それ」に手を伸ばす。

 そろそろ本当に限界が近い。


 私の手は水をかき分けて「それ」を掴み取り――次の瞬間、私の体に大きな衝撃が走った。


 「!?」


 神隠しだ。

 巨大な髪の毛の塊が、私に追いついて体当たりを喰らわせたのだ。

 直接に攻撃らしきものを受けたのはこの時が初めてだったと思う。

 不意討ちに油断した私は、肺の中にわずかに残っていた空気をほとんど吐き出してしまった。


 髪の毛が私の首や腕に触手のように巻きついてきた。

 もはや完全に捕まってしまっていて、水中ではふりほどく力も残っていない。

 さながら私は蜘蛛の巣に絡めとられた羽虫だった。


 完全に逃げの選択肢を失った私の目の前に、神隠しが接近する。

 髪の毛が水中にぶわぁっと羽を広げたように広がった。

 私の体を飲み込もうとしているかのように。


 意識を失いかけている私の視界を、蠢く無数の髪の毛が覆いつくす。


 それは目と鼻の距離。

 それは生と死の距離。


 そして、私にとって唯一の勝機だった。


 瞬間。

 水中に、炎が生まれた。


 「ああああああぃ!!??」


 水の中で、化け物の悍ましい絶叫がよく響く。

 私を捉えていた無数の髪の毛が一斉に拘束を緩めた。

 神隠しが、燃えていた。


 化け物のくせにパニックになったのか、神隠しは水上へと猛スピードで上がっていく。

 薄れる意識の中、私は一矢報いたことに満足感を覚えていた。


 私はここで溺死するのだろう。

 でも、もしかしたら。

 もしも運が私に味方してくれたなら。

 神隠しは今の攻撃で、やられてくれるかもしれない。

 そうなれば、健斗はこの世に戻ってくるのかもしれなかった。


 そしてその結末は、不思議と確信をもって信じられた。


###


 「……か? 大丈夫ですかあ?」


 聞き覚えのある声がした。

 つい最近会ったばかりの人間の声。

 急激に意識が戻ってくる。


 はっとして、私は慌ててがばっと起き上がった。

 生きていた。

 私は、生きていた。


 辺りを見渡す。

 ここは廃墟内の階段の踊り場だった。

 三階と四階の間。

 下に視線を向ければ先ほど私が沈んでいたはずの水面が見える。


 「結構無茶してましたねえ、波豆さん。まあ私の作戦通りですけども」


 びしょ濡れになった佐々木が呑気に声をかけてくる。

 なんで生きているんだと聞こうとして、やめた。


 私が水底に沈んだとき、そういえば佐々木を見かけなかった。

 きっとこいつはこいつなりに何らかの方法で脱出して、隠れていたのだ。

 それが神隠しに対する正しい対処法だから。


 色々聞きたいことはあった。

 佐々木が私を助けてくれたのか、とか。

 あれからどのくらいの時間が経ったのか、とか。

 だが、一番重要なのは。


 「神隠しは、どうなったんだ!?」


 そう言った直後、私はごほごほと咳き込んだ。

 肺にまだ水が入っていたようだ。


 「神隠しは、この世での依り代を失って異界へと逃げ帰りました。派手に燃えましたからね」

 「……逃げた?」


 そうおそるおそる聞き返すと、佐々木は私の欲しい答えをくれた。


 「神隠しはなかったことになります。健斗くんは戻ってきますよ」


 ぶわっと、全身から力が抜け、私は再び仰向けに寝転んだ。

 やった。やったのだ。

 私は神隠しを倒したのだ。


 「それにしても、波豆さんの働きは期待以上でしたねえ。もしかして、ちゃんと理解してやっていたんですか?」

 「……理解って、なんのことだ?」

 「ああ、やっぱり分かってなかったんですね。いや、だからこそ、成功したのかも?」

 

 佐々木は自分一人で納得したようにうんうんと頷いている。

 その態度が癪に触ったので、俺は抗議の気持ちを込めつつ吐き捨てた。


 「君はさっき、作戦通りとか言ってたな。最初から私をあの化け物と戦わせる気だったのか?」

 「そうですよお」


 全く悪びれずに佐々木は笑う。

 それがあまりに堂々としていて、こちらも苦笑するしかなかった。

 寝ころんだ状態のまま、私は佐々木へと悪態を投げかかる。


 「霊能探偵のくせに、依頼人に戦わせるってのはどういう了見なんだ」

 「私にはああいうのと戦う力はないですよお。私はあくまで導くだけです」

 「それにしても事前に攻略法なりなんなり教えてくれてもいいだろう」

 「それは無理ですよ。だってそうしてしまったら、偶然性が失われますから」


 偶然性。

 昨日、そういった話を佐々木から聞いたような気もする。


 「言霊の力は、人為的に狙って扱うことはできません。波豆さんが対処法をあらかじめ知って準備してしまうと逆効果だったんです。知らなければ偶然性は保たれますし、自分で気付いたとしてもあの状況なら即興性の範疇に収まりますからね」

 「……ということは、知らず知らずのうちに私はなにかをしていたのか?」


 佐々木は頷いた。


 「今回波豆さんの勝因となった行動は三つあります」

 「三つもあるのか」

 

 佐々木が指を三本立てて見せた。

 三つの勝因。

 そのうち一つには心当たりがあった。

 決死の局面で気付いた、即興のアイディアだった。


 「一つ目。私は神隠しに対しては隠れろと言いましたよね。声を掛けられても返事をするなとも言いました。でも波豆さんはそれを守らなかった」


 確かにそうだった。

 あの時は恐怖のためか体が動かず、逃げることすらできなかった。

 神隠しが姿を表すまで、私は想像上の恐怖に縛られていた。


 そういえばあの場面の時には佐々木は水中に引きずり込まれていたはずだが、なぜ知っているんだろうか。

 あの時点ですでに神隠しの拘束から脱出していたということか。 


 「……でもそれが正解だったんです。波豆さんがあの時隠れていれば、この廃墟でかくれんぼが始まったことになってしまう。そうなれば新しい神隠しが始まって、波豆さんを簡単に異界に引きずり込むことができた。ですが波豆さんがかくれんぼをしなかったことで、神隠しは物理的な干渉しかできなくなっていたんですよ。それどころかかくれんぼを否定したことで、神隠しは弱体化していたようですね」


 言ってみればゲームのデバフみたいなものですね、と佐々木は付け足した。

 デバフがなんなのか、私にはよく分からなかった。


 「二つ目。神隠しの呼びかけに対して、波豆さんは返事をしましたよね。その時、何を思って、なんて言いましたか?」


 その質問の状況を、すぐには思い出せなかった。

 確かにあのとき何かを言った気がする。

 恐怖で身が震えて、逃げ出したくて。

 それでも、健斗のことを考えたら、不思議と湧き上がってきた、あの気持ち。


 それを思い出して、冷静に考えたとき、私は佐々木が言いたいことを理解して思わず噴き出してしまった。

 そういうことか。なんともしょうもない。


 「『助けるぞ』……か」


 息子を想って、つい口を突いて出た、その五文字の言葉。

 感情と決意と行動が一つになった、あの言葉。

 それは、「かくれんぼ」と押韻できる言葉でもある。


 「そう。あの状況で親の愛から放たれた『助けるぞ』は、『かくれんぼ』と共鳴している言霊をそっくりそのまま奪い去る威力がありました。押韻の力を得た『助けるぞ』の言霊は、必ず現実のものとなる……それこそが、私がもともと考えていたこちら側の勝機だったんです。まあわざわざ口に出さなくても、子供を助けたいと想う気持ちがあるだけで十分だったんですけど、結局は決め手になりましたね」

 「人の決意を必殺技みたいに言うな」


 その説明に私は脱力した。

 要するに、子供を助けたいという親であれば、誰でも神隠しに勝てたということになる。

 逆に私があの場面で子供を諦めて逃げ出す親であれば、佐々木の賭けは外れたのだろう。

 まるでギャンブル。およそ探偵のやり方ではない。


 素人の私を連れまわし、事前説明もなく神隠しに引き合わせたのは最初からこれが狙いだったらしい。


 「三つ目は私も予想外だったんで、正直びっくりしました。初めてみましたよ。水中でも物が燃えることがあるんですねえ」

 「成功するかは賭けだったけど、あの時は他に選択肢がなかったんだ。でもいけるかもしれないとは思っていたよ。君の言う押韻の力ってのが実在するならな」 


 私の言葉に、佐々木は一本取られたような顔をして大笑いした。


 あの時。

 神隠しに完全に捕まって、水中で溺れ死ぬ寸前の私を救ったもの。

 酸素のない水中で、神隠しに火をつけたもの。


 「発炎筒」


 使用すると激しく鮮やかな炎を発する筒。

 主に緊急時や救難時の際に、周囲に自分の居場所を知らせるための道具。

 自動車や船舶に装備されることが多いそれは、ものによっては水中でも引火する。


 神隠しに捕まる直前、私は沈んだボートに備品として積まれていた発炎筒を見つけ、なんとか掴むことに成功していた。

 それが水中で使えるタイプかどうかは分からなかったし、科学的に考えて水中の炎が髪の毛に燃え移るものなのかどうかは全く自信がなかった。

 仮に神隠しに着火することができたとして、それが相手に効くかどうかも不明だった。

 だから発炎筒を使った攻撃は、現実的に考えれば相当無茶な賭けだったと思う。

 

 それでも私は、発炎筒が切り札になると直感していた。

 「発炎筒」は、「かくれんぼ」で押韻できるからだ。


 あの時、偶然目にした発炎筒を見た私は、即座にその符合に運良く気付いた。

 あの局面で逆転の目があるとしたら、これしかないという確信があった。

 あの局面を打開できるとしたら、言霊の力以外にありえなかった。


 結局のところ、私はあの瞬間、押韻の力を信じていたということだろう。

 それはつまり、佐々木を信じていたということでもあるかもしれない。


 「とはいえ、偶然にしては出来過ぎだな。本当に神隠しを水中で燃やせるとは思わなかった」

 「きっと言霊の共鳴によって霊的な力を得た発炎筒は、その言葉通り必ず炎を発する筒になっていたんでしょう。ですから水中だろうが酸素がなかろうが、波豆さんの発炎筒は絶対に引火したし、神隠しにも効果があったんだと思います」


 そういうものなのか、と私は深く考えずに頷いた。

 まだ頭がぼんやりとして上手く働かない。溺れかけたのだから当然だろう。


 「ところで、私たちは神隠しを倒したんだよな? だったら健斗はどうなった? 姿が見えないが近くにいるのか?」

 「ああ、それはですねえ……そろそろです」


 佐々木がそう言い終わるかどうか、というタイミングで。

 急激な睡魔が、突然私を襲った。


 「……おい、なんだか、急に眠気が……どうなってる?」


 さっきからずっと横になっていたからか。

 あるいは水中にずっと潜っていた反動だろうか。

 そう考えて、すぐに違うらしいと分かった。

 ぼんやりと薄れていく視界の奥で、佐々木が私を見下ろしている。


 「時空が修正されるんですよ」

 「……ああ?」


 とんでもないことを佐々木が言い出した。

 だがここに来てそれが冗談だとも世迷言だとも私は思わなかった。

 その先の言葉を聞くため、私は眠気になんとか抗う。


 「波豆さんのおかげで今回の神隠しはこの世から消え去りました。分かりますか? なかったことになるんですよ。神隠しが」

 「なかった、ことに……?」

 「そう。健斗くんは失踪しなかった。そういう風にこれから世界が書き換わるんです。健斗くんが何事もなかったかのように平穏に暮らす、本来あるべき世界へと。まあ、書き換わったあとはこの一年間の記憶もすべて修正されちゃうんで、この神隠しの一件を波豆さんは忘れることになるんですけど、別にいいですよねえ?」


 世界が書き換わる。

 健斗の失踪も、私や妻の悲しみも、目の前のこいつとの出会いも。

 すべてがなかったことになる。

 そして、失われた私たち一家の日常が、戻ってくる。


 「今凄く眠たいでしょう? 次に目が覚めたら、健斗くんのいる日常に戻っていますから安心してくださいね」

 「……そうか。それはなによりだ」

 「残念ながら波豆さんは私のことも忘れちゃうんで、今回の成功報酬はもらえないですねえ。まあ最初から分かってましたけど。私としては核戦争を回避するのが目的ですから問題なしです」


 そういえばそんなことも言っていたな、と私はぼんやり思った。

 振り返れば佐々木は、最初から最後まで言うことが怪しげなやつだった。

 神隠しを倒すために働いたのも、ほとんど私じゃないかと思う。


 それでも、彼女が昨日我が家にやってこなかったら、私は今ここにいないはずだ。

 最終的には佐々木の導きあってのこの結末なのだろう。


 眠気の限界がもうすぐそこまで来ていた。

 次に起きたときには、私は佐々木のことを覚えていまい。

 だから、これだけは伝えておこうと思った。


 「……ありがとう」 


 それだけ口にして、私はすっと目を閉じた。

 言い逃げのような恰好ではあるが、事実、もう意識が遠のき始めていた。


 瞼の向こうで、佐々木が微笑む気配を感じる。


 「こちらこそ」


 その言葉が耳に届くのを最後に、私は完全に睡眠に落ちていった。


 意識の片隅で、世界が変わる音がした。

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