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中編


 日曜日。

 自称探偵の佐々木が我が家にやってきた翌日。


 私たちは今、休日を利用して春善ダム湖付近まで来ていた。


 結局のところ、佐々木の目的は健斗を見つけ出すことでも、それによる謝礼を受け取ることでもなく、未来の核戦争を回避するためだということらしかった。

 話が突飛かつ壮大すぎて、深く追求するつもりにもなれない。


 ただのかくれんぼが核戦争のトリガーになるなんて、あまりに飛躍しすぎている。

 だがその飛躍こそが、言葉の跳躍力の恐ろしさなのだと佐々木は語った。

 私には質の悪い駄洒落にしか思えなかったが。


 「だから私はかくれんぼ絡みの失踪事件が日本のどこかで起こったら、必ず首を突っ込むことにしてるんですよ。放置すると百年後に核戦争が起きる可能性がありますからねえ」


 そんなことを佐々木は、水面をバックにして語る。

 天候に恵まれた空の下、向こう側に見えるダム湖がきらきらと輝いている。


 ここにわざわざ足を運んだ名目は、一応現地調査だった。

 春善ダム湖はかつて健斗が失踪した場所で、佐々木に言わせれば神隠しの舞台である。


 実のところ神隠しなんてものが本当に起こったのかどうかについては、佐々木自身にとってもまだ半信半疑のようだった。

 彼女はあくまで手持ちの情報から、押韻の共鳴が発生した可能性を指摘しているだけということらしい。

 だが佐々木にとっては単なる可能性であっても看過できないらしく、まずは現地を実際に目で見て情報を集めたいとのことだった。


 妻は家で留守番しており、今の私は佐々木と二人きりだった。

 別に神隠しを信じたわけではないが、現地調査には興味があった。


 失踪当時の警察は二次遭難などの懸念から、私がダム湖周辺の捜索に同行することを許可しなかった。

 だから私はダム湖を実際にこの目で見たことはなかった。


 昨夜はどこかのホテルに泊まったらしい佐々木は、今日も昨日と同じ山ガールのような服装をしていた。

 木や山肌、水辺に囲まれたこの場所の風景に見事に溶け込んでいる。

 私たちが今立っているのは、ダム湖の手前にある河川だった。


 時刻は午後の一時過ぎ。

 休日ということもあってか大勢の釣り人がひしめき合って釣り糸を投げ込んでいる。


 そこはいわゆるバックウォーターと呼ばれる、河川がちょうどダム湖に流れ込むエリアだった。

 このポイントでは水が活発に流れるため酸素が十分に満ちており、上流から虫や小魚が集まってきやすい。そのためブラックバスにとっては楽園のような場所であり、それを狙う釣り人たちにとっても人気のスポットになっていた。


 そこから舗装された山道を少しばかり歩くと、お目当てのダム湖に到着する。

 ここもまた大勢の釣り人や家族連れで賑わっていた。

 小さな釣具店のような小屋があり、そこで遊漁料を払えば釣りができるシステムのようだ。


 ダム湖は一応遊泳禁止となっていて、湖を見張る監視小屋のような建物もある。


 湖上にはボートに乗った釣り人がちらほらいて、あれは大丈夫なのかと思ったが、見回すとちゃんと貸しボート屋があるので、管理者公認のレジャーなのだろう。


 私のような一般人がダムと聞いてまず思い浮かべるのは、上部に大量の水を貯蓄した壁のような建造物なのだが、それはダムの下流側から見た景色だ。

 今いる場所は反対側の上流なので、そのような景色は見ることができない。


 代わりに視界いっぱいに飛び込んでくるのは、陽の光を反射してエメラルドグリーンに輝く水面だった。

 もう少し濁った水質を想像していたが、素人目に見てかなり綺麗である。

 遠くの湖のほとりは土や岩で出来た崖になっていて、その上はちょっとした山林になっている。


 飛び込んでくる景色は町中ではなかなか見られない大自然といった風情で、集まっている人々も実に悠々と楽しそうにしていた。

 本当にこんな場所で神隠しのようなオカルト現象が起きたというのか、改めて私は訝しんだ。


 「見てください、波豆さん。ここのダムってカスケード方式って言うんですって。斜面で放水するんじゃなくて、階段状に設置されたダムを使って段階的に放水することで、水の勢いや量をコントロールして下流市街地の洪水被害を防ぐんですって!」


 どこかからもらってきたのか、春善ダムのパンフレットらしきものを片手に佐々木がはしゃいだ。

 現地調査などと言っているが、服装も相まって遊びに来ただけのように見える。


 「なるほどなるほど。『カスケード』も『かくれんぼ』で韻が踏める言葉ですねえ」


 どうやら佐々木の興味は、ダム湖周辺に押韻可能なものがあるかどうからしい。

 現場付近にある言霊の数が多いほど、神隠しが起きた可能性がより高まるという理屈だ。


 「カスケードの母音は『あうええお』じゃないのか? かくれんぼと踏めてない気がするが?」

 「ふふふ。『ん』の音と延ばし棒の『ー』は押韻においては結構柔軟に捉えていいんですよ」


 佐々木いわく、「ん」は発音の響きが似ていれば他の母音と同等に扱っても良いらしい。

 カスケードとかくれんぼは、比較的発音が似ているからセーフだという。

 このあたりは流派によっては押韻として認めない者もいるらしい。

 何の流派かは知らないが。


 「それにしても、思ったよりかなり広々としているな。どこから調査するんだ?」

 「ええとですねえ。本当はカスケード方式のダム施設とやらが言霊的に怪しいんですけど、どうやら一般人は立ち入りできないみたいです」

 「まあダム施設あたりはさすがに小学生じゃ侵入できなかっただろうな。警察もその可能性はないと断言していたよ」

 「そうですねえ。とりあえず、あそこの林を散策しましょうか」


 佐々木が指差したのは、湖のほとりを数分ほど歩けばたどり着く山林地帯だった。


 「昨日のうちに健斗くんのお友だちに話を聞きました。いつもあの辺でかくれんぼしていたみたいですよ」


 どうやら佐々木なりに私の知らないところで探偵らしい活動をしていたようだ。

 他に優先して探すべきところも思い当たらない。

 失踪日の健斗の足跡を辿るため、私たちは山林に入ることにした。


 山林地帯の足場は悪く、三十代半ばの私にとっては辛い散策となった。

 ところどころ斜面になっていたり、踏みしめた小石が崩れたりして、私は何度も足元を踏み外しそうになる。

 佐々木はそれを見て豪快に笑っていた。失礼な奴だ。


 しかし疲労でふらふらになりながらも思うのは、この程度の地形で足を滑らせたところで湖まで滑落するなんてことは考えづらいということだった。

 よほど水辺際の崖に身を乗り出さない限りは。


 水辺際は危険なだけでなく、隠れる場所や逃げ場が少ない。

 それに鬼役が水辺際に立って見渡せば、簡単に見つかってしまう。

 かくれんぼという遊びの中で、あえて水辺際に近寄るメリットはなさそうに思えた。


 現場を見てまわるにつれ、湖への滑落の可能性は私の中で低くなっていく。

 あとは佐々木がなにか見つけてくれればいいのだが。 


 しかし、一時間経っても三時間経っても、手掛かりはなにも見つからなかった。

 私からすれば、警察が見つけられなかった新たな手掛かりをそう簡単に見つけられるとは思っていなかった。

 オカルト目線で探索する佐々木の方にも特段の発見はなさそうだった。


 呼吸が乱れ、ただ疲労だけが積み重なっていく。

 すでに陽が落ちそうな時間になっていた。

 

 「これ以上の散策は難しいですねえ。もう暗くなってきましたよお」


 私とは対照的に息一つ乱していない佐々木が、捜索打ち切りを提言する。

 たしかに私たちは随分と山林の奥まで来てしまっている。

 まだまだ先に進むことはできなくもないが、夜に山中を探索するのは危険だ。


 そろそろ引き返した方がいいだろう。

 最短距離で突っ切れば二十分もかからず林を出られるはずだ。


 そう思った私はもと来た道を振り返ろうとして。

 水平に回転する己の視界の端に、妙なものを捉えた。


 「……あれはなんだ?」


 そんな疑問が自然と口からぽろっと出た。 

 私が指差した先に佐々木が注目する。


 水辺際の先に広がるのは、夕陽を反射する美しい湖面。

 その対岸の手前に、それは存在した。


 「なんでしょうねえ。何かの建物に見えますけど」

 「それはそうなんだが……あれ、湖に沈んでないか?」


 私の問いに佐々木も頷く。やはりそう見えるらしい。


 それは、真四角の箱のようなコンクリートの建物だった。

 もともと灰色だったと思わしき外壁は、かなり老朽化しているらしくところどころ黒く変色していた。


 外壁に規則正しくぽっかりと空いた四角い穴はおそらく元々は窓が嵌められていたのだろう。

 窓穴は見えている範囲で階層ごとに七つあり、それが縦に二列になっている。

 そして下側の窓穴の途中くらいの高さまでを、湖の水面が覆っていた。


 水深を考えれば、少なくとも四階建てくらいの高さがありそうだった。

 あの様子では建物の内部も水で浸っているのは間違いない。


 建物内部の様子は暗がりになっており、窓穴からはうかがい知れない。

 いくつかの窓穴からは何かの植物の枝葉が顔を出しており、内部の荒廃を想像させた。


 対岸と建物の距離はそこそこ離れており、人が歩いて渡れるような橋も今立っている場所からは見受けられない。

 総合的に考えれば、誰かが住んだり立ち入りできるような建物ではないだろう。

 つまりあれは、廃墟に違いなかった。


 もともとは何の施設だったのだろう。

 コンクリート造りの四角い見かけから、第一印象では学校か病院、あるいは何かの工場あたりが想像された。


 「多分、この場所がダム湖になる前からあの建物があったんでしょうねえ。それが撤去されないまま水に沈んでしまったんでしょう」


 佐々木が見たまんまの推測を口にした。

 私もその言葉に反論はない。ただ、廃墟の異様な雰囲気に呑まれていた。

 同時に、なにかが心の中に引っかかっている。


 「あのさ……あの廃墟に健斗が侵入したってことはないかな?」

 「分かりません。あの建物の中で神隠しが起こった可能性もあります。でも、あそこに入るには頑張って泳ぐかボートにでも乗らないと無理じゃないですか? 小学生だったらああいう場所についつい入ってみたくなるかもしれませんけど……」


 佐々木が常識的な返事をした。

 廃墟に最も近い畔はかなりの高さのある崖になっていて、その上はこちら側よりも木々が鬱蒼と茂った森になっている。

 あちら側の森に侵入できそうなルートは、ダム湖入口付近にはなかった。


 つまり泳ぐにしてもボートを使うにしても、こちら側の岸から結構な距離を経由しないとあの廃墟に辿り着くことはできないように思われた。


 「まああの建物がなんなのかについては、帰り道でボート屋さんにでも聞いてみましょうよ。もしかしたらいわくつきの幽霊屋敷かもしれませんしねえ」

 「幽霊屋敷だったら、あそこが神隠しの起きた場所ってことになるのか?」

 「どうでしょう。私の専門は言霊なので、幽霊はちょっと信じてないですけど……」


 佐々木は小さく笑いながらそんなことを言った。

 私にしてみれば言霊なんかよりも幽霊の方がまだ信じられると思うのだが、それは口には出さなかった。


 もと来た道をさっさと引き返して、ダム湖入口に戻ってきたのは午後五時半頃だった。

 辺りは大分暗くなりかけており、昼間は大勢いたレジャー客は数人の釣り人を残してほとんどいなくなっている。

 さっさと一人でボート屋に向かった佐々木を、私は息切れしながら追いかけた。


 「おじさん、向こうの方で水没した建物を見かけたんですけど、あれって何ですか?」

 「おう、お嬢ちゃん。あれが気になるのかい?」


 佐々木の唐突な質問に、店主と思わしき男が朗らかに応対した。


 「気になるなら、ボートを使ってあそこに行ってみたらどうだい? うちのボートなら三十分あれば往復できる。建物内は水没しているけど、けっこう魚がいるらしくて釣り人たちの間では隠れた名所みたいになってるよ。たまに地元の子供たちも入り込んでるみたいだしな」


 店主の口ぶりからすると、あの廃墟は特段いわくつきの建物というわけではないらしい。

 侵入禁止ですらなさそうなので、おそらく本当に単なる廃墟なのだろう。

 もう少しオカルティックな話のひとつでも聞けるかと思っていた私は拍子抜けした。


 「子供たちも入り込んでるって……このお店では子供にもボートを貸し出すんですか?」


 私が口を挟むと、店長は少し慌てつつもそれに答える。


 「いやいやいや、うちは保護者同伴じゃないと未成年には貸さないよ。多分あの悪ガキどもは近場の岸から泳いでるんじゃないかなあ? 建前では遊泳禁止だけど、高校生なんかは監視小屋の目の届かないところでしょっちゅう泳いでやがるよ」


 泳いであの廃墟に侵入する。

 それはちょっと無理があるのではないかと、廃墟周辺の地形を思い起こしながら私は考えた。

 だが子供という存在は、大人が思っている以上に向こう見ずで逞しいものだ。

 案外とそういうものなのかもしれない。


 「もしあそこに行くつもりなら、十分に気をつけてくれよ。たまに廃墟内で溺れそうになる人もいるからな。十年前、ふざけて一階まで潜ろうとした大学生が死にかけた事件もあったんだ」

 「十年前ですか。そんな昔からあの廃墟は湖の中にあったんですね」


 店主はにこっと笑って世間話をするように昔を振り返った。


 「あの建物が現役だったのはまだ昭和だったしなあ。うちのじいさんもあそこで働いてたんだ。でももうダムが出来ちまったから、もう用がなくなっちまってさあ。結局更地にもしてもらえず、今じゃああやってダム湖に半分沈んじまってよう」

 「へえ、そうなんですねえ」


 佐々木が呑気に受け答えをする。

 だが私は店主の言葉を聞いて、あることに気が付いていた。


 ダムが建築されたことで、あの建物は用済みになった。

 そう店主は言った。

 ところで、ダムの役割とは何か。


 春善ダムは周辺県民の生活を賄うための二つの役割をもっている。

 一つは貯水をして、人々の暮らしを支える水を適宜供給すること。

 そしてもう一つは、水力を利用して、電気を生み出すこと。


 ならばダムによってその役目を奪われる建物とはなにか。 

 それに気が付いた時、私はその先のことを想像して思わずはっとする。


 その建物を表す言葉が、もしも「かくれんぼ」と韻を踏めたなら。

 それは果たして偶然だろうか。


 「おじさん、結局あの建物って元々はなんだったんですかあ?」


 佐々木の質問に店主が答えようとした。

 それよりも先に、私がその問いの答えを口にした。


 それは当てずっぽうの推測にすぎない。

 けれども確信があった。

 店主のヒント、そして言霊の知識を踏まえれば、答えは一つしかない。

 

 「……多分あれは、『発電所』、ですよね?」


 私の答えを、店主は笑顔で首肯した。



 「不覚でしたよお。想像できたはずなのに……」


 佐々木がもの凄く恨めし気な顔で俺を睨んでいるのが、すでに陽が落ちて暗くなっているにも関わらずはっきりと分かった。


 ボート屋の店主に立ち話のお礼を言いつつ、その流れでボートを借りることにした私たちは、今現在ダム湖の水上にボートを走らせていた。

 二人とも、救命胴衣を身にまとっている。


 時刻はちょうど午後六時をまわっていた。

 妻には帰りが遅くなると電話連絡を入れてあり、承諾もすでにもらっている。


 最高速を出しているので、かなりの勢いで轟音を上げながらボートは進む。

 こんなに速度が出てもきっと釣りには役に立たないだろう。

 水上での事故につながる危険性があるので、もっと速度が出ないように制御したほうがいいのではと思ってしまう。


 実際、ボート屋の店主は速度を出し過ぎるなと忠告していた。

 とくに夕方以降の水上はかなり視界が悪い。

 湖にはところどころ水底から這い出た立木が飛び出ており、ボートがそれを回避せずに接触すると転覆事故につながってしまうのだという。

 命が惜しければちゃんとルールを守って、楽しく乗ってほしいと店主は言っていた。


 しかしボートを操作する佐々木はその忠告をまるっきり無視して思いっきり速度を出していた。

 だがおかげで、このスピードなら目的地まで十分もかからないはずだ。

 私たちの目指す場所はもちろんあの廃墟――水没した発電所跡地である。 


 「そうですよねえ。『かくれんぼ』から韻を逆算すれば『はつでんしょ』が関わってくる可能性も十分予測できたはずですよねえ。私は探偵失格ですよお」

 「そんな悔しがり方をする探偵は、世界に君だけだろうな」


 ぶつぶつとしょうもないことを悔やみながら、それでも佐々木は器用にボートの進行方向を操作して、水上に見える立木を大回りですいすいと避けていく。

 巫女修行で洞窟に籠ることもあるので暗闇には慣れていると、佐々木は嘯いていた。

 私のイメージする巫女と、佐々木が目指している巫女はどうも違うらしい。


 「なあ、本当にあの廃墟で神隠しが起きたのか?」

 「可能性はかなり高いと思いますよお。かくれんぼと発電所……これはかなり相性のいい言霊の組み合わせといってもいいでしょう。普通に考えて発電所のなかでかくれんぼする状況なんて創作物のなかでしか起こりません。だからこそ、それが現実となったときに生まれる霊的なパワーは非常に強力なものになるはずですから」


 可能性は高い、と佐々木は語る。

 しかしその顔はなにやらまだ迷いがあるような表情だった。

 その理由はなんとなく推測できる。きっと彼女は、私と同じ疑問を持っているのだ。


 なぜ健斗はあの発電所に足を踏み入れたのか。

 あるいは、どうやって健斗はあの発電所に足を踏み入れたのか。


 かくれんぼの潜伏場所としては確かに最上級だろうが、小学生の身でそこに行きつくのはかなり難しい。

 ボートは小学生では借りられないし、岸から泳ぐのも無理だろう。

 そもそも私が知る限り健斗は、泳げなかったはずなのだ。


 「着きましたよお!」


 気付けば廃墟はすぐ目の前にあった。

 暗闇に浮かぶ発電所跡が、異様な迫力をもって私たちを出迎える。

 水面から反射したかすかな光が、廃墟のシルエットをはっきりと浮かび上がらせていた。

 その光景は、不気味というよりもどこか荘厳さを感じさせた。


 「……探偵的にはなにか感じるか? 言霊の気配とか」

 「感じませんよ。そういう霊能力者みたいな力は私にはないんですから」


 ボートを一気に最低速に落としながら、佐々木は廃墟を睨みつけた。

 エンジンの音が限りなく小さくなり、湖上の静寂を耳が感じ取れるまでになる。


 そのままゆっくりとボートは進み、窓枠を入口にして私たちは廃墟の中へと入っていった。



#_#


 水没した発電所跡の内部は広々としていて、想像以上にがらんとしていた。

 感覚的には、体育館よりも一回り大きいくらいの広さがある。


 天井は遥か上の方にあり、水深はどこまでも深い。

 今いる場所はきっと一階から最上階まで吹き抜けになっている空間なのだろう。

 おそらくこの場所には巨大な発電設備の類があったのではないかと推測できる。


 だが機械類や配線盤などといったものは流石に撤去済みらしく、残されているのは建物の骸だけといった様相だ。

 なにも知らずにこの光景を写真で見せられたとしたら、この空間が元々発電所だったと推測することはまず不可能だろう。


 窓枠から離れるほど、視界は暗くなっていく。

 だが不思議と怖さはない。むしろ心がわくわくしてくるのを感じる。

 水がゆらめく廃墟内部をボートで進む光景は、あまりに不思議で非日常的だった。


 四方を囲む灰色の壁は老朽化し、変色し、はっきりいってしまえば非常に汚い。

 にも関わらず、目に入る景色はどこを切り取っても、美しいとさえ感じさせた。

 美しさの方向性は大分異なるが、なんとなく水の都ヴェネチアをゴンドラで観光している気分になる。


 まるで古代遺跡。

 いや、この景色を例えるなら……。


 「階段がありますね。あそこから上陸してみましょうか」


 いつのまにか懐中電灯を手に持っていた佐々木がその光で指し示した先には、水底から続いているであろう階段がたしかにあった。

 水面に接している段差箇所にはヘドロがべっとりと堆積しており、所々には足跡らしきものが残っている。

 おそらくこの廃墟に訪れるものは皆、佐々木と同じことを考えるのだろう。


 ボートを係留し、私たちは階段を上っていく。

 途中の壁には「三ー四」と書かれていた。先ほどまでいたのが三階で、これから登っていく先が四階ということらしい。


 階段を登り終えて四階を道なりに少し進むと、長い廊下に辿り着いた。

 四階は湖面よりも高い位置にあるため浸水しておらず、いたって普通の廃墟といった様子である。


 廊下の右手側には、おそらくドア枠だったものと思わしき四角い穴が規則正しく並んでいた。

 おそらくは何かの部屋に続いているのだろう。

 左手側には窓枠があり、そこから下を覗くと私たちが先ほどまで探索していた水没空間が広がっていた。


 この階の様子を見ていると、この発電所の構造がなんとなく推測できた。

 長方形の建物の半分が吹き抜けの空間で、残り半分は普通のビルのように階層が分かれているのだろう。

 吹き抜け空間は発電施設、階層エリアは部署ごとの事務所だったと思われる。

 そして建物三階の半分くらいまでが、今や湖の下に沈んでいるのだ。


 「見てください、あれ」


 登ってきた階段に最も近い部屋の中に試しに入った瞬間、佐々木が素っ頓狂な声をあげた。

 私も部屋に入った時点で同じものを見つけている。


 部屋の中心にはいくつかの机やいすが島を作るように並べられていた。

 視界の端では事務棚が倒れている。

 この部屋はもともとオフィスで、備品が撤去されずに残っているのだろう。

 発電所の業務に関係しそうな書類はさすがに持ち出されているようだったが。


 そして今、佐々木が指差しているものは、仕事場には似つかわしくないものだった。

 なぜこんなものがオフィスの机の上に散乱しているのか。


 「なんだ、この漫画本の山は。しかもこっちのはアダルト雑誌か?」

 「この絵柄、知ってますよお! 最近の作家さんですねえ!」

 

 パラパラと漫画本をめくりながら佐々木がきゃっきゃ騒いでいる。

 私は部屋入口からは死角になっていた机の裏側を覗いてみた。そこには空になった大量のお菓子の袋が無秩序に散らかっていた。

 その国民的ともいうべきパッケージは、平成以降に発売されたものだ。


 この状況を見て、おそらく私も佐々木も同じことを考えているだろう。


 「どう考えても、昭和に潰れた発電所職員たちの私物ではなさそうだな」

 「ええ、昭和にはこれらの本は発売されてなかったでしょうからね。ここに立ち入った釣り人さんか、地元の悪ガキさんたちが持ち込んだんでしょう」


 佐々木があっけらかんと返事をする。

 だが私は、もう少しだけ踏み入った推測に頭が及んでいた。


 この廃墟内部で見た光景。

 机上に置かれた漫画や雑誌の山。無造作に捨てられたお菓子の空袋。

 それらの要素が、私の脳内でひとつの仮説を組み立てていく。


 だがその仮説には、一つの問題がある。

 その内容が、当時の健斗の友人たちの証言と大きく異なるという問題だ。


 「最初から子供たちは、山林でかくれんぼなんてしていなかったのかもしれない」


 私の言葉に、佐々木は驚いたように目を見開いた。


 「かくれんぼをしていなかったら、神隠しは起こりませんよ!」

 「君の韻ありきの推理は今は置いておく。思い出したんだよ。失踪したあの日、健斗が電話で友だちに言っていた言葉を」


 失踪当時の健斗の言葉を、私は佐々木に説明した。

 あの日、健斗はスマホ越しの相手に向かってこう言ったのだ。


 ――じゃあ水の神殿で待ち合わせな!


 あの日は意味が分からなかったが、今なら分かる気がした。

 健斗が示した待ち合わせ場所とは、今いるこの廃墟のことなのだ。

 水の神殿。それは私がこの廃墟内部の光景を見て抱いた形容に非常に近いものだった。


 「もし子供たちがあの日、この廃墟に集合していたのだとしたら……山林でかくれんぼをしていたという当時の証言も怪しくなる。考えたくないことだが、子供たちが嘘をついていたとしたら?」


 私の問いに、佐々木は少し驚いたような顔をした。


 「あくまで推測だが、この廃墟は子供たちにとって秘密基地のような場所だったんじゃないかと思うんだ。この漫画本や菓子袋も、全部とは言わないが子供たちが持ち込んだものが混じっていると思う。多分、頻繁にここに通っていたんじゃないか?」

 「なるほど、小学生同士でこそこそ集まって漫画とかえっちな雑誌を回し読みしていたってことですか……でもここは子供たちだけで頻繁に来れるような場所じゃないと思いますけど?」


 佐々木は一定の納得を示しつつも、話に無理があると指摘した。


 「きっとボート屋が子供たちにボートを貸していたんだ」

 「未成年には貸さないと言っていたのに、ですか?」

 「店主が普通に黙認して貸し出していたのかもしれない。あるいはその辺の釣り人に代理でレンタルさせたのかもしれないし、誰か子供たち以外にちゃんとした大人がいたのかもしれない。やりようはいくらでもある」


 そう答えながら、私は悪い方向へ転がる想像に思わず眩暈がしそうになった。


 もしこの仮説が正しいとしたら、泳げない健斗は必ずボートを使ったはずだ。

 そして私の想像では、店主は未成年と知りながら子供にボートを貸したと考える。


 その辺の大人に声をかけて代理レンタルを頼む方法はほぼ断られるだろう。借りる時だけでなく、ボートを返却する際にも大人が立ち会わないとバレるからだ。


 付き添いの大人がいたとしても、健斗の友だちの人数は多い。

 故にボートは一隻じゃ足りないわけで、協力する大人もまた一人では足りない。

 そもそも協力者がいたとしたら、そいつは子供たちが廃墟に遊びに行っていることを知っているはずだが、失踪事件が公になったあとも事情を警察に話さなかったことになる。

 それはそれで胸糞が悪い話のように思われた。


 そういうわけで、私はボート屋店主に過失があったと推測する。

 だがそうなると引っ掛かるのは当時の警察の捜査だ。

 失踪した健斗がボートで廃墟に入り込んだ可能性を、警察が見落とすだろうか?

 当然、ボート屋にも聞き込みが入ったのではなかろうか?


 だが私は警察から、健斗が廃墟に入ったかもしれないという情報を聞いていなかった。

 だからこそ今日にいたるまで、この廃墟のことを知らなかったともいえる。

 となると警察は、その可能性が極めて低いと考えていたことになる。

 なぜそうなったかと考えれば、答えはシンプルだろう。

 ボート屋は、子供にボートなんて貸していないと主張したに違いなかった。


 「どいつもこいつも、事実を隠してやがったんだ。子供たちはきっと、こんな廃墟でたむろしていたのが親にバレたらまずいとでも思ったんだろう。ボート屋も子供にボートを貸した責任を追及されるのを恐れたに違いない。だから警察には本当のことを黙っていた。捜索に協力するどころか、保身のために事実を隠してやがったんだ」


 最後の方は声を荒げながら、私は自分の考えを吐き出した。

 それは、水の神殿がこの廃墟を意味しているという決めつけからスタートした稚拙な推理。

 所詮はこじつけを何重にも重ねた仮説でしかないのに、私は心底憎しみ怒りが沸いてきていた。


 保身のために事実を隠蔽する。

 そんな人間の心はまるで、このダム湖の在り様に似ている。

 表向きは透き通った綺麗な水面。しかし水底にはどす黒い汚泥が果てしなく積もっている。

 さきほど階段で見かけたヘドロを思い出して、軽く吐き気を覚える。


 「波豆さん。落ち着いてください。あなたの推理は当たっているかもしれないし、外れているのかもしれない。ただ一つ言えることは、今の波豆さんはあなた自身が吐き出した自分の言霊に囚われているということです。まずはいったん深呼吸をしてください」


 平常心を乱している私を、佐々木は独特な言い回しで諭した。

 自分の勝手な推理で、勝手に気分を害している。

 その指摘は至極的を射ているなと思う。


 「……でも正直、今の波豆さんの推理は大部分は当たっていると思います。ですから私も自分の推理を修正しなくちゃいけませんね」

 「修正……?」


 なんのことだか見当もつかない私に、佐々木は真面目な顔で答えた。


 「私は健斗くんの失踪事件を、かくれんぼ遊びを起点に始まった神隠しだと考えていました。私が調べた新聞でもネットニュースでも、子供たちが山林でかくれんぼしていたと書いてありましたからね。でも波豆さんの推理をもとに考えるなら、順序が逆だったのかもしれません」

 「順序が、逆?」


 そう口にして、私ははっとする。

 佐々木の言いたいことに予想がついたのだ。


 「……言葉の跳躍力、ってやつか?」

 「分かってきましたね。波豆さん。その通りです」


 優しく微笑みながら、佐々木は言葉を続けた。


 「子供たちがあの日かくれんぼをしていたと証言したのはおそらく本当なんでしょう。ただし場所は山林ではなくこの発電所の中だった。『悪天候』の日に『春善町』の『発電所』跡で『波豆健斗』くんが居合わせたという状況……その押韻によって生まれた言霊の力が子供たちの意識に干渉して『かくれんぼ』を実行させたんです」


 健斗の失踪は、かくれんぼが起点になったのではない。

 それ以外の言霊の共鳴を起点にして、『かくれんぼ』の状況が生みだされた。

 そう佐々木は言っている。


 そして十分な言霊の力が集まった状態で行われたかくれんぼが、そのまま健斗の神隠しを引き起こすトリガーとなったのだ。

 さしづめ言霊の二段階跳躍。

 こんな理屈をすんなり理解できてしまう今の私は、かなり佐々木に毒されているらしい。


 もちろんそのオカルト推理を全て信じたわけではない。

 というより、神隠しが先か後かなんて話は正直どうでもよかった。

 神隠しが起きたというならそれでもいい。

 重要なのは、これから健斗を取り戻せるかどうかだけだ。


 「それで、これからどう動けばいいんだ?」

 「そうですねえ。あとは神隠しが起きた場所をもう少し特定したいところです。この階の部屋のどこかならいいんですが、水没したフロアだと少しやっかい……」


 次なる行動指針を話し合いながら、私たちは腰を落ち着けようとした。

 その時だった。


 どぼん。


 何か大きな物体が水に沈み込むような音がした。

 音のした方向は部屋の外。おそらくは下の階。

 私たちが登ってきた階段のあたりだった。


 何ごとかと部屋を飛び出して、廊下の窓枠から階下を覗いた佐々木が喚いた。


 「波豆さん! ボートがっ!」


 そう言って佐々木はそのまま音のした方へ駆け出してしまった。

 私も慌てて後を追いかける。すでに何が起こったかは大体想像がついていた。

 来た道を戻り、階段を駆け下りる。


 ほどなく降りていくと階段は水面の下に途絶え、これ以上先に進めなくなった。

 そこまでは来た時と同じ光景。

 ただし、その場所にあるはずのものが、ない。


 ボートが、消えていた。


 「どうしましょう。弁償代を請求されますよお」

 「それもそうだが……どうやってこの廃墟を出るかの方が重要だろう。そもそも君はちゃんとボートを係留紐で結んでいたんだろうな?」


 私の問いに佐々木は「覚えてません」と申し訳なさそうに謝った。

 だが彼女を責める気にはなれなかった。

 私たちの聞いたあの音は、その瞬間を見てはいないが、ほぼ間違いなくボートが急激に沈んだ音だと思われる。

 ボートが流されたわけではないだろうから、佐々木が悪いとは言い切れない。


 問題は、なぜボートは沈んだのか、だ。


 何か手掛かりがないかと暗い水面に目を凝らす。

 すると、妙なものが視界に入った。


 それは階段と水の際にこびりついたヘドロの粘着力に捕まり、ゆらゆらと水面を漂っていた。

 果てしなく黒くて、どこまでも細長い。

 ある意味では、日常で見慣れたもの。


 それは、数束の、髪の毛のように見えた。

 確信がもてないのは、それがあまりにも長いからだ。

 私と佐々木の身長を足したくらいの長さがあった。


 明らかに人間の毛髪ではない。

 釣り糸の見間違いじゃないかと疑ったほどだ。


 ボートから降りたときには、こんなものは見かけなかった。

 単に気付かなかっただけか、それとも。


 急激に寒気がしてきた。

 水に浮かぶ髪の毛らしきものをじっと見ていると、排水溝に詰まった髪の毛を連想して、何とも言えない嫌悪感が生じる。 


 なにが起こっているのか分からない。

 ただ、映画や漫画であればこの状況はこう説明できそうだ。

 私たちは、この廃墟に閉じ込められたのだ、と。


 「もしかして、言霊絡みの現象なんじゃあないのか?」

 「おそらくそうです。健斗くんを取り戻しに来た私たちに、神隠しが牙を剥いているんです」


 神隠しをまるで固有名詞のようにして、佐々木はそう言った。

 まるでこれから神隠しとの闘いが始まるのだという風に私には聞こえた。


 「なにか策はあるのか? これから君が神隠しをどうにかして、健斗を取り戻す……そう思っていていいんだよな?」


 もしかすると、ここから探偵としての佐々木の本領が見れるのだろうか。 

 そう思っての質問だったが、佐々木の表情は芳しくなかった。


 「今回ほど多くの言霊と共鳴している神隠しと遭遇するのは初めてです。正直、厳しいかもしれません。それに今回は場所も不利なんです。私、泳げないもので」

 「おいおい。そんな状況で私みたいな素人がそばにいて大丈夫なんだろうな?」

 「……ご武運を」

 「……」


 今思うと、なんで私は佐々木についてきたんだろう。

 言霊やら神隠しやらを信じていなかったから、軽い気持ちだったのだと思う。

 すでに私は、この場所に立っていることを後悔しはじめていた。


 「神隠しと対峙するにあたっての注意点を教えておきますね。ですから自分の身は自分で守ってください」


 そういうことは事前に説明しておいてほしい。

 内容次第では最初からこんな場所に同伴していなかっただろうに。


 「とりあえず波豆さんはここから逃げて、どこかに隠れてください。神隠しは神出鬼没ですが、かくれんぼの鬼は苦手なんです」

 「かくれんぼから発生する現象なのに、かくれんぼが苦手な感じなのか」

 「あと、もし近くで声をかけられても絶対に返事をしてはいけません。それさえ守れば霊的に素人の波豆さんはそれ以上追いかけられないはずです。そして……」


 佐々木が続けて何かを説明しようとした、その時だった。


 どぼん、と間近で大きな音がした。

 何かが水に勢いよく落ちる音。

 そしてほぼ同時に、瞬きする間もないほどの一瞬に。


 目の前にいた佐々木が、消えた。


 「……あぁ?」


 思わず間抜けな声が自分の喉から漏れ出る。

 視界の端で、水面が渦を巻くように激しく揺れていた。

 ぶくぶくと大きな白い気泡が数秒ほど沸き立ち、やがてほどなくして消えた。


 しばらくして水面が穏やかな波を取り戻すまで、ただ私はじっとそれを眺めていた。

 思考が追い付いていなかった。


 引きずり込まれた。水底に。佐々木が。


 辺りが再び静まり返ってはじめて、私はようやく目の前で起こったことを理解した。

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