病室のカーテンに映る影
薄暗い……。見慣れない天井だ。
俺は目を覚ましたとき、まず最初にこう思った。
(俺、なぁんでここにいるんだっけ。あ、そっか。女の部屋に泊まったんだ)
昨晩は誰とだっけ。リナちゃん? サユちゃん? マチカ……は、別れたんだった。すっげーウザかったからなぁ。
「……ん?」
じゃあ誰の部屋だっけと思って寝たまま見渡すと、どうも普通の部屋ではないことに気がついた。ここはまるで――。
「おはようございま~す。気持ちよく起きれましたか~?」
考えているとテンションが高い女が入ってきた。この部屋にふさわしい白衣の女――看護師さんだ。
そっか。ここは病院だ。病院の一室……あれ、なんで病院にいるんだっけ?
「採血しますね~」
看護師さんはそのテンションのまま、俺の腕に注射を打つ準備を始めた。言動が明るすぎて人によっては気分を害すると思われる彼女は、注射を打つことについてはとても手際がいい。腕は確かな看護師さんなのかもしれない。
注射が刺さっても痛くなかった。
「あのさ、この病室暗くない?」
だから自分が不安に思っていることも、自然と伝えることができた。
「今日は天気が悪いですからね~。ほら雨が降ってます」
そういえばそうだ。雨……しかもかなり降っている。
ざあああっという音と、ガラララッという音も聞こえる。雷だ。
ピカっと光って、すぐ鳴っているから近いのだろう。
ピカッ。
また光った、と思った目の端に、何か影が映った気がした。窓のほうに何か黒い物が……。
――ピカッ。
「うああああっ!」
「わ、ちょっと~、どうしたんですか?」
片付けている最中に俺に叫ばれたものだから、彼女はびっくりしたようだ。だけど俺もびっくりした。なぜなら――。
「窓に! ひ、人がいる!」
ゴロゴロと音がする中で訴える。稲妻で空が明るくなったとき、カーテンがかかっている窓の外に人影が見えたのだ。
「やぁだ、ここは四階ですっ。窓の外に人がいるわけないですよ~。近くに背の高い木でもあるんじゃないですか~?」
木……だと。
そうか、木、か。
またピカッと窓の外が光り、カーテンに黒い小山が浮かび上がる。
そう言われてみれば確かに、木に見えるな……。
でも、本当に木か? にしては影が濃いような……。
「なぁ、カ、カーテンを開いてくれねーか、外が見たい……あ、あれ?」
視線をカーテンから逸らしたら、あのテンションの高い看護師はもういなかった。仕事を終えてすぐ出ていったようだ。
さすが仕事ができる看護師だ。
――ま、いいや。そんなに気にしていたら、怖がりだと笑われてしまうかもしれない。
ただの木の影だ。気にするな。
――ざああああ、ひゅうううう。
ガラガラガラガラ、ドーーン。
さっきから雨の音に風の音、雷の音で気が散る。一人の病室なのにのんびりできない。
特に起きていると雷の音の前に病室が明るくなるから、どうしてもカーテンに映る影が気になってしまう。
だって、ずっと同じ位置にいるんだ。まぁ、木だから動かないのは当たり前だけど。
ひゅう、ごおおおお。
ピカッ。
また光った。
風が強く吹いている音を聞きながら、カーテンにまた黒い影が映ることを確認する。
窓の外でじっと……じっと、たたずんでいる。
「え……あ……?」
――いや、待て、おかしくないか。
風が吹いているのに、吹いている最中に光ってその影が見えるのに、その影は全く動かないんだ。
動かないわけないだろ、木だぞ。
風が吹いているのに横に揺れもしないなんて、おかしいだろ?!
俺が混乱していると、突然今までとは違う音が聞こえた。
――バン! バン!!
俺は、窓に何か当たったのだと思った。風が強いから大きな物が飛んできて、窓に当たってしまったのだと――。
そのとき、窓の外――しかもあの影のほうから何かが聞こえた気がした。
――ないで……て……で――。
ちょっと高めの声……いや、気のせいだ。風の音だ!
こんなにさっきから風や、雨や、雷の音が聞こえているんだ。女の声じゃない、幻聴だ。
――て……でぇ、すて……いでよ~……――。
気のせいだ!! 女の声じゃない! あいつの声じゃない! あいつはもう……。
いや、あいつって誰だ?
なんで女の声だと思ったんだ? 違う。風の音だ、雨の音だ!
そうだ。確認すればいい。
歩いて、窓にかかっているカーテンをさっと開ければいい。それで済むじゃないか。
ちょっと歩くだけだ。開けて本当に背の高い木か確認して、外の風景を見て、安心しよう。
たったそれだけだ。
たったそれだけなのに……ベッドから出ることができない。
なぜだ? スリッパを用意してないから? そうじゃない、それ以前の問題だ。
足が、動かないんだ。
なぜだっけ。
考えがまとまらない。外がうるさいからだ。
耳をふさごう。外の音も、あの声も聞こえないように。
掛布団を頭までかぶって、カーテンに浮かび上がる影が見えないようにくるまるんだ。
考えよう。どうして足が動かないんだ。
――そうだ。足を怪我したからだ。
そう、そう……包丁を足に落としたんじゃなかったっけ。俺、料理中にやっちまったんだっけ。
いや、俺は料理してなくて、作ってくれてる彼女を後ろから抱きしめて、彼女がびっくりして……それで落としちゃったんだったか。
そ、そうだ……く、くそぉ! もっと注意して料理しろよ!
俺に怪我させてんじゃねぇよ! 俺が後ろから抱きついても「きゃっ」とか言うくらいにとどめておけよ。
……いや、そうだっけ。何か重要なことを忘れていなかったっけ。
俺があいつの夜勤明けに別れを切り出して、あいつがしつこかったからウザくて、あいつが泣いて……、何か言われなかったっけ、そう、耳元で。
「なんで、私のこと、捨てるの~?」
「うわあああ! ……あ?」
耳元で声がしたから思わず叫ぶと、そこには何もいなかった。気がついたら、部屋は静かだった。
風の音も、雨の音も、雷の音もしない。
たぶん、寝てしまっていたんだろう。
きっと、あの音のせいで悪い夢を見ていたに違いない。頭がはっきりしてきた今ならわかる。
そうだ。気晴らしにカーテンを開けよう。外の景色を見れば、きっともっと落ち着く。
よく見たら、ベッドからカーテンまでそんなに距離はないじゃんか。
確かに足を怪我しているから、長く移動するのは無理だけど、カーテンなんて立って手を伸ばせばすぐに開けられる。
ベッドから上半身を起こして、端に尻を移動させ、怪我してないほうの足をまず床につけた。
その足を軸にして立ち、怪我したほうの足は床につかないよう膝を曲げる。手は病院ベッドに備えつけてあるサイドテーブルに乗せて、体を支えた。
そしてカーテンを一気に開ける。
大丈夫だ。頭はすっきりしている。幽霊なんていない。マチカの声じゃない。
――ん、なんでそこにマチカが出てくるんだ。
「やっぱり、何もいないじゃんか」
カーテンを開けると、四階らしい上からの眺めが広がった。今は夕方近くで雲が多いのか、空は薄暗く少し赤かった。眺めがよく、遠くまで見通せる。
窓の前には遮る物が何もないから、景色がよく見えるのだ。
そう……遠くの空まで、ちゃんと……。
あれ。……この部屋の窓近くに、背の高い木があるんじゃなかったっけ。
だから雷が鳴っているあいだ、影が映っていたんじゃなかったっけ……。
――バンッ――!
「ぎゃっ!」
びっくりして変な声が出た。
「え、あ……ひ……」
そしてそれはただの物音ではなかった。
バンッと鳴ったのは、手が――赤い手が外側から窓を叩いたからだ。
窓枠の下から手が伸びている。手だけじゃない。同じように黒い影が、いや、頭がだんだん上がってきた。
髪、額、眉の順に見えてきて、とうとう目が見えた。
目は、俺を見ている。
「ふふふふ。私を、捨てないでよ~……ぅ」
「わあっ、わああああ!!」
窓の外の女がしゃべったのに驚いて、俺は後ずさった。
ベッドのふちに太ももが当たりキシッと音を立て、サイドテーブルに腕も当たりガタっと鳴る。俺は思わず、怪我したほうの足を床につけた。
痛くない。
怪我した足を後ろに引いて、後ずさっているのに痛くない。
――逃げよう――!
個室なのでドアも近い。すぐたどり着き、ドアハンドルに手をかける。
病院のドアだ。横にすぐ開くはず。……と思ったら、開かない。
嘘だろ。押すのか、いや開かない。引くのか……いや開かない!
いやいや、横だろ! 開けよ!
ぐいぐい力を籠めるが動かない。がたりとも音が鳴らない。まるで完全に固めてあるようだ。そんなバカな!
くそっ、くそっ! あいつは、マチカは、俺を恨んでいるんだ!
マチカ? そうだ、あいつは夜勤が多くて会う時間が少なくなったから、俺が別れを切り出したんだ。飽きたからバイバイしたんだ。
それなのにあの女ときたら「ひど~い」「話し合おうよ~」「私も時間を作る努力をするから」って言った。
俺は他にも女がいるから、お前とはもういいってのに!
そして、しまいにはあいつ……包丁を出しやがった。
俺を……、俺を――?
俺を、どうしたんだっけ。
いや、とにかく俺は命の危険を感じたから殴ってやったんだ。動けないくらい。
正当防衛だ! 俺は悪くない!
とにかくここから逃げさせてくれ!!
「――あれ」
ずっとドアと格闘していたけど、後ろの気配が消えたのに気づいた。
恐る恐る後ろを見ても、何もいない。
てっきり、真後ろにいて振り返った瞬間に脅かしてくると思ったのに。
もしかして悪霊マチカは消え去ったのか。それともまた夢を見ていたのか。
だって窓には手の跡もない。窓を叩いたときは確かに手が赤かったのに。
まるで、最初から何もなかったみたいだ。
(……一応、窓の外を、窓の外枠の下を見てみよう)
もしかしたら窓の下にまだ隠れていて、俺を驚かせる気なのかもしれない。あいつがもしそのつもりなら――もう一度俺がぶっ殺してやる。
俺は幽霊に――マチカに怯えるものか、と怪我してないほうの足を気合を入れて前に出す。怪我したほうの足で踏ん張っても痛くなかった。
やるぞ! 殺ってやるぞ。そうだ、その意気だ、俺!
「殺す、殺してやる……! ――あれ」
気合を入れた傍から、俺は前に進めなくなった。怪我したほうの足を前に出そうとしても前に出ない。
なんで?
痛くないのに。
足が動かない。まるで床に縫いつけられているようだ。
「――これで、どこにも、行けないね~……ふふふふ」
声が、下から聞こえた。
足元から聞こえた声に、俺は顔を窓に向けたまま、目だけ下に動かすしかなかった。
床には、俺に向かって白い物が伸びていた。
白い服のマチカ。マチカが床に体を伸ばして、伏せて、俺の足をつかんでいる。
いや違う。
俺の足の甲に包丁を刺している。
「これなら、逃げられないでしょ~」
「ああああ! 痛い! 痛いいいい!」
マチカが刺した。マチカに刺された。
また刺された! 笑顔で刺された!
殺す! 殺してやる!
俺は踏みつけた。何度も何度も……!
白い服にところどころ血がついて、髪を振り乱しているマチカを踏みつけた。軸足が痛くても踏み続けた。
「わああああ! 死ねええええ!」
がつがつがつがつと踏みつける音が、俺の耳に響く。マチカは動かない。ずっと俺の足に突き刺さった包丁を握っている。気味が悪い。
もういいか、もう死んだか、と足を止めた途端、後ろから明るい声が聞こえた。
「ちょっと。何騒いでるんですか~。迷惑ですよ~」
さっきの看護師が入ってきたのだ。
なんだ開くじゃないか、ドア。いや、それより――。
「看護師さん! おかしなやつがいるんだ! 追い出してくれ! 俺の目の前から消してくれ!」
「……何言ってるんですか~。誰もいないですよ~。どこにいるんですか~?」
「え……あ」
看護師にすがりついた俺は、彼女ののんきな声に我に返る。
看護師の言うとおりだった。
誰もいない。
カーテンが開いた窓には何もないし、床に伏せた女もいない。俺の足に包丁も刺さっていない。
俺の部屋には本当に、誰も何もなかったのだ。
「あ、そ、その……どうも寝ぼけていたみたいだ」
「もうっ。ほら、ベッドに戻りましょうね~」
看護師はあきれた声で俺の隣に来た。彼女の肩を借り、ベッドへ向かう。
「なぁ、お、俺、退院するよ、退院したいです。足だって包丁がちょっと刺さったくらいだ。入院なんて大げさだよ」
そうだ。そうだよ。たしかに足に包丁が刺さったけど、入院なんてする必要ない。松葉杖を借りて家に帰ろう。
「いいえ~。それはできません」
「は?」
何を言うんだ。てか、お前が決めることじゃねえだろ。
ベッドに寝かせようとするな!
「お前の許可はいらねんだよ。医者呼んでこ……」
俺の声が詰まった。初めてこの看護師をじっくり見たからだ。
――この顔は、どうも知っている気がする。
「だって、足だけじゃないでしょ~? おなかにも刺さったから帰れないんですよ~」
そう言われた俺は、看護師にベッドに寝かされた拍子に自分の腹を見た。
……血が大量に出ている……。
「え、な、なんで……?」
俺、なんでこうなっているんだっけ。
助けて、助けて。
「ふふふふ。これでもう、逃げられないね~。他の子とも会えない。ず~と一緒だよ」
そこには会う時間が取れないことで別れたはずの――俺が殺したはずの看護師のマチカが、唇を赤く染め、にいっと笑って俺を見下ろしていた。
「小説家になろう」2019年夏のホラー企画(https://syosetu.com/event/horror2019/)参加作品でした。
アグレッシブな雰囲気のホラーになっております。
二作目も書きまして、そちらは静かにじわじわとくるかもしれません。
『群生 ~病院に生えし黒い腕~』
https://ncode.syosetu.com/n6306fr/
私はファンタジーを連載しておりますので、よろしければどうぞお立ち寄りくださいませ。
『転生した受付嬢のギルド日誌』
https://ncode.syosetu.com/n5425ew/
という連載作品を中心に書いております。