心からの喜び
あれから少しだけ水野さんと話をした。内容は他愛もないものだったけど、毎日看護婦さんと話す話よりもとても楽しく感じられた。
そろそろ話のネタがなくなってきた頃、コンコンッという戸を叩く音が鳴り響いた。
「遅くなってごめんなさいね。仕事の話が長引いちゃって…。どう?めぐみ、仲良くなれた?」
「うん!博樹君ね、とっても物知りなんだよ!」
「あら、今日会ったばかりで名前呼びなんて…」
「いいんですよ。堅苦しいのは嫌いなので。」
「そう?ならよいのだけれど。この子ちょっと常識知らずで…変なこと言わなかったかしら?」
「大丈夫です。それに、この歳で常識を説いても難しいでしょうし、それに常識にとらわれずに考えを伝えられるのは水野さ…めぐみさんの良いところだと思いますよ。」
「あなたは大人びているから心まで変わらないと良いのだけれど」
「何か言いました?」
「いいえ、気にしなくて良いわ。」
「お母さん、お腹すいた」
「そうねご飯の用意しなければいけないから私たちはそろそろ帰ろうか。鷹野君これからもめぐみと仲良くしてやってね」
「…!はい」
病院で過ごしてきて初めて友達?ができた。
「またね博樹君」
「うんまたね、“めぐみちゃん”」
今この瞬間、俺は心から笑えてたと思う。
あの親子が帰って病室はまた静けさを取り戻していたが、俺の心臓はバクバクと心の異常を伝えていた。
初めて心からまたねと言える友達。次会えるのを楽しみにできる相手ができたという高揚で、長い間静まり返っていた心の泉にいくつもの波紋が広がっていた。
次はいつあの子と話ができるだろう。どんな話をしようか。あの子の驚いた顔可愛かったな。そんなことを考えながら、収まらない胸の高まりと共に眠りについた。
しかし、2年の長い期間変化という風が一時も吹いていなかったことの代償は子供一人が負えるほど甘くはなかった。
その日から少年は目を覚ますことなく、少年の意識は心の泉の深くに閉じ込められてしまった。
─────…キ……ロキ………ヒロキ…ヒロキ!起きなさいヒロキ!
誰…?そんなに大きな声で叫ばなくても聞こえる。
「……!」
応えようと口を開いたが、声は出なかった。というより、口自体がなくなってしまったかのような感覚を覚えた。
『ヒロキ、聞こえている?落ち着いてよく聞いてね。あなたは今、あなた自身の意識のなかにいるの。長い間変化がなかったあなたの病気が悪化し始めていて、今きっとあなたの体は集中治療室ね。病気に効く特効薬は今のところ見つかっていないから、抗生物質とかで進行を遅らせている状態だと思うわ。あなたを現実に戻すには病気を治すことと、こうなってしまった原因にこの世界に来てもらうしかないの。』
原因…あの子か……でもどうやって?
『その”あの子“があなたの体に近づければ意識を引っ張ることはできる。病気は…………そうね、主治医の意識を乗っ取ってどうにかするわ。意識だけが戻らないなら病室に戻れるだろうからね。そうなれば、”あの子“もあなたの体に近づけるでしょう。』
俺にできることは…………何もないか。
『そうね、祈ることぐらいかな。後はできるだけ意識を現実に結びつけやすくするために、現実のことを思い出すことね。』
…わかった。自分の体のことなのに他人任せなのも落ち着かないが、今できることは思い出して祈ることくらい。ならば、できるだけ鮮明に色濃くしっかりと思い出すだけだ。現実世界であったこと、会った人、話したこと、好きなもの全てを鮮明に!
『よし、考えている今のうちに主治医操って来ますか……。…………………考えすぎて飲まれないと良いのだけど』
鮮明に!鮮明に!色濃くしっかりと。
「あなたはどのくらい入院してるの?」
「今日で2年目。だけど、病気自体はたぶんもっと前から。」
「そっかー病院のご飯て美味しい?」
「美味しい日もあるけど、俺魚が苦手だから魚がでたときは最悪だと思うよ。」
「博樹君はお魚が嫌いなんだ~じゃあ、次お昼にお魚がでたときはめぐが食べてあげる!」
「ありがとう。助かるよ」
「うん!あっお兄ちゃんの周りの空気明るくなった~!」
空気……さっきも言っていたがこの子の目にはどんな風に映っているのだろう?
「ねえ水野さん」
「ダーメ!」
「な、何が?」
「めぐみだよ!”水野さん“なんて堅苦しい呼び方ダーメ!」
「う、うん。めぐみちゃん」
「まあ、それでいいや。それで何?」
「あ、えーと。め、めぐみちゃんの目には俺の周りってどう映ってるの?」
「どうって………うーん難しいな~さっきはね、黒っぽい紫色の煙みたいなのが部屋中にあってね、カーテン空いてるのに夜みたいに暗かったの。でもね、今はオレンジなのかな?明るい色になったよ」
この子の見てる煙ってなんだろう…不思議な子だな。
「そっか。明るくなって良かった……のかな?」
「うん!良かったんだよ。温かくて気持ちいいもん」
「それなら良かった。お兄さんのところは?何色だった?」
「お兄ちゃんのところは………赤だったよ」
一瞬、ほんの一瞬だけめぐみちゃんの表情が暗くなった。何かあったのだろうか。
「めぐみちゃん………」
「ん?」
いや、他人の事情に勝手に踏み込まない方がいい。ましてや、今日会って友達になったばかりの子を失うわけにはいかない。
「うんん。なんでもない。ただ呼ぶ練習してみただけ」
「じゃあめぐもする~博樹君!」
「うん。めぐみちゃん」
「なんかへんなの~」
しばらく二人は笑い合った。ひとしきり笑い合った後、めぐみちゃんのお母さんが入ってきた。
とっても楽しかった。あんなに笑ったのは何時振りだろうか、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。失いたく…ないな──。
『おかえり。長い間思い出していたようだね、けどあんまり長いと空想の世界から戻ってこれなくなるよ。』
楽しいんだ。何もないここよりずっと何もなかった過去よりずっと。空想の世界ならあの子に会えるんだ初めて友達になった不思議なあの子に。
『いけないよ。空想の世界に飲み込まれてしまったらもう二度と”あの子“とは会えなくなるよ。それは嫌だろう?』
会いたい。