7話 ロメスの使者
アマデウスは、兄が結婚してからわずかに活気を取り戻していることを喜んでいた。リウスは、夫妻で外出をするようになり、稀に笑顔を見せるようになった。
城に住むようになったサリーはしばしばアマデウスの下を訪れ、二人は語りあった。昔と変わらない、快活な口調で。話題は、農事のことであったり、町のことであったり、花のことであったり、その日の昼食のことであったりした。もちろん、真面目すぎる男リウスに関する、多くの苦情と少しの惚気も含まれていた。
サリーという人間は、アマデウスにとっても古くから馴染み、信頼してきた存在だった。アマデウスは、王となって以来、特に城においては息の詰まる孤独を味わっていたから、この女性との気楽な会話によって大いに安息を得た。
ところで、王国の春の日は、悪天候が少なくない。この日も、春雷が鳴り響き、人々は家に籠もっていた。
王国の者で、この時期に航海をおこなう者はまず居ない。海を越える商いも、ほとんどは波が収まる夏から秋にかけておこなわれる。
しかし、城の塔から、荒れる海を越えて海岸に辿り着こうとする帆船を見た者があった。嵐の中にぼんやりとその姿を発見した兵は、怪訝に思って上の者に報告した。何人かの兵が集まり、ついに海岸に辿り着いたその船の正体を確かめた。乗っていたのは、なんとロメスの使者であった。それを確かめた兵は皆緊張し、それを伝え聞いた城の者は皆戦慄した。五十年前の戦いが終わったときも、両国が使者を交換したことなど無かったのだ。
使者は雨に濡れ、唇を青くして体を震わせていた。乾いた麻布で自らの体を拭き、また温めた。万全でないにもかかわらず、町に至ってすぐ、王に謁見することを欲した。その希望は受け入れられた。兵に連れられ、瞬く間に王の座す空間に通される。
アマデウスは、一段高いところにある石の王座の側に立ち上がってそれを迎えた。ファラードが側に控えている。使者は、王の前に至るや、挨拶もそこそこにして、その務めを果たすべく直ちに語りはじめた。
「国と陛下のことばをお伝えします。
寛大なる我が皇帝は、これまでの貴国の過ちを許し、共に歩もうと仰せです。ついては、既存の体制を認めたうえで、再び一つになろうと。
そもそもは一つの地にあった我らが、あるときから海に隔てられて憎み合わねばならぬということを、我が皇帝は悲しんでおられるのです」
アマデウスは、ことばを発さなかった。呼吸が速まり、膝が震えた。この要求が王国を見下ろした要求であることを理解し、そのために怯えたのである。ファラードがしわがれた低い声で代弁する。
「『これまでの過ち』だと。一つになろうだと。今更何を言うか。やっと我らと争うことを諦めたのなら、お前たちは姿を現さなければ良いのだ」
ファラードは、五十年前の戦いを記憶しているからか、明確な敵意を示す。その敵意に当てられ、若い兵もまた使者を睨み付ける。
「お待ちください。端的に言えば、この地の統治を委任したいということです」
「取り繕ってはおるが、結局属国になれということであろう。今までの態度と変わらぬではないか」
「そうではありません。貴国の国体は変わらぬのです。監察官を置かせていただきますが、平和な統治を確認するために存在するのみで、口を出すことはありません。本国に納めていただくのも、百分の三税でかまわないのです。富める貴国には、大した負担ではありますまい。それで、こちらはさまざまな援助もおこなうのでうから」
百分の三という率は、ロメス帝国が通常の属国に課す税率の五分の一である。破格と言って良い。普段のロメス帝国の立場と比較すれば。
ファラードはこめかみをヒクヒクと震わせた。
「本国と言ったな。相変わらず見下しおって。貴様らに渡す麦粒も無ければ、何か助けてもらう必要も無いわ! ついに気が狂ったというわけか。五十年前の戦い以来音沙汰が無いと思っておったが、それほどとはな」
「お待ちください。貴国にとって、またあなたがた統治者にとって、悪い話では無いはずです」
統治者にとってという部分は、場合によっては真実である。強力な後ろ盾の下に、良い思いをしたい者にとっては。だが、ファラードはそうではなかった。
「どう飾り立てても恐喝は恐喝よ。それ以上喚くのであれば、首を切って送るぞ」
使者は、わずかに身じろいだ。しかし、むしろ毅然として滔々と続けた。
「五十年前とおっしゃるなら、あの激戦を繰り返さないことを考えられよ。その様は悲壮なもので、堀が遺体で埋まったということを私も聞き知っております。我々はその時の三倍の兵を送ることも可能なのですぞ」
ファラードが叫ぶ。
「まだその口を開くか! 我らの答えは変わらんぞ」
かっと目を開いて使者は王を見上げる。
「あなたに問うているのではありません。私は王に問うているのです」
「黙れ。兵を呼べ。兵を……」
ファラードは更に兵を呼ぶそぶりを見せたがしかし、アマデウスはそれを制した。はっきりと。
「もう良いよ、ファラードさん。私たちが首を切って送り返すような真似ができないということを、この使者はよく知っているようだ」
独立を謳うことはできても、挑発的な行動を取れるような力関係にはない。アマデウスは使者がそれを理解していると判断した。使者は、隣の文官とは違ってずいぶん穏やかな声を受けたためか、気勢を削がれ、きょとんとしてアマデウスのほうを見た。
アマデウスの震えは既に止まっていた。一瞬逡巡する。どう答えれば良いのか。考えていると、受け答えに失敗したことについて兄が叱責する顔が浮かんで、微笑が漏れた。そして、自然と口が開いた。
「――勇敢な使者よ。君のような優秀な者と、このような形でしか話せないことは、非常に残念です。
しかし、私たちの意思は変わりません。あなたがたに監督されることはありませんし、麦一粒さえ、あなたがたに納めることはありません。ロメス帝国と私たちは、もはや百年前から相容れないようです。悲しいことです。それでも、対等な形での和平の約定を望むということであれば、私たちはいつでも歓迎します。次は、あなたを笑顔で迎えられることを願っています」
一瞬驚いていた使者は、しかし緊張した表情を既に取り戻し、静かにことばを聞いた。そしてアマデウスのことばが終わると、胸の位置に拳を当て、重々しく答えた。
「……そのことばを伝えましょう。これから争うことになるのかもしれませんが、私個人の感情として、御身に平穏のあらんことを祈ります」
「感謝します」
会話を終えて、使者は立ち上がった。それを引き留め、アマデウスは付け加える。
「この国の春はいつも天候が悪いものですが、今回の嵐は特にひどいもので、数日は荒天が続くでしょう。ですから、天の穏やかな日を選んで帰られてはいかがですか。そちらの国までは二十日ほどと聞きます。到着までの晴天を保証するのは難しいですが、それでも今より悪いことにはならないでしょう。寝食の用意があります」
「ご心配には及びません。おことばを速やかに国に持ち帰るのが、私の義務ですから。お気遣いに感謝します」
そう言って、使者は去った。
使者の背を憎々しげに睨むファラードであったが、見送るとアマデウスに向き直り、興奮の冷めぬ様子で口を開いた。
「陛下。正しいご決断でした。もし奴らの要求を飲めば、初めはわずかな税を納めるだけで済むかもしれませぬが、二十年かけて国は骨抜きにされ、我ら古くからこの地を治めてきた者はさまざまな理由を付けて廃され、そして民はロメスの横暴な統治に身を委ねねばならなかったことでしょう」
「……そうなんだろうね。でも、もし本当に一つになるとしたら。彼らの皇帝と名乗る者が、本当に平和を願う人間だとしたら。彼らが善政の国だとしたら。私たちの正義はどこにあるんだ。私たちの戦いの正義は」
「何をおっしゃいますか。そのような感情を抱いてはなりませんぞ。その感情は、陛下が戦を交えたことがなく、ロメスを訪れたことが無いから生まれるのです。それでも、ロメス帝国の惨状はこれまで学んでこられたことでありましょう。現実は非情ですぞ」
ファラードは老いた声を強くして語った。アマデウスは、下を向いてつぶやく。
「嫌だ。ぼくは本当に嫌だ」
ファラードはそれ以上諭すことをしなかった。天井を見上げ、ため息をついた。