6話 花畑
サリーとリウスは結婚した。
リウスの部屋は、そのままリウスとサリーの部屋となった。寝床が広げられ、サリーの荷物が入った木箱が多く置かれ、部屋はいくらか狭くなった。ただ、サリーはむしろその狭さを好んだ。狭さは近さでもある。
ただ、城の中心部にあるこの部屋には、窓が無い。結婚してすぐの頃、サリーはそのことを残念に思った。一週間ほど後、サリーが王族となっておこなった初めての事業は、粘土板ばかりが積まれてあるこの殺風景な部屋に植木鉢を持ち込むということだった。いま、手のひら大の青々とした葉の低木が一本、両腕でやっと抱えられるほどの大きな鉢に植わって、リウスの部屋に入ったすぐそばにある。サリーはもっと華やかなものを植えたかったが、陽が無くて育つ植物はこの低木くらいしか知られていなかったのだ。妥協することになったとはいえ、サリーは満足していた。リウスも、特にこれを嫌ってはいなかった。そして、部屋はまた少し狭くなったのだった。
初めの頃は全てが新鮮だった。目覚めてすぐ間近にある夫の寝ぼけた表情。その夫が机にかじりつく姿をいつまでも見つめられるということ。官吏たちのよくわからない会議。少し豊かになった昼食づくり。城の中心の尖塔から見る夕日。ときたま遠慮がちに現れる寝床での夫のわずかな獣性。同じ床で同じ布に包まれて眠るぬくもり。
幸せな暮らしを送り、二人の結婚から半年が過ぎた。王国と城は春の暖かい風に包まれた。
サリーが求婚したときと比較すると、リウスは元気になったように見える。リウスは再び机に向かうようになったし、積極的に政策に関わるようになった。リウスの営みが活き活きとしているとき、サリーは喜びを感じた。
だが、嬉しい一方で、共にいろいろな活動をできないことは退屈でもあった。新婚のさまざまな喜びにも、半年ほどすれば慣れてくるものだから。
この日もサリーは、寝台の横に腰かけてリウスを眺めていた。リウスはこの日も机に向かっている。
サリーは唐突に切り出した。
「ねえ、花畑に行ってみましょうよ」
リウスは、一瞬だけ目を丸くした。そして、吐き捨てるように答えた。
「そんな暇は無い」
「今日も無愛想ね。昔はよく行ったじゃないの。三人で」
昔というのは、十年ほど前のことだ。そのころ、リウスとサリーは町で、海で、山で遊び回った。当時から活発だったアマデウスとともに。
リウスは一瞬だけ遠い目を見せた。しかし、すぐにふっと鼻息をついた。
「ずいぶん昔の話だな。もはやそんな歳でもないだろう。私たちは」
「あら、花に癒やされるのは子どもも大人も同じよ。いつもそんなに机に向かっていたら、疲れてしまうわ」
「私は平気だ」
「私はさみしいわ」
沈黙が生じる。サリーは寝台に腰かけたままリウスを見つめ、足をぶらぶらと揺らす。リウスは、寝台と逆の方へ粘土板を寄せ、首をさらに下へ向けた。そのまま粘土板に向かい、ときたま何かを書く。三枚の粘土板が脇へ避けられるまで、その沈黙は続き、ついにリウスは痺れを切らした様子で、
「ええい。集中できん。今日はいつもより気になる視線を向けおって。そんなに花畑に行きたいのか」
と、止めていた息を吐き出すように言った。
「ええ。行きましょう!」
サリーは、リウスが最終的に重い腰を上げてくれることをわかっていた。
朝から昼になろうかという頃、サリーはリウスを引っ張って城を出た。従者たちは慌ててそれを追いかけることとなった。
方形の城を山側の辺から出る。馬には乗らず、ルー川をイチョウ並木の道を通って遡る。町があり、町を出れば農地が広がり、農地が途切れれば山の麓だ。平らに慣らされた道はそこで終わるが、左岸から離れる方向へ山に沿って草を刈っただけの小道がある。その緩やかな上り坂を進み、人の背丈ほどの小さな丘を越えると、その蔭から真ん丸い湖が姿を現す。湖岸は、鮮やかに白く輝いている。近づくほどに、その岸の真っ白が緑と混ざり、はっきり見えてくる。湖岸には、楽園とも言うべき花畑があるのだ。歩きながら、サリーは大声で喜んだ。
「ほら、見えてきたわ。今年もきれいよ」
「おお。確かに」
その光景に、リウスも丸い頬を珍しく緩めた。
「これは、確かに懐かしいな」
「でしょう。あなた、何年も来ていないんじゃないの」
「そうだな。私は用がなければ城を出なかったから」
そう言って、リウスは情けない表情になった。その理由はサリーにはわからなかったが、夫がそんな顔をするのは嫌だった。
「あなた、ずっと勉強してたんでしょう。法典だか何だか知らないけど、そこはさすがよね。たまには息を抜いた方が良いとは思うけど。体にも悪いし」
「さすがか。そうか。そうだな」
リウスは嘲笑とも受け取れる複雑な微笑をした。何か一人で納得しているようだった。
会話をしているうちに、湖岸に辿り着いた。
サリーは、まさに湖の間近に寄り、二つ並んだ切り株の一つに腰かける。すると、湖面にも湖の向こう側の斜面の花畑が映り込み、視界の全体に白が満ち満ちた。
国の者は皆、この場所を花畑と呼んでいる。花畑といっても、花を畑で育てる者など居るはずが無いのだから、人が植えたものでは当然無い。密集し、かつ広大であるさまを花畑と呼ぶのだ。
確かに密集していた。花を踏まぬよう、獣道のようなところを慎重に選んで、しかし早足で歩いたサリーであった。そして、ようやっと追いついて、リウスもまた隣に腰かけた。サリーは、恍惚としていた。
「まるで、毛皮の敷物みたい」
「本当だな」
白い花は一面に隙間無くあった。新しい毛皮の敷物に、隙間が無いように。白い花は、よく見ると花びらが六つあり、中心が黄色くなっていた。
白い花の下をよく見てみると、他にもいろいろな花があった。ある花は、小さくて丸い紫の花びらが多く集まり、小指の先ほどのふわふわとした球を為している。ある花は、線形の黄の花びらが密集している。口に放り込めそうなやわらかさ、大きさだ。ある花は、堂々と四枚の花びらを誇っている。その花びらは辺縁部が赤であり、中心に向けて白くなっていく。
サリーとリウスはしばらく切り株で、花々と湖とを眺めた。
「何かきれいなことばにしてみたいわ」
「ああ。そうだな。詩にしたいな」
そう言った後、リウスは花とサリーを見比べながら何か言いたそうにしていた。サリーは、尋ねるようにしてリウスの表情を上目遣いで伺ったが、そうするとリウスは顔を背けるのだった。サリーは気づいた。夫はきっと、私をうたおうとしてくれたのだ。夫の意外なかわいさを発見したことに、サリーは内心、小さな優越感を得た。
サリーは、黄色い花を指さして、リウスに問うた。
「この花の名前、知らない。あなたは知ってるかしら」
「この花は知らないな。名など、無いのではないか」
リウスがそう言うのだから、本当に名も無い花ばかりなのだろう。誰かが名付けたのかもしれないが、その名は忘れられているに違いない。
「それは、ちょっと悲しいわね。花そのものが忘れられていくみたい」
「なら、お前が名付けたら良いのではないか」
リウスの発案に、サリーは目を輝かせた。
「それも素敵かもしれないわね。そうね。そうしましょう」
花の名付け親になれば良いというリウスの発案に、サリーは、しばし目移りしながら夢想した。
二人が休息を楽しんでいると、突然、少し離れたところの山側の斜面からガサガサと音が聞こえた。上裸の日焼けした男が、林を抜け、花畑に飛び出してきた。
サリーは身を竦めた。リウスはサリーを手で制し、
「落ち着くんだ。ホティ族が狩りをしていてここまできたのだろう」
となだめた。ホティ族の男は、リウスたちに気づくと、持っていた槍の穂を下にして近づいてきた。
リウスのほうから立ち上がり、挨拶をし、何かを話しはじめた。リウスは彼らのことばを少し知っている。
サリーはその間、切り株の横で身構えていた。
ホティ族は、羽根の飾りを頭に付け、隆々とした頬骨でリウスと語らっていた。あるとき、破顔した。そして、王国のことばで、
「さよなら」
とサリーに向けて叫び、手を振り去っていった。サリーはそのことばに、唇を引き結んだままでいることしかできなかった。
リウスが戻ってきた。リウスは、サリーの不安を見知った様子で言った。
「この場所はきれいな場所だねと、そういう話をしていたんだ」
「そう。そんな話もするのね」
サリーは、不満を表明するように素っ気なく語る。少し不安なときに放っておかれたからだ。
「でも、ホティ族って、なんだか見ていて落ち着かないわ。あのかぶり物も、なんだか野蛮じゃないの」
ホティ族は、狩りをして暮らす民であり、王国の民が定着する前から山に生きてきた先住民である。ホティ族は、羽根の飾りを常に被る。そして、暖かい季節は上裸で過ごす。そういったホティ族の生き方を、サリーは粗野と感じた。サリーは、麻を編んで着る王国の民の穏やかな生き方を愛した。
「そんなことを言うものではない。彼らが居なければ、この国は存在しないのだ」
このことばは、遠い昔の伝説のことを指している。百年前、英雄王とわずかな民がこの国の海岸に漂着したとき、食料は尽き、命の灯火は消えようとしていた。しかし、ホティ族がそれを発見し、肉と木の実を分け与え、彼らを救ったのである。それが、誰もが知るこの国の始まりの伝説であり、サリーもそれは知っていた。
「それはもちろん知っているわよ。でも、そんなことじゃなくて……」
「お前の言いたいこともわかる。同じことばを話し、同じような生活をするロメス帝国が永遠の敵で、ことばも暮らしも異なるホティ族が友というのは、確かに皮肉なものだな」
そして、リウスは白い花々を見渡して付け加える。
「ああ、そうだ。花の名といえば、この無限に群生する花はナルシスだ。ロメス帝国でも同じ名で呼ばれている」
「そう考えると、確かに悲しいことよね」
「だが、真実だ。盟友と敵を間違えてはならないのだ」
サリーは、完全に納得したわけではなかった。だが、反論を加えることはしなかった。そこまで大きな不満があったわけではなかったからだ。それに、自分に理解と共感を示しつつも、冷静な分析を加えるリウスの誠実さが愛おしかった。
リウスは、厳しいことを言った後、サリーに頬笑みを向けていた。サリーは、頬笑みを返し、リウスの手を取った。そして、二人は帰路に着いた。
この日から、しばしばサリーが城の周りに花を植え、花の名を記した札を立てるようになった。
民は、その行為について、愛情と好奇と呆れとを抱いた。サリーの考えた花の名は、受け入れられることもあれば、すぐに忘れられることもあった。サリーはこの趣味を楽しんだし、サリーが楽しくしていると、リウスも幸せなようだった。
城の周りの花壇は幅が二倍になった。サリーがいろいろな花を植えるせいでまとまりが失われていった。一方で、少しずつ華やぎを増していった。