5話 リウスの結婚
父に対する憎しみや、弟に対する妬みは、この秋が再び訪れるまでに、遠い過去の思い出のように色褪せていた。しょせん、一時的なものだったのだろうか。
それは、リウスが弟の能力を評価しはじめていたからである。弟が王としておこなう諸施策は概ねうまくいっていた。リウスは、民に寄り添ったその姿勢の効果に気づき始めた。
だから、あの寒い病床で父が弟を評したことも、今となっては理解できるように思われた。確かに、自分にはできないことである。
リウスは最近、何をするにも気が入らなかった。
王の兄という立場は、いざなってみれば非常に自由な立場であった。王権を侵さなければ、何をしても許されるし、何をしなくても許される。王権とは、この王国においては王の決定するものであったし、王はあの優しいアマデウスであるから、リウスを妨げるものは無かった。
ただ、リウスは王国が抱えるさまざまな課題に取り組むことは無かった。
小雨であった。リウスは、木板と粘土板とを納めた一室に居た。入り口から奥にかけて存在する通路の左右に棚が整然と並ぶ。壁に多くある灯火のうち、ただ一つだけが輝き、窓の無いこの部屋にわずかな光を与えていた。
そもそもリウスには、父の生前から一つの職が与えられていた。城の一角にある蔵書を司る職である。
これは、リウスが文を愛していたことを前王が知っていたからであり、かつ、それなりに大きな責任を経験させようとしたからでもある。
蔵書の内容は、国内の詩作や歴史にくわえ、ロメス帝国の法典や伝説だった。木板に文字が刻まれたものがほとんどだが、一部の重要な文には粘土板に刻まれて焼かれたものもあり、ロメス帝国の法典もそれであった。
一年前までのリウスはこの木板や粘土板をしっかりと管理してきた。また国内外から蔵書を増やすことは怠らず、たとえば法典は一年前の最新のものを揃えていた。ロメス帝国は十年に一度法律を改めるから、そのたびに海を渡ってこれらを入手する必要がある。
蔵書を豊かにする人間であったと同時に、リウスはそれらの蔵書に最もよく触れた人間だった。リウスは、その中に人生の答えがあると信じてきたのだ。
しかし、そうではなかった。この状況になってみると、何をすれば良いのかわからない。
リウスの管理はぞんざいになり、新たな蔵書は、窓の無いこの一室の暗い片隅に積み上げられていった。
このように持ち前の勤勉さを失っていたリウスにも、ここ数ヶ月は少し活躍の場があった。弟がリウスの知見を活かそうと、ものを尋ねてくるようになったからである。その問いに対する解答を、リウスはしばしば持っていた。解答することによって自らを肯定することはできなかったが、その役割に甘んじて生きるべきなのかと感じつつあった。
灯りを消して、リウスは壁にもたれかかった。木板の山をなおざりにして。心地よい闇であった。天井を打つ雨音がわずかに聞こえる。
そこに、サリーという娘が現れた。サリーは将軍の娘である。小柄なそばかすの娘であった彼女は、リウスと同じ年の生まれであり、ひと言で表せばリウス兄弟と幼なじみであった。サリーは、その小柄に似合わない大声で、
「最近また太ったんじゃないの。どうしたの」
と軽口を放った。
リウスは、だいたいの人間に関してはこういった馴れ馴れしい発言を許さない狭量な人間であったが、サリーに対してだけは気を許してしまう。リウスは灯りを再び点してけだるげに答えた。
「そうだな。太ったかもしれないな」
「訓練が足りてないのよ。得意の弓もほこりを被っているんじゃないの」
王族には、剣と弓と馬を扱うことが求められた。このうち、弓だけはリウスの得意とするところであった。
「ああ。そうか。そうかもしれん」
リウスは床を見つめたまま回答した。
「ちょっと。今日はずいぶんぼんやりしているじゃないの」
「そんなことは無い。お前は今日もうるさいな」
「あらあら。調子が戻ってきたみたいじゃない」
そもそも調子が悪いわけでは無いと反論する気も起きず、リウスはため息をついた。
「それで、今日は何の用だ。詩でも読みにきたのか」
蔵書は全ての民に公開されている。城のこの一室には、誰でも――将軍の娘でなくとも――来ることができる。そうはいっても、文字を読める人間は少ないから、ここを訪れる人間はなかなか居ない。なかでも、若い人間はほとんど居ない。書を解す数少ない若者であったサリーは、よく詩を読みに来ていた。リウスは、うるさい人間を嫌ったが、詩を愛する人間を好んだので、この幼なじみが自分の空間にたまに踏み込んでくることに、さほど嫌な気はしなかった。
「そうね。ふふっ。詩を読みに来たと言っても良いかも」
サリーは、少し頬を赤くした。そしてわずかに声が小さくなっていた。
「含みのある言い回しだな」
「ええ。今から読むわ――」
読むというのは読み上げるという意味だったようで、サリーは、ゆっくりと、滑らかな声で詩を唱えはじめた。
「勇敢なる若者よ
二度海を超えし若者よ
我らとともに歩むなら
その血の色を見せてみよ……」
「……」
リウスは、よく知る詩にじっと耳を傾けた。
サリーが流れるように唱えはじめたこの詩は、建国の伝説であり、誰もが知る物語である。英雄王がこの地の先住民との間に打ち立てた誓いの物語である。
「……
見せようとも 見せようとも
全ての赤を 捧げよう」
サリーは息を吸う。
「我の貞淑と 情熱と
愛の証となるならば」
サリーは目を背けた。リウスはこの詩を鼻で笑った。
「なるほど。久々にその冗談を言いに来たということか。今回はずいぶんな趣向だな。我らが英雄王も怒りそうだ」
建国の王が先住民に愛を誓ったはずもない。誇りと信義と善をすげ替えて、サリーはリウスに愛を告白したのである。
サリーは、何年も前からリウスに好意を示していた。間隔を空けて、異なる手法で何度か愛を告白した。リウスは、そういった告白だけは断りつづけてきた。それは、為政者としての未来を描いて燃えるリウスが、伴侶と生きる将来を思い描けなかったためである。
その拒絶が為されるたび、サリーはその告白を冗談だったことにしてごまかしてきた。リウスとて、何度も同様の告白を受けておいてそのごまかしを額面通りに受け止めるほどに鈍感なわけではさすがにない。しかし、リウスはサリーのことを少なくとも友としては愛していたから、それを失いたくなく、そのごまかしに、気づいていながらだまされるのであった。その結果、気まずい決別には至っていなかったのだ。
「いえいえ、今度は本気よ。私の血の色を確かめてみれば」
サリーはおどけた口調だ。
「はっ。何度もつまらない冗談を言うお前の血は、青いかもしれないな」
「あら。ひどい」
リウスは、このことばを受け、唐突に厳粛な表情となった。灯火が揺らめいて、サリーの瞳が輝いたように見えた。
「……そうだな。ひどいことを言った」
リウスは、声低く謝った。それから、懐に備えた短刀を取り出した。そして、力を込めて自らの指を小さく切った。わずかな痛みに顔を歪める。そのままサリーにその柄を差し出し、喉から絞り出すように言った。
「もし、本気だというなら、君の血を見せてくれないか」
自分に向けられた短刀の柄に、サリーは怯えた。光る刃の先端には、リウスの赤い血がたった一滴、しかし確かに乗っていた。
サリーは、その短刀を右手で慎重に受け取る。リウスの目を一瞥する。それから、短刀に付いたリウスの血を、左手の人差し指の腹で拭き取り、じっと見つめる。
サリーは口を引き締め、刃の先端を左手の中指に突きつける。しかし、右手は震えており、刃の先は定まらない。サリーはリウスの顔を、懇願するかのように見上げた。
リウスの心臓も早鐘を打つ。もはや雨音は聞こえない。リウスは深くうなずく。
サリーの刃の震えは収まった。意を決して、中指を縦に切り込んだ。そして、目を力強く閉じ、その左手をリウスの前に突き出した。その指から、明るい赤色が情熱的に迸るのを、リウスははっきりと確認した。
サリーは、目を見開いた。涙が出ている。
「私、やっぱりあなたを愛しているわ。冗談なんかじゃないの。止まらないのよ」
「ありがとう。サリー。すまない。すまない」
サリーはむせびながら涙を流した。短刀を落とし、ふらふらとリウスに近づき、両腕でゆっくりと、その太ったからだの背で両手を結んだ。リウスはそれに応え、サリーの体を強く引き寄せた。
さて、この一連の会話におけるリウスの反応は、これまでの人生と比較すればずいぶんな気まぐれと言って良い。このうるさい勝ち気な女との結婚を選ぶという考えなど、この時までリウスの頭の中に挙がったことはなかったであろう。それは、なぜ起こったのだろうか。ひとつ言えることがあるとすれば、このときほどリウスの心が空虚だったことは無いということである。頼ってくれる弟の態度を理解しないわけでは無かった。それでも、リウスは自分の存在の価値を見いだせずにいた。目標を失った男は、かつてなく愛を欲していたのだ。全てを忘れさせてくれるような、優しい愛を。