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愚者と城  作者: 的野ひと
31/31

31話 心配

 ロメス帝国は、必ずまた攻めてくる。サリーはそのことばを反芻した。それだけが、リウスを信じさせてくれる確かなことだったから。戦いは既に始まり、後戻りが利かなくなったのだ。なるほど遠からずそれは起こるだろう。

 十日が過ぎた。小さな戦いの後のさまざまな処理は終わり、日常が戻ろうとしていた。日常とは、戦いに備えるための日常であり、つまり兵たちがひどく苦しみながら訓練と労役に携わったという日々である。

 リウスはこのところ、以前に増して忙しくしていた。それは、サリーにとって都合が良かった。気まずかったから。ただ、城の内外の緊張感と対照的に、サリーとサリーの周りだけが緩慢で退屈だった。それは、とても閉塞的で居心地の悪いことであったから、サリーは何となしに市に出ることにした。用は無かった。


 もはや秋だった。ひんやりとした風が、晒された腕に鳥肌を立てた。曇天の下の街は、くすんで見えた。

 市は、閑散としていた。戦いが起こる前よりも。ぽつぽつと幕があり、たいてい女が立っていた。客もまばらであった。方々からかかるはずの呼び声も無く、ただ商品の後ろに暗い顔をした売り主が立っていた。

 女が多い売り主に混ざって、マルクスが市に出ていた。これは、サリーにとって驚くべきことであり、少しぼうっとしていたサリーは顔に打ち水を受けた思いだった。足を引きずっていたマルクスが。会議では毅然とした態度を示したマルクスも、やはり重傷だったから、訓練を免れて静養していたはずだった。

 マルクスは座っていた。焦点の合わない無表情で下の方を向いていた。サリーには気づいていないようだった。

 サリーが遠目にそれを見つけた地点は、互いの表情が辛うじて視認できる距離だった。その地点で、自然と、近づく足が止まった。

 リウスとのやりとりを思い出した。思い出すと、近づきたくない感情が増した。もしその話、つまりマルクスと将軍の扱いの話になれば、説明が立たないという考えがよぎった。ことさらにリウスの意思について問われることなど、なかろうものなのに。

 サリーは、自然な動きを装って、マルクスと反対側に体を向け、一つの幕の下へ入った。

 背後にあったからというだけの理由で入ったその幕は、乾物を売っていた。サリーは総じて乾物を好まない。特に、山菜や海藻の類を干したものを。それは、生食する場合と比較して、それらが持つ青臭い風味だけが、不必要に増大していると感じられるからだ。そして、並べられているのはまさにそれらの品々だった。

 売り主の女は、サリーを見て唐突ににこにこした。それは、サリーだったからかもしれないし、この日珍しい客だったからかもしれない。そのことが気まずさを上塗りした。

 サリーは笑顔を作って返した。ぎこちなさを自ら感じながら。売り主の体は細くやつれている。目の前の彼女も、ある種の困窮や悲しみの中にあるのだろうか。それはわからない。ただ、わずかな同情が生まれた。

 サリーは、じっくり選んだふりをしてから、何かの青菜や人参、ぜんまいなどを干したものを、五種類あまり購入した。

 売り主が、笑顔のままながらも、弱い声で言った。

「サリー様、随分とまあ、ありがとうございます」

「いえいえ。城の料理は、意外と偏っているのよ。こういう素材も欲しくなるの」

 思ってもいないことを言った。偏っているのはサリーのせいだ。

「ありがたいことです」

 売り主はただ感謝の弁を述べたに過ぎないのだが、その声の弱々しさと、小さな偽りに基づいて感謝されたという感覚が、サリーをじわりと苛んだ。いつもなら何てことのない小さな嘘なのに。サリーは、会釈してからさっと売り主に背を向けた。

 再びマルクスが視界の隅に入った。目を合わせたくないという感覚と、今のやりとりによって増幅されたある種の心配とがせめぎ合った。そして、遂にサリーはちらっとそちらに目を遣ってしまった。

 今度は、はっきりと目が合った。

 マルクスは、以前に市で会ったときの精気に溢れた目でなく、会議の後の廊下で話したときに一瞬見せた怖い目でもなく、ごく落ち着いた目をしていた。

 マルクスには似合わない大人しさは、サリーの中の心配を優勢に導く材料として十分だった。サリーがこのときそういう気分だったためかもしれないけれど。

 サリーはゆっくりとマルクスの下に歩み寄った。マルクスは静かな上目遣いでそれを見ていた。

 いよいよ間近に迫ったとき、マルクスは明らかな作り笑顔をサリーに向けて、軽く挨拶をした。

「サリー様、どうも。お元気ですか」

 そのことばには、売り主としての活力が感じられなかった。痩せた乾物売りの女が、強健な体つきのマルクスと重なった。

「ええ、まあ」

「それは良かった」

 マルクスは、再び口を閉じた。売り物の木工品が整然と並べられた、朝から誰も触っていないであろう台を、二人は見下ろした。サリーは、なんとなく一つの精緻な人形を指でいじってみた。

 卓上の人形に焦点を合わせながら、視界の奥にぼかしていたのは、腰かけるマルクスの腹だった。外見上は何ともないが、服の下には貫かれた傷がある。マルクスはそこに片腕を乗せていたわりながら、刺激しないように慎重に呼吸しているように見えた。

「傷の調子は、どうなの」

「まあ、治療中といったところですが、激しく動いたりしなければ痛みませんよ。何十日かすれば、私も他の兵とともに訓練に参加できるようになるでしょう」

「そう。それは、頼もしいわ。にしても、今は家でおとなしくしていなきゃいけないんじゃないの。もちろん、早く治すためだけど、それだけじゃなくて、見つかったら、周りに何かと言われるわ」

「そうですね。特に最近は、離脱行為についてあまりにも厳しい世の中ですから。ええ、確かに本当は家にあるべきです。でも、家で寝ているばかりというのも、なかなかやりきれないものなのです」

「そんなこと言ったって」

「退屈だからというわけではもちろんありませんよ。無力感に襲われるのです。私は無力でしたよ。結局、兵の立場は前と何も変わってはいないんですから」

「それは、扱いが厳しいって話よね」

「そうです。何ら変わっていない。反省していない」

 この危機だから仕方ないじゃないかとは、言えなかった。

「どんな状況なの」

「団結している。恐怖に支えられて。それはもう、戦いの後ですから。しかし、団結したからといって、人の体力の限界は越えられないのです。見に来られますか。いや、是非ともご覧になってください。訓練の様子を。サリー様ご自身で」

 サリーはそういった空間を忌避してきたから、自分の口が滑ったことを悔やんだ。けれど、このときはマルクスに対する同情から、これを応諾したのだった。


 サリーはこの後の昼下がり、街から離れた山際でおこなわれている訓練の様子を見に行った。

 依然として陽光が雲に遮られ、涼しくて快適だった。じっとしている分には寒く、薄着を嘆いたが、訓練する方には良いかもしれないと考えてみた。農地の間から、山際を見遣った。

 ずいぶん久々に訓練の様子を見たかもしれない。だから、少年兵というものを訓練で見たことが無かった。確かに、高い声で喚声を挙げる少年たちは、動きにまとまりが無く、他の者から一歩遅れていた。手元はおぼつかず、他の熟練した兵から見劣りしていた。

 こういう状態の少年兵を戦いに出し、むざむざ死なせたのかと思うと、父である将軍がいよいよ愚かしく感じられたし、マルクスらがそれに反発するのにも改めて得心した。

 また、全ての者が非常に疲労していた。陣を変えるために駆ける体勢を取るも、実際は歩く速さだった。掛け声とともに一斉に突き出される槍の動きは、へろへろとしていて敵に刺さりそうでなかった。

 サリーは、憐れむと同時に不安になった。ただ、その不安をぶつける先を見出せなかった。

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