30話 綱渡りの王権
「リウス、起きてるわよね」
サリーの声を聞き、横になっていたリウスは閉じていた目を開いた。
「ああ」
「ちょっと起きてよ」
「そうか」
気怠かった。だが、それでも身を起こした。起き上がるとサリーの表情が見えた。いつもよりも、切々とした目をしていた。
「ねえ。さっきの会議のことなんだけど」
「何だ」
「本当に、良かったの」
リウスが下した判断について言っていると理解した。サリーの声はかぼそかった。
「ああ、問題ない」
問題ない。実際にリウスはそのように考えていた。
会議の場においてマルクスが将軍の糾弾をしたことは、リウスにとって驚きだった。将軍の意図は、マルクスの独断を無かったことにしようというものであり、マルクスが何も言わなければ円満に物事が進んだのである。
しかしマルクスは、リスクを取った。将軍が経緯を包み隠さず話し、リウスがマルクスを処断すると言ったら、どうしたのだろうか。
ただ、将軍にその度胸は無かった。そして、リウス自身にも無かった。それでも将軍は部分的に抵抗し、マルクスの昇格を阻止したのだった。マルクスは、そうなることを予測していたのだろうか。
「マルクスに聞いたわよ。父さんの作戦じゃなくて、マルクスが飛び出したって。横取りじゃないの」
「それを知ったなら、お前もわかるだろう。会議で指摘されていた以上の決定的な背反だ。むしろ、それを加味するなら、処断せざるを得なくなってしまう」
「そうじゃなくて」
「いや、そうなのだ」
「じゃあ、処断すれば良かったじゃないの」
そのようにできなかったのは、人気に気を遣ったからだ。それをサリーは理解しているのだと、リウスは感じ取った。
法規を重んじるリウスにとって、この指摘はそれなりに痛かった。妥協したことを自覚せざるを得なかったからだ。
リウスは回答に詰まって窓の外に目を遣った。外は昼間にもかかわらず暗い。厚い雲が城を覆っているのだろうか。リウスは救われることなく、サリーのほうに目を戻した。サリーは、真剣だが穏やかな表情に変わっていた。
「ああ、本当はそうだったろうな。だが、そういうわけにもいかなかったのだ」
「でしょう。でもそれは、きっと正しいことなのよ。だって、私は見ていたんだもの。上から見ていたの。今までより圧倒的に少なかったはずの敵が、半日もかからずに、新しく建てたはずの壁を破ってしまうのを。そこで為す術なく殺される少年を。その危機を、彼が救ったのを」
「そう思うのか」
「ええ」
サリーはマルクスを強く支持しているように感じられた。リウスは一時的に戦いから離れた。尖塔の上からずっと見ていたサリーには、その奇跡性が際立って感じられたのかもしれない。
平凡な感覚だ。
マルクスを昇格させることも、できなかったわけではない。経緯はどうあれ、マルクスは敵将を討った戦功者だ。誰もがそう思っている。人気もある。リウスがそう認めれば、将軍の名誉を守りつつマルクスを賞すこともできたのだ。
ただ、とっさに思ったのだ。この男は危ないと。
サリーの訴えが、うるさい。サリーの市民的な感覚に癒やされ、それを愛していたはずなのに。
部屋の入り口に置かれた観葉植物は、背が高くなった。葉は顔ほどに大きく、誇らしげに四方に垂れている。視界の内にただ一つの緑色を、安らぎを渇望して見詰める。
リウスは自らが細い綱の上を進んでいる感覚に陥った。強い者を取り立てて、ロメス帝国に勝たなければならない。ただし、国の安定を守らなければならない。その二つの間を、進んでいる。落ちれば自らが死ぬ。
本当にそうだろうか。二者対立の枠組みは疑うべくもない、板挟みなのだろうか。
しかしやはり、サリーのことばは市民感覚に過ぎない、論理の脆弱なものだと、思った。
「ロメス帝国は、必ずまた攻めてくる。そのときまで、体制を不安定にする要因を作りたくないのだ。ああ、それが実際だとも」
「本当にそれで良いの?」
それで良いのだ。私を信じてくれ。そう言わなければならないのに、そのことばを喉から出せなかった。
「すまない」
サリーは、小さく息を吐いて顔を背けた。胸が怒気で熱くなるのを感じたが、それが理不尽な怒りであることを理解しており、そのせいでその感情をどこに吐き出すこともできず、不快感が残った。




