29話 傷
兵たちの間にあった熱狂が静まり、痛みが起こり、疲れが溢れ、悲しみに気づく。尖塔に立つサリーの眼下には、パラパラと陣に入る兵たちが居た。サリーはそれを見届けると、尖塔を降り、寝室に戻って眠った。
やがて夜が更けて、朝が来た。明るくなってみればロメス帝国の船は既に水平線と重なっており、王国には安堵がもたらされたのだった。
サリーは、リウスに従って海岸に向かった。海岸の壁の内外では、戦後の作業がおこなわれていた。サリーが訪れたのは、慰労のためである。そこには上部が崩れた壁があった。
壁の内側には、王国の人間の遺骸が少なからず存在した。その数は、およそ二百であった。約半数は新たに徴兵の対象となった少年兵であった。
誰かの遺骸の近くで立ちすくんで泣く民と、生々しい傷跡を淡々と治して歩き回る作業者が、サリーの目に焼き付いた。そういった人々に、声をかけることはできなかった。
海岸に出ると、遺骸はロメス帝国の人間が占める割合が増した。
その遺骸が砂浜に転がり、うっすらと寄せる海水に浸っている。ロメス帝国に対する怒りに燃えたこともあったサリーは、心のうちが凪いでいくのを感じた。
作業者である兵や民らは、ロメスの兵の骸から赤い革鎧を剥がし、靴を外していき、近くに転がった槍を拾った。
死を目の当たりにしなければならない処理は丸一日おこなわれ。遺骸はあるべきところへ運ばれ、血の跡は洗い流され、その結果として王国の壁の内外は平穏を取り戻した。
そして敵だった者たちも、誰も近づかない海の淵に、簡素な儀式を経て水葬された。サリーはそれを見ていた。
負担の大きい作業を終えた兵と民は、戦いの経過について噂をしていた。なぜ壁が破られたのかということについて。なぜ二百人が死んだのかということについて。なぜ勝てたのかということについて。戦功者は誰かということについて。
翌朝、サリーはリウスと並んで、会議の卓の最奥にあった。まず将軍が現れた。父である将軍は、目が泳いでいた。そして、続々と百人隊長などが現れ、最後に唯一人、十人隊長であるマルクスが現れた。
戦いを振り返るための会議である。まずリウスが勝利の祝福と労いを淡々と述べ、将軍に会議の主導権を譲った。
将軍は、戦いの内容について報告した。
「まず、船団からロメス帝国の使者が訪れ、陛下に再び降伏を要求しました。陛下はこれを拒否し、交渉は決裂しました。
ロメス帝国の兵は三千ほどで、攻略が困難であることから帰還が予想されましたが、意外にも攻め込んできました。ロメス帝国は一点集中の戦術によって一時壁を破り、市街に突入しましたが、我々はそのことによって伸びた敵陣の隙を突く作戦を敢行し、敵将を討つことで勝利を収めました。
こちらの死者は練度の低い兵を中心として、およそ二百。敵の死者は五百でした」
各隊長が、何かを言おうとしているとサリーは感じ取った。この報告に釈然としないのか。サリー自身も違和感があった。
百人隊長の一人が、手を挙げ、異議を唱えた。この総括は、本質的ではないと。この百人隊長はマルクスの上官に当たる人間であり、マルクスを追って精鋭とともに門を離れ、海岸で功を為したのだった。百人隊長は、マルクスが戦いについて証言する許可を求めた。
十人隊長マルクスは立ち上がった。会議に参加する者の中で最も大きな体をしている。顔や、腕や、腿にある誇らしげな傷が晒された。処置された脇腹が服の下で大きく膨らんでおり、深い傷が存在することを想像させていた。しかし、マルクスは全く痛みを感じていないように見えた。マルクスの声は堂々としていた。
「二百を失って五百を討ったから良いというような言い方ではありませんか。練度が低いから失って良かったような言い方ではありませんか。そんなはずはありません。戦いをご覧になっていた各百人隊長殿ならおわかりでしょうが、我々は無用な犠牲を払っています。練度の低い若い兵を前線に並べたことで、攻められた箇所で彼らは十分に力を発揮できずに倒され、またそれを庇おうとした者も倒されました。迅速な援軍も送られず、被害が拡大して最終的には壁が破られた。こういった戦いの内容は、将軍閣下の無策によるものです」
静まりかえった。マルクスはさらに批判を続けた。敵兵が少なかったのだから練度の低い兵を出す必要がなかったこと。壁の背後で援軍を動かす態勢を整えていなかったこと。かつてのアマデウスがより少ない王国の兵でより多くの敵兵を倒していたこと。
将軍は、それぞれの指摘について、まともに反論することができなかった。
サリーは胸が軽くなる感じがしていた。マルクスのことを大して好いていなかったが、嫌いな父が糾弾されるのを見るのは気分が良かったからだ。それに、今回のことに関してはマルクスの活躍のおかげだと思っていたし、そういう声が民の間に多いことも知っていた。民の間では、マルクスを将軍にしてほしいと囁かれていたのだ。そんなことはなかなか起こらないだろうが、少なくとも父は引退したほうが良いのではないかとサリーも感じていた。
マルクスの上官は、マルクスが敵将を討った功績を述べ、それを理由としてマルクスを百人隊長に推薦した。
しかし、将軍はこれを拒んだ。
「私が指示を出すよりも前に、マルクスを初めとした兵は出陣した。結果、勝てたから良かったようなものの、統制を乱したことは本来なら処罰されるべきことだ」
将軍の声色は、サリーが父として聞いたことがない怯えを含んでいた。父は嘘をついていると感じた。リウスが尖塔の上で、今回の勝利が将軍の策によるものでないと漏らしたのを、サリーは思い出した。
全体を見渡すと、皆がもどかしそうにしているのがわかった。壮年の百人隊長たちも、欺瞞を理解しているのだ。つまり、詳しいことはわからないが、誰もが何かの嘘を嘘だと知っている奇妙な状況らしかった。
ずいぶんな間があった。リウスが隣で息を吸う音が聞こえた。最終的な決定の権能を持つのはリウスだ。
「将軍の策に関する指摘は、これは結果論というものだ。総勢で敵に当たろうとしたことが不合理だったとはいえない。もちろん、被害は痛ましい。今後の戦いに向けて更に用兵を磨いてもらう必要があるが、特に処遇を変えることはしないものとする。
また、マルクスの扱いについて、将軍の言と、百人隊長の言を比べるなら、今回は将軍に理があるのではないだろうか。将軍の命令に従ってまとまった攻撃を起こしたならば、より危険の少ない形で決着したことだろう。そして、それが軍律というものだ。とはいえ、マルクスらの勇敢さ、功績は否定のしようもない。処罰は免れるべきである。総合的な判断に基づき、現在の地位に留めるものとする」
会議にため息が満ちた。安堵のため息よりも、落胆のため息が多いように感じられた。
リウスを妨げないと決めたサリーではあった。だが、マルクスの言をなぜ認めないのか、サリーにはわからなかった。それでも、自らの軽率さに対する反省と、リウスに対する尊敬から、ことばを発することはしなかった。
会議が終わってから、サリーは廊下をゆっくりと歩くマルクスに追いつく形となった。サリーにはその歩みが、体をいたわっているように見えた。
「たいへんだったわね」
サリーは後ろから声をかける形となった。振り返ったマルクスは、一瞬怖い顔をしているように見えたが、すぐに穏やかな表情となった。
「ああ、サリー様。ありがとうございます」
「やっぱり、脇腹が痛むんじゃないの」
「ええ。正直、とても痛いですね」
「そう」
「でも、大丈夫ですよ、私は。哀れなのは、戦う術も知らずに死んでしまった若者たちです」
「それは、そうね」
マルクスが神妙な顔になった。
「とはいえ、会議の場ではお父様を非難するような形になってしまって、申し訳ございませんでした」
「そんなことは良いのよ。誰が見たって、父のほうがおかしいわ。あなたが戦功者よ」
マルクスの表情が一段明るくなった。
「ああ。サリー様にそう言っていただけると、私としても安心できます」
「リウスは、父をひいきしすぎなのよね」
「はは。将軍が長年務められてきたことは否定できませんから。とはいえ、もはやご高齢です。後進に道を譲っても良いのではないかと、思う部分もあります」
「本当よ」
「陛下にも、そういった点も含めて今回のことをご理解いただきたかった。陛下は経緯を知っていらっしゃるのに、なぜ今回のようなご裁可となるのか」
いざ、マルクスの方からリウスの判断について指摘されてみると、胸がちくっとした。マルクスが正しいと考えてはいるけれど。
「そうね」
「ええ」
「ところで、今回の経緯というのは?」
サリーはマルクスから、急襲作戦の経緯を聞いた。マルクスの独断であることや、会議での将軍の発言は、後から都合良く乗っかったものにすぎないということも。サリーはここに来て合点がいった。
マルクスはさらに語気を強めた。
「私は、ちょっとやるせないですよ。将軍のことについても」
「そう」
「ええ。アマデウス様が居た頃と違って、今の軍には全く鋭さがありません。今回の戦いは、本来なら全く難しくなかったのです」
「確かに、アマデウスが居た頃は皆よくまとまっていたかもね」
「ええ。ただ、いろいろ思うところはありますが、今回のことについてはサリー様が理解してくださったから、それはやはりありがたいですよ。サリー様がいらっしゃる限り、きっと次の代には、とても良い世の中が訪れると信じられます」
「ありがとう」
褒められた形なのだが、今の世の中を否定されていると受け取ったサリーは、あまり嬉しいとは思わなかった。
「では、私はこれで失礼をいたします。よく休むように、家族にも言われているのです」
二人は挨拶を交わした。サリーは、遅々とした歩みのマルクスを置いて、足早に去った。
リウスは既に寝室に戻って横になっていた。サリーは、リウスに真意を聞きたいと思った。リウスがおかしいのではないかと考えると、頭が痛くてたまらないのだ。将軍の怯えた声と、マルクスの批判と、若い遺骸に泣きすがる民とが、頭の中でぐるぐる、現れては消えた。




