26話 砕けた粘土板
酷暑の夏が終わり、秋が訪れようとしていた。
その昼は曇り空であった。王国と海の上を灰色の雲が覆っていた。しかし、雨は落ちていなかった。
壁の建設は続き、元の塁の高さを越えようとしていた。背面を塁の跡に支えられた壁は、突貫工事で凹凸が多かったが、それでも多少は堅牢になり、防御機能は元よりも増したといえる。とはいえ、将軍が兵の多寡を覆すために必要であるとして求める高さには、及ばない。
海と雲との間を割って船団が現れたという報告が入ったとき、それを聞いたリウスは硬直した。しかし、続けて入った報告によると、その船の数は以前の戦いの半数に満たないという。
リウスは将軍を呼び出した。
「明日には、船が着くだろう。壁は完成していないが、布陣はできるな」
「可能です。そのように準備を続けてきました。兵も増えています。二倍に満たない敵に負けることはありません」
「よし。敵は多くはない。五万は、やはり脅しだったということだ。必ず守りきれ」
リウスとしては、訓練や壁の建設が半ばであることが不安でたまらなかったが、鼓舞するしかなかった。
将軍は、兵の配置を命じた。
布陣は凡庸だった。壁全体に、均等に兵を配置したものであった。特に少年兵は、どこでも練度の高い兵に導かれるように一様に編成された。また、壁の門がルー川の河口と城の側にある。特に壁の厚くなったそこを、精鋭が守った。そこにはマルクスも居た。
将軍自身は、門の背後の盛り土の陣で、壁と海岸の全体を見渡して指揮を執ることとなった。リウスはそれに伴った。
布陣から一晩が経ち、ロメスの船は岸近く、矢の届かない海上に集結した。王国の者は皆、その動静を見守った。ロメスの船が一挙に攻めてくることはなく、一艘の船が岸に向かってきた。リウスは将軍を通じて、矢を射かけないように命じた。
岸に降り立ったのは、かつて訪れた青年の使者だった。壁の門が開き、敵意のうちに陣まで導かれた。王国の兵全てが使者を睨んでいた。
陣において、わずかに模様で装飾された木製の四角の座にリウスは座っていたが、使者が現れると立ち上がった。見下ろすリウスの前に立った使者は、涙目でリウスを睨んでいた。震えるか細い声で、呟いた。
「私は、欺かれたということですね」
「そうですな。私の弟が、お前たちに欺かれたように」
「今からでも遅くはありません。武装を解き、人質を出すのであれば」
「この状況を見て、もはやその交渉に意味はありますまい」
リウスは使者のことばを遮って穏やかにそう言った。使者は口を開閉したが、そこから声は出てこなかった。深く息を吐いて、俯いて、改めてゆっくりとことばを発した。
「あなたの地位は、実態としては変わらないのですよ。我が国だって、わざわざ元の領主に手出しして大勢に反感を買うような真似はできないのです。税の大きさや、いくつかの法が変わるだけのこと。大人しくしていれば、ご子息だって平穏に、いや豊かに生きていける。あなたさまは、話の分かるお方だと、思っていたのです」
「それは、あまりにも身勝手というものでしょう。貴国に降ることに幸せがあると思う民が、どこに居ましょう。この国にも、貴国の辺境にも、居ません。あなたのような貴族が、皇帝とともに考えているだけの虚妄です」
「そのような、表面的な、偽善を語るのですか」
「私は王ですから」
「何も分かっていない。あなたの利は保たれるというのに。その道の先には、死しか無いというのに。民を苦しめているのは、あなたではないか」
「黙れ」
リウスは一瞬眉を吊り上げた。しかし、すぐに元の穏やかな表情に戻った。
一方で使者は、唇を噛んだ。落ちる涙が盛り土を濡らした。
「私は、殺されることになるでしょう」
「哀れですな」
こう言ったリウスは、無表情だった。目の前に窮する青年について、何も思っていなかったからだ。哀れんでいなかったが、憎んでもいなかった。自然の成り行きであると思われた。最近のリウスには、多くの生死がそういうものだと思われた。
使者は、懐から粘土板を取り出した。改めてリウスを睨んでから、それを地面に叩きつけ、粉砕した。それから、早足で盛り土の陣を跡にした。
リウスは、兵に命じてその粘土板を元のようにつなげさせた。粘土板には、ロメス帝国が、人質と交換にリウスに王国の領土を委せることを証す印綬を授ける旨が記され、焼き固められていた。リウスは、粉砕された粘土板を、鼻で笑ってみた。
「いよいよ、決裂というわけだ」
将軍も、兵もそれに応えなかった。リウスは笑顔を失った。将軍は、視線を使者が去った門の方へ向けた。
「あるいは、帰るのではありませんか」
「どういうことだ」
「あの兵力は、せいぜい三千です。それで、向こうとすれば今までさんざん苦しめられたこの地を落とそうと考えるでしょうか。あれは、全てがあちらにとってうまくいく前提で用意された兵でしょう。ロメスの治が成ったと民に威を示し、降ったリウス様を監視し、人質を連れ帰るためだけの兵です。もしかすると、リウス様の策が実ったのかもしれませんぞ」
リウスは、もっともだと感じた。そして、そうあってほしいと願った。
リウスたちは、状況を見詰めた。使者の船が、船団に辿り着こうとしている。
その後、雲の裏の日が高くなるまで、船団は迫ることも戻ることもなかった。静かな波の上で揺れ続けているのはなぜか。
将軍の言は納得の行くものだったが、リウスは全く安心できなかった。槍の高さがまばらな陣は、頼りなく見える。本当に勝てるのだろうか。リウスの記憶に焼き付く、臆病な使者の反抗の目。追い詰められた者は、何を言うか分からない。
兵を乗せた船は首を一斉に岸に向け、迫ってきた。将軍の希望的な予測は外れたのである。兵たちに緊張が走った。怯える少年兵を、年長の兵が宥めているのが、リウスの目に入った。
浅瀬に船が迫り、双方から矢が放たれた。




