25話 木彫り
夏が続いていた。
壁は、日に日に高くなっていて、既にサリーの背丈を越えていた。サリーにとってその壁は、同時に胸の中で高まっていく満足感を表現するものでもあった。いわばリウスの事業が、確かに国土を守ってくれそうな実物として目の前に現れていく感覚だ。そしてそれは、リウスが決意を持っておこなったことであった。その実現の感覚は、絶え間ない喜びと安心感をサリーに与えた。
サリーは、リウスの冷たい判断を支持していた。リウスの側で処刑を眺めたことは、サリーにとっても確かに悲しいことだったし、理不尽なことだと思われた。ただ、サリーはリウスの悲痛と、職務に対する誠実とをよく理解していた。判断の合理性はサリーにはわからなかったが、リウスに対する敬慕からそれを肯定したかった。
しかし、寝室でのリウスは、サリーに対して弱音を隠しきれなかった。時折、自らの行為の論理を独り言のように説くのだった。サリーは、繰り返されるそれを、ただうなずくことで受け止めた。リウスがそういう肯定を必要としており、かつサリーにしかそれを求められないことをよくわかっていたからだ。
サリーは本当はそれが嫌だった。リウスには、確固たる態度だけを示し続けてほしかった。民の前で示すのと、同じような。リウスがさまざまな判断や犠牲に悩んでいるのを間近で見ると、心に影が生じた。その影は、リウスをただまっすぐ信じようとするサリーに、迷いを与えるものだった。でも、その迷いに答えを出す方法をサリーは知らず、かつ知らないということをよく自覚していた。だから、悩みたくなかった。
処刑の日から九日後、サリーはロトンを連れて広場の市を目指した。気楽な賑わいを求めたからだ。
しかし残念なことに、遠くからでも市が閑散としているのがわかった。晴天にもかかわらず、小さな日よけの幕がいくつか目に入るだけだった。
広場の中央に至ると、よく通る声が響いた。
「お、サリー様ではないですか。まあ、見ていってくださいよ」
ある幕からの馴れ馴れしい男声だった。サリーはその者を知っていた。マルクスという男だ。
サリーよりいくつか年下のその男は、長く兵役にある人間だった。近年何度も、最も優れた十人隊長として表彰されており、サリーはその顔と名前を覚えていた。
呼ばれたからにはと、サリーはその天幕に近づいた。商品が置かれた台を挟んでサリーがその男を見上げる形となった。サリーよりいくつか年下ながら、隊長となって表彰されるには肉体的にも優れている必要があるらしく、筋骨隆々の上背を誇っていた。大丈夫といったところである。その野暮ったさも含めてサリーの苦手とする種類の人間だった。
その幕では装飾品の小物が売られていた。そのなかに、ずいぶん出来の悪い手のひら大の木彫りの人形があった。その人形は、ヒトデのようなはっきりしない肢体で、人間のつもりだということはよく見なければわからなかった。顔に相当すると思しき部分には、目や鼻を彫ろうとした形跡があったが、それは意味を持たないいくつかの突起を成しているのみだった。他から浮いたその存在を、サリーはしげしげと眺めた。
「歳の離れた妹が三人居ましてね。これは、たぶん一番下のが作ったやつです。ちょうど、ロトン様とおなじくらいの」
そんなサリーを認めて、マルクスは説明した。サリーはいくらか親近感を覚えた。
サリーが注目したのは拙い人形だったが、他にも手のひら大の木彫りは並べられていた。なかには、それなりに精巧なものもあった。羽根の一枚一枚がいきいきとしたふくろう、体を曲げて勢いよく転回しようとする魚、槍を正面に構える気高い壮士。ロトンは、それらに感動しているようだった。
「わたしも、こういう物を作れたら。わたしと同じくらいの子どもが、こういう物をつくっているなら」
ロトンに工芸の類いをさせたことは無かった。リウスが指導者としての知識ばかりを教えたがったからだ。サリーは文化的なことも学ばせたかったが、せいぜい古い詩くらいしか教える機会が無かった。
マルクスが勢いのある声で応えた。
「その辺は、姉さんたちが作ったものだけどな。ロトン様はそういうことをしてこなかったのかい。ノミくらい使えたほうが良いぞ」
サリーはその指摘をうるさく感じた。とはいえ、ロトンの数少ない望みを叶えたいような気もした。
「せっかくだから、どれか買ってみましょうか。お手本にして、作ってみたら」
するとロトンは、精緻な羽根の鳥を選んだ。ロトンらしいとサリーは思った。サリーが対価を払うと、マルクスは謝意を示した。
「ありがとうございます。ロトン様は、将来有望ですよ」
「あら、それはありがとう」
「ええ、間違いありません。机にかじりついていたって、人の苦労はわからねえもんです。ちょっとは手を動かした方が良い」
「そうかしらね」
「ええ、そうですとも。きっと将来、優しい王様になられますよ」
「ふふ、調子が良いわね」
マルクスの声色は穏やかだったから、サリーはそう言って軽く流そうとした。しかし顔を見上げれば、その表情はこわばっていた。サリーは気圧されて少し固くなった。マルクスは、サリーの目を見詰めてから、語りはじめた。
「最近は、こういう装飾品の類いはめっきり売れなくなりました。皆、余裕を失っているのです。市を出す者が減ったのも、同じ理由です。農の方も、最近はままならないのです。食品や木や石を加工して露店を出すような体力は、多くの者が失っています。夏が訪れて麦の収穫がありましたが、脱穀の作業すらままならずに、刈ったままの麦がそのまま積まれた家がたくさんあります」
「そう。そうよね。たいへんな時期だもの。あなただって、そうでしょう」
「ええ。私はこれでもなんとかやっていますが、これも妹たちの助けのおかげです。そうでなければ、私だってままならなかったでしょう」
「まあ」
サリーは驚いてみせたが、実際にはそうとは思わなかった。マルクスの体が並ならず丈夫そうだったからだ。
「どうかこのことを、リウス様にもよく伝えて、この農繁期だけでも務めを免れられるよう、お願いしていただけませんか」
「確かに、たいへんなのは違いないわね。でも、一応伝えておきましょう」
迫力に影響されてこう言いながらも、あまり意味のないことだとサリーは感じていた。
「ありがとうございます。なかなか理解をいただけないかもしれませんが」
「あと、せっかくだからこの人形も、いただくわ」
サリーは、一番下の妹が作ったという、形のはっきりしない人形を手に取った。
「はは。ありがとうございます」
マルクスは、このとき初めて大きな頬を綻ばせた。
夕食が終わった。私室にて、サリーとリウスはくつろいでいた。リウスは机の前にあったが、最近のリウスは木板を見なくなっていた。リウスが太った頬に杖を突いている様子は見よいものではなかったが、疲れているのだろうとサリーは察していた。
サリーは約束どおりリウスにマルクスの願いを伝えた。リウスはため息をついた。
「そういう声も、あるか」
「あの男の人は元気そうだったけど、今の時期に苦労している人が多いということばは、嘘じゃないと思うわ」
「私は農のことはわからん。ただ、今はそのことばは容れられん」
「そう。それは、残念だけど、きっと仕方ないわよ」
サリーは少し苦い気分になったが、食い下がらなかった。
「そうだ。仕方ないんだ」
「そうね」
リウスの表情は気怠げだった。
「それから、今はあまり無用な外出はしないほうが良い。何があるかわからない」
サリーは、リウスの警告を受けて寂しくなった。怠そうな表情で話すリウスが、考えなければならないということ自体にうんざりしていると気づいたからである。それから、徐々に寒々しくなった。リウスが自らの正当性の責めを負うだけでなく、孤独をも自認していると痛感したからである。サリーはマルクスのことばを思い出した。机にかじりついていたって、人の苦労はわからねえもんです。




