24話 断つ
日が水平線から出るよりも早く、リウスは寝床から出た。そして、諸官に命じて塁の破壊工事を始めさせた。青年の使者を欺くためである。
使者が目を覚ましたという報せがリウスのもとに入ったのは、それからずいぶん経って、日が中天に昇ったころであった。酔い潰れた使者は、夜のうちに寝室に運ばれていたのだった。
リウスは、早足で使者のもとへ向かった。使者は、頭を抱えて寝台に座っていた。
「昨晩はお疲れ様でございました。さあ、まずはこれをお飲みになってください」
従者に碗の水を差し出させた。使者は、謝意を示してから碗に口を付けた。飲みながらも、上目遣いでリウスを見やってくる。
「いや、昨晩は全く、本当に失礼を申しまして、何とお詫びを申し上げたら良いか」
「いやいや、全く問題ありませんよ。お楽しみいただけて何よりです。それに、使者様はおかしなことは何もおっしゃっていませんでしたよ」
リウスは笑顔を作った。使者も、引きつった笑いでそれに応えた。
「それでは、私は帰国させていただこうと思います。広間でのやりとりについては、確かにお伝えしましょう」
「いや、お気分も優れないことでしょう。船に乗られる前に、いま少しお時間をいただき、是非、こちらへお越しください」
リウスは、そう言ってから使者を城の尖塔の頂に連れて行った。
快晴のこの日、尖塔からは王国の全てが見渡せた。リウスは使者の視線を、山から、農地、町、海岸へと導いた。海岸には人々が蟻の列のように群れを為し、塁の両側から槌を振るい、砂を運んでいた。
「ご覧ください。昨晩のお約束どおり、塁を壊させています」
それを聞いた使者は、人の群れをじっくりと見遣った。その視線は、塁の多方面に移った。きっと、作業の内容を目を凝らして確認しているに違いない。そして弱気だった顔は、青から少し赤くなった。しかしその赤さを隠そうともしていた。そして、ことばを選んでか、時間をおいて口を開いた。
「本当にこうしていただけるとは、考えておりませんでした」
使者の口調は、困惑して辿々しかった。
「それも仕方の無いことです。私たちが使者様のご信頼を得ることは、なかなかできますまい。だからこそこうして、形に見える誠意をお示ししたいのです」
「いえ、そういう意味で申したのではないのです。昨晩の発言というのが、本気で……」
リウスは、使者の発言を遮った。
「本気で、考えておりますとも。どうすれば貴国にお許しをいただけるか。どうすれば生き延びられるか」
「ああ、ええ……。それは、本当に素晴らしいことです。そう。我々の皇帝陛下も、お喜びになるでしょう」
「そうでありましょう。これも、使者様のことばによるお導きのおかげでございます。誠に感謝しております」
「私の、ですか」
「左様です。使者様のおことばがなければ、このようなことは、考えられませんでした。これは、使者様がこの地にもたらした恩恵であり、貴国にもたらす大功であります」
「ああ。私はそのような者では」
「そのようなお方なのです。ですから、使者様におかれましては、ぜひともこのことを皇帝陛下にお伝えいただかなくてはなりません。それが私の唯一のお願いでございます」
「それは……」
「どうか、どうかお願いしますぞ」
リウスは使者をかっと見詰めた。使者は、視線を逸らした。リウスたちの立つ尖塔の頂の床の黒石を、陽光が熱く焼いている。
そしてこの後、青年の使者は諸官に見送られて、多くの貢ぎ物とともに海に出た。
リウスは、使者の顔が分からない程度に離れたのを確認してから、官吏に告げた。
「よし。この破壊工事を続けるのは、海から見える側だけで良い。日が沈めばそれも終わりだ。半日で随分崩したな。この調子で、一日でも早く、高く、城壁並みの壁を築くのだ。半ば崩した塁は、壁の背を支えるために残すのだ」
官吏は、この命令を受けてやっと、先ほどまでの工事が偽りであり、ひいてはこの二日のリウスの態度もまた偽りであったことを知ったようだった。すごすごと、その命を壁の作業者たちに伝えた。
一方で、民は官吏以上に混乱しているようだった。リウスの一貫しない命令群に関して、さまざまな憶測が飛び交ったようだ。この後数十日のうちに、いくつかの噂はリウスの耳に入った。その中にはリウスの意思に近いものもあれば、使者が持ち帰った偽りに近いものもあり、全く的外れなものもあった。リウスはそれらを黙殺した。
また、交易や漁業のための船出を禁じた。壁の建設の情報がロメス帝国に漏れるのを、少しでも遅らせたかったからである。
壁の建設は難航した。まず、民の家から徴発した石材は、その形状が一定でなく、新たに整形しなければ使い物にならなかった。ノミ等によって削る技術を有する者は多くはなかったから、このことによって工事は半月遅れることとなった。とにかく休みなく作業をおこなうことをリウスは命じた。
さらに、二千五百の兵を半年で使える物にするためには、それまで数日に一度であった訓練を毎日おこなわなければならないということが確かめられた。将軍がそう言い張ったのである。そして、リウスにとってその主張は説得力があった。新兵として一斉に加入した数百の少年らは全く無邪気で、いとけないとさえ思われ、戦って生き延びられると思えなかったからだ。よって、リウスはこの訓練を許した。
伝統的に、王国においては兵役にある者が労役にある。兵役に無い者も駆り出されている状況にあって、兵役にある者が壁の建設の役務を免れることはできなかった。それは、時間的制約からも許しがたかった。
毎日酷暑の下に働く少年の兵は、しばしば訓練や作業の場で倒れることとなった。本当に眩暈に倒れる者もあり、わざと倒れる者もあったようだ。倒れれば、棒で打たれるが、水が与えられるのである。酷使であった。
一月ほど経つと、仮病の類いによって兵役を免れる者が居るという報告がリウスの下に入った。リウスはこの件について、厳格に扱うように命じた。それは、探し出してよく注意し、再び役務に就かせよという意味である。
将軍らはそのように試みたが、兵役逃れはその後も増えつづけた。将軍の再三の報告に、リウスは焦った。
「こんなことで、戦えるはずが無い」
「その通りです」
「訓練を緩めることはできないのか」
「それはできません。頻度は増やしていても、内容は通常の訓練です。組織としてまともに動けるように必要な訓練の総量は、変わらないのです。一年以上かかっても良いのですか」
「それは許されない。時間は無いのだ。あくまでこの訓練を達成する方法を模索せよ。罰則はどうなっているのだ。軍規には、罪が定められているのではないのか」
リウスのこの問いに、将軍は鼻で息を吸い込んだ。
「訓練および戦場における逃亡の罪は、死に価すると定められております。しかし、この法は百年間用いられたことが無いと聞きます。兵役逃れは生じず、戦場において逃げる者も少なく、また諫めれば従ったからです。先の戦場においても、それは同じでした」
「仮病と逃亡とは等しく扱えるのか」
リウスは唇を噛んだ。なお、酷を重ねなければならないのかと。
ここで、アマデウスならばどうかと思った。アマデウスがこの法を適用することは絶対に無いだろう。そもそも、人気のアマデウスが王なら、逃亡が続出する状況にならないだろう。さらに言えば、あの軍才なら、建設と徴兵とを急におこなうという凡策を用いる必要も生じていないかもしれない。
そう思うと、リウスは惨めな気分に陥った。その苛立ちのなかで、目を閉じて考えつづける。
当のアマデウスは、しかし死んだのだ。甘さのために。そして、リウスや群臣が殺したとも言えるのである。では、リウス自身が唯一アマデウスに勝ると言える点は、何か。
「逃れる者は、軍規に照らして処刑せよ。そのように、将兵には初めから伝えてあるはずだ」
リウスは、机を叩いてそう言った。自らの迷いを断つためでもあった。
将軍は、この命令を兵の前で布告したものの、すぐには実行に移さなかった。百人隊長らに管理の徹底を命じたり、指導を試みたり、自ら棒で打ったりした。しかし、リウスの認識は皮肉にも誤っておらず、訓練の体裁は日に日に崩れていった。
リウスの命令から十五日が経った。将軍は、最もあからさまに風紀を乱していた一人の元退役兵を、仕方なく処断することにした。
それは、衆人環視の海岸でおこなわれた。年下の兵に引き立てられながら、元退役兵は恨み言を吐きつづけた。なぜ自分がと。引き立てる兵も、執行人となった兵も、それを止められなかった。そのことばはリウスにも向けられた。だがリウスも、それを辞めさせなかった。むしろ、その一言をも聞き漏らさぬよう、耳を傾けた。
柵越しに斬首を見る民も同僚の兵も、多くは困惑しているようだった。一人一人の賛否はリウスの目にはわからなかったが、恐れと悲しみとが在るのがわかった。
そして、首は断たれた。年に何人か現れる重罪人と同じように簡単に。ただ、それらの者とは異なる感情に包まれて。
ともかく、この件以降、王国にとって悪質な怠慢は絶たれ、工事と訓練とは順調に進んだ。




